どうしたの? 60年もたって急に会いたいなんて

仲瀬 充

どうしたの? 60年もたって急に会いたいなんて

 幹線道路から海のほうへ右折すると急に道が白くなった。道幅も狭いのでスピードを落とすとパリパリと音がする。舗装していない道に貝殻を砕いていてあるようだ。海水浴場の駐車場に車を停めた。佐代子はまだ来ていない。日差しもそれほどきつくないので車のそばに立って待つことにする。タバコをやめるとこういうときにが持てない。しばらくすると赤い軽自動車がクラクションを短く鳴らして白い道をやってきた。車を降りた佐代子はつばの広い帽子を被っている。60年ぶりの再会だ。

「やあ、久しぶり。元気?」

「うん。でもどうしたの? 急に会いたいなんて」

「最近君の夢を見たんでメッセージに応えようと思ってね」

「メッセージって?」

「高校の授業でこんな歌を習ったの覚えてる? うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき」

「小野小町だったかしら」

「先生の解説がロマンチックだった。恋しい人が夢に現れるのはその人が自分のことを思っているからだ、当時の人はそう解釈していたって」

「ずいぶん都合のいい解釈よね。待って、ということはあなたの夢は私が会いたがってるメッセージになるってこと?」

「違ったかい?」

「そりゃあなたが奥さんを亡くしたばかりだから気にはなってたけど勝手すぎるわよ。そんなことで連絡をよこしたの?」

「それもあるけどあと半分は……立ち話もなんだから歩こうか」


 佐代子を促して海のほうへ歩を進めた。

「だいたいがどんな夢だったの?」

「生徒玄関で雨宿りしてたんだ。傘がなくて」

「生徒玄関ってことは高校生のころの夢なのね」

「うん。そこへ君が現れて傘に入れてくれた」

そして僕と佐代子が相合傘で歩いて行くのを妻がものかげから見ていた。傘もささずにぬれそぼちながら恨めしそうな目で。この部分は佐代子には言わずにおこう。それにしても夢とはいえおかしなことだ。何年も後に知り合うことになる妻と高校生だった僕らに接点があろうはずはないのに。

「どうしたの? 続きはないの?」

黙りこんだ僕の顔を佐代子が覗きこむ。

「あ、うん、僕と君は一緒に百円ショップまで行ったんだ。そしてビニール傘を何本か買ったんだけど何か思い出さないかい?」

「高校2年のときの文化祭かしら?」

「そうそう。僕らのクラスはお化け屋敷をやることになって一本足、一つ目でべろを出してる傘のお化けも作った」

「私たちが小道具係だったのよね。本物の唐傘は高いからビニール傘にペンキを塗ったんだっけ」

「じゃ、あのことも覚えてる?」

「あのことって?」

「ほら、本番前日のリハーサルで僕らも含めた何人かが客になって教室のお化け屋敷に入ったときのことさ」

「 ? 」

困ったときに小首をかしげるくせは昔のままだ。

「覚えてないならいいよ、僕としてはがっかりだけど」


 駐車場を出た僕らはそんなことを話しながら海沿いの道を歩いた。8月もお盆過ぎなので海水浴客は多くはない。

「この辺に座ろうか」

足先が痛むので道端の木陰に腰を下ろした。

「70をとっくに過ぎてるっていうのにすぐに高校生のころに戻れるもんだね」

「気持ちだけよ。時の流れは残酷だわ、こんなお婆ちゃんになっちゃって。あんまり見ないでね」

「体のことなら僕も今だって左足に痛風つうふうの発作が出かかっているよ」

「痛風って風が吹いても痛いんでしょう?」

「吹かなくても痛いよ」

すぐ目の前が砂浜で波打ち際に近いところにはビーチパラソルが並んで立っている。真正面のパラソルの下には4人の人間が座っている。遠目でしかもパラソルの陰に入っているのでどんな人たちかまでは見て取れない。4人とも半袖のシャツを着て申し合わせたように膝を抱えている。親しい関係だろうに話もせずに行儀よく前を向いたままなのが妙に気になる。じっと見ているうちに僕は笑ってしまった。

「どうしたの?」

僕はパラソルを指さした。

「あれ見て。パラソルの下に4人、『傘』っていう漢字そのものだよ」

「また傘の話? そうだ、傘って言えば不満に思っていることがあるの」

「なんだい?」

「傘ってちゃんと持っていくと降らないのに忘れた日に限って雨が降り出すのよね」

「それはわがままってもんだよ」

「わがまま?」

「例外が強く印象に残るってだけのことさ。統計をとれば傘を持って出た日は雨が降ることが多いはずだ」

「予報は雨じゃないのに降り出すこともあってしゃくに障るわ」

「だから例外だって。そんなことでいちいち腹を立てるほうがおかしいよ」


 佐代子が視線を足元に落とした。

「夫婦も同じなのかもね。うまくいくのが当たり前だって思ってた」

「うまくいかなかった?」

「夫の退職後は特にね。家事を手伝い始めた夫に私が文句ばかり言ったものだから」

「手伝ってもらって何が不満だったんだい?」

「小さなことばかり。食器を洗い終わった後にシンクの内側を拭いてないとか足元の床に水滴がはねてるとか。いちいち私が指摘するものだからむくれちゃって」

「家事だけ?」

「一事が万事で家庭内別居みたいになっちゃった」

「それならそれで独身に戻ったつもりで好き勝手に過ごせば?」

「現実はそんなにサバサバとは割り切れないのよ。冷たい火花を散らし合ってた感じ。でもそれでも夫婦なのよね、気づくのが遅かったけど」

「遅かったって?」

「夫が最期に『いろいろとすまなかった』って言ったの。それって責任を自分が全部引き受けて死んでいくってことじゃない? そんなのずるいわ、それならずっと喧嘩していたかった」

佐代子は少し涙ぐんだ。

「男っていくつになっても子供なのかな。僕も女房にへそを曲げてしまった」

「あなたは何があったの?」

「原因は君にもあるんだ」

「ちょっとちょっと、何それ?」

「君の結婚を祝って僕が手紙を書いたことがあったよね」

「ええ、あなたが結婚するときは私もそうしたわ」

「その後近況報告も含めて君と時々手紙をやり取りしてたけど、保管していた君の手紙を女房の富美子が見つけて読んじゃったんだ」

「そう、でもどうってことないじゃない?」

「それ以前に若い女性たちと打ち合わせをしたり食事したりしているところを女房に2、3度見られたことがあってね。女性誌の編集をやってればよくあることだよ。どうにかこうにか女房の誤解を解いたところに君の手紙の件だ。特別な関係はないって説明すればするほど泥沼にはまってしまった。僕も改めて読み返してみたけど、たわいない話や冗談でも疑って読めば意味ありげにとれないこともないんだ、困ったことに」

「それでどうなったの?」

「行き着いた先は仮面夫婦。表面上は普通に会話するけど女房が心の底で君との仲を疑い続けているのが分かるんだ。そうするとこっちも面白くない」

「奥様が亡くなられるまでそんな状態のままだったの?」

「ところが女房はいまわのきわにこう言ったんだ。『私、向こうで待ってていいの?』って」

「まあ!」

「いじらしさに僕もグッときてね。嫌い合ったまま死に別れると思ってたから」

「奥様へのご返事は?」

「そのために女房にプロポーズしたこの海に君にも来てもらったんだ。女房は僕の返事を聞く間もなく息を引き取って明日が四十九日の忌明けなんだ。向こうの世界へ旅立つ前に安心させてやりたくてね」


 僕は立ち上がって尻の砂を払った。そして両手をメガホンみたいに口に当てて空に叫んだ。

「おーい、富美子聞こえるかー? これが僕の初恋の人の佐代子さんだ。だけどお前が疑うようなことは何にもなかったぞ。安心して待っててくれー!」

例のビーチパラソルの4人が振り向かないように声を加減した。

「昭和の青春映画みたいだね、年がいもなく」

照れ隠しに言って僕は佐代子を見下ろした。

「さっき言いかけたあとの半分ってこれだったのね。しゃくにさわるわ」

そう言うと佐代子は立ち上がって僕に後ろから抱きついて空を仰いだ。

「富美子さーん、何にもなかったって嘘です! こんなことありました、でも1回きりでーす!」

いたずらっぽい声でそう叫ぶとすぐに僕から離れた。

「なんだ、覚えてたじゃないか」

「ふふ」

立ち上がったのを機に僕らは駐車場のほうへ歩き出した。

「文化祭のリハーサルのとき、暗闇の中で悲鳴をあげてさっきみたいに僕にしがみついたよね。僕たちが作ったお化けだから怖いはずないのに、あれはひょっとして?」

告白もせずじまいだったが片思いではなかったのではないか。

「さあ、どうだったかしら」

佐代子は思わせぶりにとぼけた。

「いいかげんだなあ。でも僕が見た夢もいいかげんだ」

「何が?」

「ビニール傘を買った店は百円ショップじゃなかったよね。あのころ百円ショップはなかった」

「夫婦仲もいいかげんなくらいでちょうどよかったのかもしれないわね。そうすれば私もあなたも晩年に後悔せずにすんだかも」

「でもまあ、ぎすぎすして過ごした日々も夫婦なればこそだよ。今となっては後悔もかけがえのない思い出だ」


 駐車場までもうすぐだ。それぞれの車に乗りこんだらもう今後顔を合わせることはないだろう。夢にかこつけて呼び出したことを佐代子は勝手すぎると言った。確かにそうだ、僕が自分の感傷に佐代子を付き合わせたかっただけなのだ。会って何がどうなるわけでもないのに。

「今日は久しぶりだったね」

「久しぶりだったわね」

「会えてよかったよ」

「会えてよかったわ」

「お盆過ぎは風がさわやかだね」

「さわやかね、あ、赤とんぼ!」

佐代子が足を止めて前方を指さした。お盆には死者の霊が赤とんぼになって帰ってくるという言い伝えがある。佐代子の夫の霊も飛んでいるのだろうか。忌明けの明日、僕の妻の霊が赤とんぼになってあの世に向かうということはないのだろうか。そんなことを思いながら僕は赤とんぼの群れを眺めた。あら!と佐代子が声をあげた。1匹の赤とんぼが佐代子の肩先に止まった。それを佐代子は顎を引いて首をねじったまま愛おしそうに見ている。このとんぼは佐代子の夫なのだろうか。ひょっとしたら僕の妻なのではないか。妻が佐代子に僕のことをよろしく頼むと……。いやいや、頭を振って妄想を払うと赤とんぼも佐代子の肩を離れた。海沿いの道を駐車場へそれる前に海に目をやった。ビーチパラソルが浜辺に点々と咲く花のようだ。パラソルの下で膝を抱えて一様に前を向いて座っていた人たちを思い出した。海を眺めていたのだろうがもっと遥かなものを見ていたようにも思えた。あの4人は二組ふたくみの夫婦だったのではないか、そんな気がした。駐車場に戻ると佐代子が先に自分の車に乗りこんで窓を開けた。

「じゃあね、楽しかったわ」

「今日はわざわざありがとう。それじゃ……、」

車が動き出した。佐代子は運転しながら右手を窓の外に出してひらひらと振った。僕も手を振り返すと佐代子の車は駐車場を出た。そして来たときと同じようにクラクションを短く鳴らして白い道を遠ざかっていった。

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