肩天秤
時計の針は間もなく5時を示そうとしていた。そろそろ家を出ないとバイトに遅刻する。
だが今日はどうにも「いらっしゃいませ」という気分になれなかった。
「風邪ひいたことにしてサボろうぜ」
右の肩から声が聞こえる。
「そんな嘘はよくないわ。さ、支度をして出かけましょ」
左の肩からも声が聞こえる。
彼の右肩には悪魔が片膝を立てて、左肩には天使が行儀よく脚を揃えて、それぞれ座っていた。
「だいたい時給760円のバイトなんて、休んだって大したことないっつーの」
「お金の問題じゃないわ、一緒のシフトの人に迷惑をかけるのよ」
「だからどうした? 誰だって急な体調不良くらいあるだろうが」
「本当なら仕方ないけど、迷惑をかけるとわかっていて嘘をつくの?」
漫画やギャグアニメなどではおなじみの、心の天使と悪魔が言い争う光景。
21XX年では、それは現実だった。
21世紀ももうじき終ろうかという頃、秘密裏に行われていたある研究の成果が花開いた。
様々な分野からブレーンをかき集めて行われたその研究は、人間の良心と欲望、すなわち心の天使と悪魔を抽出し、具現化するというものだった。
この研究が行われた背景としては、当時、人を欺いたり、同情心などに付け込んだりする凶悪な犯罪が激増したためであり、臨床実験を繰り返した結果、世界統一政府は全国民に対して、この研究の成果を適用することを決定した。
その結果、22世紀の現在、すべての人類の右肩には欲望を具現化した悪魔が、そして左肩には良心を具現化した天使が鎮座することとなったのである。
この天使と悪魔は人によって大きさが違い、それがそのまま天使と悪魔のパワーバランスを表している。
天使が大きい人は、自分の欲望を理性で抑え込むことのできる正しい人であり、悪魔が大きい人は法やモラルを犯してでも自分の欲望を優先させる傾向がある。
人々は皆天使の大きい人との付き合いを望み、悪魔の大きい人と縁を切りたがった。それはある意味で当然のことである。
始めはプライバシーの侵害だなどと本制度に反対していた人たちもいた。
しかし、肩の天使と悪魔、とりわけ悪魔の存在が未然に犯罪を防ぎ、また起きてしまった犯罪者の処罰や更生に関しても口先だけの反省したフリが通用しなくなり、社会は明らかに、より安全・安心の方向に変わっていった。
これだけ成果が上がれば反対派が表立って文句を言うこともできなくなり、やがて天使と悪魔を肩に乗せている光景は、人類の正しい進化の姿として広く受け入れられた。
悪魔が大きい人、あるいは悪魔しか持たない人は犯罪者予備軍として、特定施設に軟禁され、再教育を施された。無論天使が大きく育つまで、出所することは適わない。
天使が大きい人、あるいは天使しか持たない人は理想的な正しい人物として、その天使の大きさによって地位や名誉が与えられる。
しかし天使しか持たない様な人格者は、そのようにして与えられる地位や名誉を喜びもせず、そんなことより世界をよりよくするために人類はどうあるべきかを滔々と語った。
その姿がまた崇高で美しいと、天使と悪魔を両方持つ凡人は感激し、彼らを神のように崇め、あるいは自らの凡庸さ、心の醜さに失望したり恥じ入ったりしては心の悪魔をどうにかして消そうと躍起になった。
その努力が実を結び、殆どの人類は大きな天使と小さな悪魔を肩に乗せ、理想的社会の実現を喜び、この素晴らしい世界が未来永劫続くよう毎日祈りをささげている。
ところで、人間の持つ力、科学の発達の裏には、常に何らかの欲望があった。
安全への欲求、生命の維持への欲求、性的欲求、贅沢への欲求、怠惰への欲求、支配への欲求……。
それらは知的好奇心や向上心という形をとって、人類の発展と繁栄に一役買っていた。
悪魔を排除した人間という種が緩やかに滅亡に向かっていることを、まだ誰も気づいていない。
投稿日時:2013年09月13日 05:10
お題/条件:架空の生物を登場させること
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます