皮膚の記憶

カッコー

皮膚の雪ー記憶。(詩。肌)

ただ、そう云う光景が、記憶の何処かにあるのを感じていた。

何時、何処で、その記憶が残されたのか、あるいはそれが何を意味しているのか、全く解らなかった。

それはある日忘れていた夢が、何かのはずみでふと思い出された時のような感じだった。その時その時間が過ぎていたのか、また、何時からそうしていたのかさえ判らなかった。

気が付くと、彼の目の前の闇の中には真っ白な雪原が浮かんでいた。

まるでそこは失われた世界の果のように、何処までも広がり続けているようだった。

(それは記憶だったのかも知れないし、そうではなかったのかも知れない)

そこに降る雪は、薄暗い闇の中を覆う灰色の低く垂れ込めた雲から、音も無く、気配を消して、真っ直ぐに、綿毛の様にゆっくりと、時の中を降り続けていた。

綿毛を揺らす風さえも無い夜の中を、雪は簾の様に闇を遮り、時には真昼のようにその明るさを白く輝かせやた。

遠くに、あるいは近くに、誰のものとも知れぬ鈍く掠れた古い記憶のようなものを繰り返し映し出しながら。

けれどもそれらの殆どは、断片的で何の継がりも無いようだった。

記憶は色を変えた。真っ白な雪の影の上を、七色の虹を映すように、うねりながら色を変え続けた。その時、彼の心の中で弾け飛んだ、何かガラス玉のようなものの砕かれた欠片の鋭利に削がれた断面が微かに光った。

だが、その小さな光は次の瞬間、彼の心の奥深い淵の闇の中に落ちて行った。

彼の意識はその僅かな光を探して更に深い深淵を、彷徨い続けた。

それははかり知れない長い時間だった。

幾つもの春が、ロウ梅やサンシュユの黄色い花を、まだ消えない寒気の名残りの中に灯し、焼けたトタン屋根に打ち付ける雨音の煙る夏が過ぎて行った。

赤い水晶の粒のような枸杞の実に立ちどまる秋がやって来ると、褪せはじめた落葉樹の葉色を憂うように、侘助はその深い緑の葉陰に沢山の楕円形の蕾を膨らませた。

そうして、やがてそれらの幹には亀裂が入り出し、樹皮は剥がれ、アラハシラガゴケが地際を這い、同じ時を過ごした幾つかの物たちの時間が止まり出す頃には幹までも覆い尽くした。

それはまるで岸壁を離れる巨大なタンカーの腹のように過ぎて行った。

それでも尚彼は、永遠的に広がる白い大地の前に立ち竦んだままだった。

漠然とした時間の重さが、降り積もる雪の中に置き去りにした思いの重なりを隠してでもいるように感じられた。

何時かそんな彼の記憶は全身の皮膚の下にゆっくりと運ばれて、散らばりながら鉛のように、重く固まって行った。ー完結済ー。

#褒める会

〈時間は過ぎて行くけれど、それは本当だろうか?それはたとえば雪が積もるように僕らを覆い尽すのではないだろうか?そして僕らはそれから逃れられない。なぜなら僕らは時が行くのを、知らないからだ。〉

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皮膚の記憶 カッコー @nemurukame

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