歌姫
その歌声のことは、ここに入居したときから気づいていた。
朝でも、昼でも、夜でも、家にいるときはほぼ一日中聞こえてくる微かな音。
たまに大学の友達が遊びに来ると、ほぼ例外なく顔をしかめる。
「よく我慢できるな」
正直なところその歌声は、お世辞にもうまいとは言えなかった。
「騒音には慣れてるからね」
そう言うとみんな複雑な顔で納得する。
「お前のバイト先、工事現場だっけか」
住人の僕が何とも思っていない以上、他に言葉がないのだ。
かくして僕の家は、大学からほど近い2DKという好条件にもかかわらず、悪友たちのたまり場にならずに済んでいたのである。
僕の通う大学は都心から電車で25分程度、都会というほど都会でもなく否かというほど田舎でもない中途半端な場所にあった。
場所以上に中途半端なのは大学の存在自体で、学力でもスポーツでも特に優れた面はなく、かといって名前さえ書けば入れるようなFラン馬鹿大学というわけでもなく、中途半端な学力で難関大学に失敗した結果やむを得ず集ってきたような中途半端な学生が、これまたそこそこの大学を卒業した中途半端な教授によって中途半端な講義を受けて、中途半端な会社に就職していく。
その中でも僕は、講義にもバイトにもサークルにも無気力な、一番質の悪いグループに属していた。
なにも初めから、流行のライトノベルの主人公よろしく無気力な性格をしていたわけではない。ただ、人生をかけてすべてを注ぎ込んでいた道がある日突然閉ざされたなら、しばし心を無くしてしまっても許されるんじゃないかと思う。
ちょっとした疲れだと思ったんだ。少し休めば治ると思っていたんだ。まさか、痛みを感じた時点で手遅れだとは思わなかった。
選手生命は断たれ、決まっていた難関大学への推薦も当然取り消された。高校の担任が駆けずり回って何とか押し込んでくれた大学でも、別にやりたいことはなかった。
気遣うような家族の視線が煩わしくて一人暮らしを始めた。周りの声を聴きたくなくて、騒音にまみれたバイトを始めた。これまで鍛えてきた体は難なく重労働をこなす。クソッ。僕は砂利を運ぶために体を鍛えてきたのか。
カビ臭い畳の上に寝転がると、外からあの歌声が聞こえた。
昼夜問わず聞こえてくる音痴な歌声。
騒音に慣れているから気にならないんじゃない。
他人を気にする余裕がないだけだ。
その日はなぜか歌声が鮮明に聞こえた。
(どんな人が歌っているんだ?)
初めて歌声に関心が向いた。
音域や声質から判断するに、男ということはないだろう。
女か、子供か……だがもし子供だとしたら、こんな夜中にひとりで外で歌っているのは異常だ。
放り出したジャケットを再び羽織る。
そしてサンダルをつっかけて家を出た。
ここのアパートは全部で3棟からなっていて、建物はコの字型に並んでいる。
開けた一辺は道路に面していて、建物と道路に囲まれた広場はちょっとした公園のようになっていた。
小さな噴水と、わずかばかりの遊具、それに3つのベンチがある。
駅から少し離れているのと建物が恐ろしく古いので最近の学生には人気がない分、日当たりのよい立地と2DKの間取りのお蔭で若い貧乏夫婦や単身者の入居率が高い。
昼間は幼稚園に入る前くらいの小さな子供を連れた母親のたまり場だ。
どうやら歌声はそこから聞こえてくるようだ。
ぐるりと回って広場に出る。
ジャングルジムの上に人影があった。
こちらに背を向けて(つまり道路のほうを向いて)小さな声で歌っている。
音痴なくせに妙に声の通りがよく、小さな声なのに耳に響いた。
やはり、女だ。
着ているいるものの感じからすると、自分と同じくらいか、少し上だろうか。
ジャングルジムのすぐ下まで歩いて行ったが、彼女は僕には気づいていない。
「あの」
小さく声をかけると、人影はびくっと身をすくめた。
そのままジャングルジムから落ちるんじゃないかと僕もつられてびくっとした。
「ああ、ごめんなさい! 人がいるの、気づかなくて!」
人影は振り向いて言った。
「いや、その」
「ごめんなさい、うるさかったですか? うるさかったですよね? すみません、私、つい時間を忘れてしまって」
言いながらジャングルジムを降りてくる。焦っているからか踏み外しそうになりながらも、なんとか地面にたどり着く。
「本当にすみません、ここの住民の方ですよね? ご迷惑おかけして申し訳ありません、もうしません!」
かわいそうなくらいに頭を下げてくる。
「いや、別にうるさいってわけじゃないんです。ただ、いつも歌っているから、どんな人なのかなってちょっと気になったっていうか、好奇心、みたいな、うん、それだけで」
釣られて僕の口調も焦り気味になる。なんだこれ。
「あ、そうなんですか?」
「そうです、だから気にせず続けてください」
そう言うと彼女は困ったような表情になった。
「でも、やっぱり気になったから来たんですよね? 私、歌わないほうがいいですよね?」
世間的な常識に照らし合わせたら、そこは「そうですね」というべきだったのかもしれない。
なにせ集合住宅の真ん中にある公園で、夜中に歌っているのだから。
でも、言えなかった。彼女の張りつめた表情があまりにも必死すぎて、もしここで彼女が歌うことを否定してしまったらものすごく恐ろしいことが起こりそうな気がして、結局僕は
「いいんじゃないですか、歌っても」
と答えた。うん、嘘は言っていない。少なくとも僕自身に関しては、彼女が歌っても問題はない。
「でも」
「大丈夫です。僕、工事現場でバイトしているんで、うるさいのには慣れてますから」
言ってからしまったと思う。これじゃ『あなたの歌は工事現場の騒音と同じベクトルですよ』て言っているのと同じじゃないか。フォローしようと思ったのにこれじゃ逆効果か。
でも彼女は別段気にする様子もなく「よかったー」と笑う。もしかしたらちょっと鈍いのかもしれない。
だから、念のため付け加えた。
「僕は気にしませんけど、他の人はどうかわからないですから、もし他の人が何か言うようならやめてくださいね」
そうすると彼女は、くりっとした目を糸のように細くして言った。
「大丈夫です、あなたが大丈夫なら、他の人もきっと大丈夫ですから」
それから僕は眠れない夜があると、たびたび公園を訪れるようになった。
いつも聞こえていたと思った歌声はちゃんと意識していると2~3日に1度聞こえるくらいで、時間も昼間が多かった。
どうやら僕と会ったあの日以来、彼女は時間を意識するようになったらしく、日が落ちてから歌声が聞こえてくることはほとんどなくなった。
それでも彼女自身は公園にいるのが好きなようで、夜中に出ていくとだいたい彼女に会うことが出来た。
夜の公演で、僕と彼女はいろいろな話をした。
彼女の名前は勿論、女性にはちょっと聞きにくい年齢さえ聞き出した。思った通り、僕より2つ年上だった。
彼女の話題は歌のことが多かった。彼女曰く
「私にとって歌うことは息をすることや食事をすることと同じなの。好き嫌い、上手い下手じゃなく、それがないと生きていけないの」
だそうで、僕はなんとなく、彼女に近いものを感じた。
「才能って残酷だよね」
彼女はそんなことも言った。
何かに秀でる才能があるなら、何かを全くできない才能もあるらしい。
「普通はさ、あまり得意じゃないことでも十年二十年続けていたら、それなりに形になるものじゃない?」
彼女は物心つく前から音楽の道を目指していたのだという。だが残念なことに、壊滅的に才能に恵まれなかったらしい。
「才能がないのはわかってたんだ。だけど、私にとって歌は、生きることと同義だから」
だから、どんなに下手でも、歌うことはやめられないのだという。
「本当は、才能がちゃんとあって、音楽の道に進めたら一番よかったんだと思う」
努力はした。人一倍した。それなのに、才能が何もなかった。種をまかない畑に水をやり続けても、当然芽は出ない。
「仕事にすることだけがやり方じゃないよ」
気が付いたら僕は彼女にそう言っていた。
「それが無きゃ生きていけないなら、それを続けていくしかないじゃないか。仕事にできるとか、人に認められるとか、そんなこと関係なく、やっていくしかないじゃないか」
「そうだね」
彼女は母親のように微笑んだ。
「だから、こうして歌っているの。もっと早く、そのことに気づければよかったんだけど」
僕も笑った。
「今こうして歌っているならいいじゃないか。遅すぎるなんてことはないさ」
言いながら、なんとなく、彼女に感じたシンパシイの正体が分かった。
彼女の歌は、僕の陸上と同じだ。
僕は彼女と違って、才能がなかったわけじゃない。ただ、僕の体は、もう第一線で競うことが出来るような状態じゃなくなった。
それでも、好き嫌いとか、上手い下手とかじゃなくて、跳ぶことのできない生き方なんて考えられなかった。
そうだよな。それが無きゃ生きていけないなら、それを続けていくしかないじゃないか。
記録とか大会とか関係なく、やっていくしかないじゃないか。
「ありがとう」
唐突にお礼を言うと、彼女は「何が?」と言った。
でもなんだか説明する気にはなれなくて、ただ「君の歌声が僕を救ったんだよ」なんてクサいセリフしか出てこなかった。
それから僕はようやく、無くしていた自分の心を取り戻すことが出来た。
もちろん急にすべてが上手くいくわけではないし、やっぱり言葉にできない思いもまだあるけれど、少なくとも何もせず、ただふてくされながら毎日を過ごすことは無くなった。
彼女といるときの口数も増え、「最近明るくなったね」なんていわれるようになった。
相変わらず彼女の歌はへたくそだったけれど、僕にはこの上なく心地よい応援歌だった。
このまま、ささやかに全てが好転していくのだと勝手に思っていた。
そんなある日、大がかりな飲み会があった。終電を逃した連中も何人かいて、普段は来ない僕の家に何人か泊めることになった。
奴らはたちの悪い酔い方をしていて、最早酔いつぶすしか黙らせる手段はないと思われた。
家に来るまでのコンビニで買い足したビールを浴びるように飲みながら過ごしていると、かすかな歌声が聞こえた。
彼女だ。
どんちゃん騒ぎの中、初めは僕しか気づかなかったその声に、悪友の一人が気づいた。
「おい、なんか聞こえねぇ?」
「なにがぁ」
「歌だ、女が歌ってんぞ」
「マジかよ、聞こえねぇ」
口々に言い合い、沈黙する。
そうすると、かすかな歌声は、はっきりと響いてきた。
しばし聞き入った後
「……ぷっ」
一人が噴き出す。すると、せきを切ったように皆が笑い出した。
「なんだよあれ」
「すっげー音痴」
「ありえねぇ」
げらげらと笑いながら、彼女の歌声を肴にビールを飲み干す。
「こんな夜中に歌ってるとか、頭おかしいんじゃねぇの」
「ぜってーブス! 賭けてもいい!」
あることないこと適当に言い合う。彼女を知っている身としてはそんな言われ方は実に不本意だったが、ここで何か言って余計な餌を提供することもないから、じっと黙っていた。
それがいけなかった。
調子づいた一人が窓を開けて大声で怒鳴ったのだ。
「うるせえぞ音痴野郎、死ねや!」
すぐに別の誰かが「おまえらの方がうるせえぞこの酔っ払いが!!」と叫ぶのが聞こえてきた。
そのまま歌声は止まってしまった。
すぐに公園に出ていきたかったが「誰が酔っ払いじゃコラ」と窓に向かって拳を振り上げる友人を抑え込むのがその時僕にできる精いっぱいのことだった。
あれから10年がたった。
僕は今、運動工学の准教授として、某大学に籍を置いている。
将来有望な若者が、不慮の怪我でその未来を閉ざされることが無いよう、少しでも力になれたらという思いからだ。
彼女とはあれ以来、一度も会っていない。歌声を聴いたのも、あの夜が最後だ。
アパートを出るときに、大家さんに歌声のことを話したら、顔面蒼白で金一封を押し付けられた。
なんでも僕の住んでいた部屋は、いわゆる『瑕疵物件』に相当するらしく、僕の住む何代か前の住人があの公園のジャングルジムで首を吊って自殺したという。
歌うことが好きな女子大生だったが、悪性の咽頭癌にかかってしまい、声帯を丸ごと摘出しなければいけなくなったことを悲観してのことで、遺書と一緒に大家さんに当てた丁寧な詫び状が残されていたそうだ。
「今まで幽霊が出たとかそんな話は一度もなかったんだけどね」
気まずそうにいう大家さんに金一封を返しながら、僕は「素敵な歌声でした、もしまた歌声が聞こえるようなことがあったら是非連絡ください」と頼んだけれど、結局大家さんからの連絡もないままだ。
「きにすることないさ、誰かに聞かせるために歌っていたんじゃないんだから」
もう一度彼女の歌声を聴くこと、それが今の僕の人生を支えている。
2014年04月30日 22:43
2014年4月お題「歌声」
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