パパンドラの箱
紺埜るあ
パンドラの父、パパンドラ
〈パンドラの箱〉という言葉を耳にしたことはあるだろうか。生れてこのかた一度もないという君のような人間のために一言で説明すると、ギリシャ神話に由来する決して開けてはならない数多の災いの詰まった箱である。現代でも、触れてはならない災いのもとという比較的原典そのままの意味で比喩表現として用いられることがあるためこれを機に覚えておくといい。
この〈パンドラの箱〉のパンドラというのは大神ゼウスから箱を与えられた人間の女性の名なのだが、君は不思議に思わないかね。なぜただの人でしかない彼女ひとりにだけ、ゼウスは災いの詰まった箱をわざわざ与えたのだろう。
私の考えはこうだ。〈箱〉はとある一族の者に代々与えられ、当代がパンドラであった。彼女以外の話が伝わっていないのは、誰も最期まで箱を開けなかったからである。もしもそうだとすると、彼女に箱が与えられた時点で先代であるパンドラの父、パパンドラは亡くなっていることになる。パンドラは、亡き父パパンドラの形見とも言える箱を気持ちの整理もつかぬ頃に与えられ、思わず開けてしまったのではにだろうか。
〈パンドラの箱〉は実はパパンドラの箱であり、そして形見であったという一石ならぬ一説を世に投じて本書の締めとする。
「――なによ、これ。」
膨大な数の本やノートを整理するなかで、殴り書きのような字でありながら、箇条書きのメモとは明らかに違う内容のものを見つけ、片付けの手を止めてまで読んだ率直な感想が無意識のうちに声に出ていた。
「あぁ、それねぇ。」
近くで同じように整理していた母が応えた。
「父さん、絶対にありえないのに何も知らない人が読めば信じそうな、それっぽ~いことを書くの好きだったのよ。探せばまだまだ出てくるんじゃないかしら。」
「タチわっっる!本職で研究者をやってた人がしていいことじゃないでしょ……。」
「そうねぇ。でも学生の頃からの趣味だったらしいわよ。」
「なる前からこんな趣味なのもっと嫌……。」
一応は尊敬していた父親の株が遺品整理で下がるなんてこと、考えもしなかった。思い返せば一度も趣味の話をされた記憶がないな。流石に私には隠してたんだろうか。
「これどうする?誰かに見られるようなことがあってもだし、残しておいてもどうしようもないよね。」
「そうねぇ。でも……。」
母はそこで口を閉じた。その先は言わなくたってわかる。私も、捨てたくない。
時間にして一瞬の沈黙。そして、主観的にはかなり長い静寂。
「……箱にでも入れてしまっておきましょうか。」
打ち破って母は言う。この僅かな間に、きっといろんなことを思い出していたのだろう。少し潤んだ声だった。
「……うん、そうしよ。」
つられないように少しだけ張った声で同意して、傍にあった段ボールにしまう。いつの日かふと思い出したときにでも取り出して、くだらないと笑えるように。
パパンドラの箱 紺埜るあ @luas
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