「三連休は旅行に行かないか?」 家族サービスに縁のない夫が珍しくそう言いだした。
バスは中部地方の山道を静かに走っていた。急勾配とカーブを繰り返す山道は秋の草木に彩られて、都会で過ごす者たちにとってはなかなか見ることのできない美しい風景。
ツアーの名前もそのものずばり「山の紅葉と秋の味覚 満喫ツアー」であり、この美しい山道は見どころのツアーの売りの一つであった。
ところが、バスの乗客で窓の外を見つめているものはほとんどいない。子供たちは携帯ゲームに夢中、母親もつまらなそうな表情でスマホをいじっている。父親たちは窓の外に顔を向けてはいるが、紅葉を楽しんでいるというよりは、妻や子供から視線を外しているだけのことだ。
昨日のこと。残業を終えて帰ってきた高橋一雄(48)を迎えたのは、レンジで温めなおした晩御飯と妻ゆり子(42)の溜息だった。
「明日はツアーだっていうのに、今日くらい早く帰ってこられないものなの」
「そういうなよ。明日からの三連休のために、今日中に仕事を終わらせなきゃいけなかったんだから」
「仕事仕事って、そんなに仕事をしているならどうしてこんなに稼ぎが悪いの。せっかくの三連休、あなたの同期の村上さんは北海道旅行だっていうし、純のお友達の幸一君ちは沖縄、隣の近藤さんなんてお友達と韓国旅行……どうしてうちはバスツアーで果物狩りなのよ」
「稼ぎのことは言うなよ、不景気なんだからどこも同じさ。それに果物狩り、君も純も賛成したじゃないか」
「あなたが張り切っていたから反対するのも悪いと思っただけよ。純は家でゲームしているほうがいいって言ってたし、私だって果物狩りするくらいなら、デパートにでも行って秋服の一つでも買ってもらったほうがよかったわ」
「じゃあツアーなんてやめるか? お前がいつも家族サービスしろっていうから企画しただけで、俺だって本当なら家でのんびり寝てるほうがいいんだ」
「何言ってるの、ツアーは明日なのよ。キャンセル料払わなきゃいけないじゃないの。明日はあなたが責任もって、ご近所に配れるくらい梨とブドウをもぐのよ」
「俺一人でか」
「当たり前でしょ。じゃ、私もう寝るから。食べ終わったらお皿、シンクに浸けておいてね」
そう、程度の差こそあれ、どこのご家庭でもこのような会話が交わされたのだ。ツアーの客八家族二十七人の間に笑顔がないのも、半ば当然のことであった。
ガタン……!
突然車体が大きく傾き、重力が失われる。
何が起きたのか、瞬時に把握できる乗客は皆無だった。
数秒後、衝撃。
バスが転落したのだ。
幸いにも落ちた距離は3メートル程度で、乗客に大したけがはなかった。
しかしそのままツアーを続行するわけにはいかない。
泣き叫ぶ子供たち、戸惑う母親……その中で意外にも勇姿を見せたのは男性陣だった。
「泣くな、すぐに救助は来る!」
妻や子供を慰め、明かりになるものを探したり、寒さをしのぐ方法を考えたりと普段からは想像もできない男らしさ。
そして救助の車が来た。
しかし、その数、バンが三台。二十七人の乗客に二人の運転手とバスガイド、合計三十人を乗せることはとてもかなわない。
「実は近くで大規模の事故がありまして、他の車は出払っているんです」
救助隊員が申し訳なさそうに言う。
夜中に蛇行の激しい山道を運行するのは危険であるため、三台のバンを往復させることもできない。
「妻と子供たちを先に」
一人の男性が迷いなく言う。他の男性たちも力強く頷く。
「そうだ、女性と子供たちを」
「我々はここで一晩過ごします……なあに、若いころはキャンプで慣らしたもんだ」
口々に言う男性たちを見回して、救助隊員もゆっくりと頷いた。
「では、女性の方、お子様たち、三台のバンに分かれてご乗車ください。それからツアーの方……ガイドさん、あなたもこちら側の責任者としてご同行ください」
救助隊員の指示で、女性たちは子供の手を引いてバンの中に消えていく。皆心配そうな顔で、あるいは不安を隠せない表情で、それぞれの夫を見つめている。
夫は頼りがいのある笑顔で「こっちは大丈夫だ、子供のことを頼むぞ」と妻を送り出す。
妻たちは夫の笑顔に安心して、バンに乗り込んでいく……。
三台のバンが遠ざかり、明かりがすっかり見えなくなってしまうと、運転手の一人が立ち上がった。
「皆さん、ご活躍おめでとうございます。今回は特に素直な奥様方ばかりで、皆様も存分に男らしさを発揮できたようで私どもも嬉しく思います。夜は冷えますから、どうぞ車内にお戻りください。ビールとおつまみ、それからちょっとエッチなビデオもご用意しております。どうぞ存分にお楽しみください。そして明日以降の輝かしい生活を想像して、今日はごゆっくりお休みください。本当にお疲れ様でした」
誰からともなく拍手が沸き起こる。
「山の紅葉と秋の味覚 満喫ツアー」とは仮の姿。すっかり夫として、父としての威信を失ってしまった中年男性をターゲットとした「頼りになる姿を見せつけて威厳を回復しようツアー」が本当の名前である。
わずかな不安と、そこで見せる頼りになる夫の姿。臭いものを見るようだった妻や子供たちの視線が、明日からはわずかに尊敬の念を含んだものになるだろう。
貴重な三連休と高額のツアー費を支払っても、今後の人生が報われるなら決して高い買い物じゃない。
男たちはめいめい、今までの虐げられてきた日々がどのように変わるのかを想像しながら、狭いバスの座席でぐっすりと眠るのであった。
(了)
投稿日時: 2013年10月13日21:26
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