第7話 地球と冥王星

 悠の転校が決まったのは、その二日後のことであった。

 晩の食卓で父親にそのことを告げられた。たまに口を開いたと思ったら、こんな話だ。食事が終わっていないにもかかわらず、悠は箸を置くと、自分の部屋にこもり、朝になるまで出てこなかった。

 小世は同じ晩に悠の母親からのメールでそのことを知った。三回メールを読みなおし、ようやく意味を理解すると、意識がふらふらしてキッチンの床に崩れ落ちた。

 どうにか立ちあがり、ベッドまで歩いていった。ベッドに倒れこむと、朦朧とした意識のまま、手に握ったままの携帯をタッチする。花の保護者の電話番号を探しあて、てんこう、とだけ書いたショートメールを送った。

 ほとんど無意識にやったことだった。そこにはいかにも小世的な企みはいっさいないはずだった。恋がたきを道づれにしようとしたのか、この情報をいっこくも早く花と共有したかっただけなのか、自分でもわからなかった。携帯の画面に現れた「送信に成功しました」の文字を確認すると、小世はそこで力尽きたように意識を失った。

 娘の担任から送られてきた、わけのわからない、四文字だけのひらがなのメールを、母親は首を捻りながら、花にそのまま見せた。こちらはさすがの瞬殺である。言葉足らずにもほどがあるこのメールの真意を、花はたちまち理解した。口に含んでいたポッキーをぺっと畳のうえに吐き出すと、それを拾いもせず、母親の怒鳴る声を背中に浴びながら、重い足を引きずるようにして自分の部屋に行き、ベッドにうつ伏せになった。電池のきれるロボットのようにゆっくりと目を閉じた。そして晩遅くに熱を出して寝こんでしまった。

 だから翌日は小世も花も学校を休んだ。校長が小世の代理を務めた。悠は休憩時間に自分が一ヶ月後に転校することを瞭に告げた。瞭は悲しそうな顔をしたが、なにも言わず、ただ頷いただけだった。

 その日、悠は机の角を叩いた。


    *


 穴ぐらの入り口には黄色と黒の縞模様のテープが貼られていた。テープの中央に「立ち入り禁止」と書かれた紙が貼ってある。悠と瞭はしばらくのあいだそれを眺めてから、顔を見あわせた。それからふたりはとぼとぼと道を歩いていった。

 なだらかな小山に辿りつくと並んで寝ころび、ふたりで空を見あげる。雲がゆっくり流れていた。太陽が雲の隙間から、ちらちらと顔を覗かせる。鷹の羽ばたきのような力づよい翼の音が、若干のこだまの響きをともなって遠くから聞こえてきた。それ以外は時間が停まっているかのよう。ふたりはそんな自然の静かな鼓動にただ身を委ねていた。やがて悠が言った。

「なんかぽかぽかして気持ちいいな」

 瞭は黙って頷く。

「なんであんな暗いところで遊んでたんだろう」

 悠がひとりごとのようにぽつりと言った。

「でも居心地はよかっただろ」

 そう問われて、悠はしばし考える。

「まあな」

「たぶん、悠の心がそういう場所を求めてたんだよ」

 寝ころんだまま悠は瞭の横顔をじろじろ見る。なんなんだこいつは。そう言いたげな表情で。

「身体じゃなくて、心が落ちつく場所っていうのがあると思うんだ。そういうのはそのときどきの心で変わっていくんだと思うよ」

 悠は寝ころんだまま、また瞭の横顔をまじまじと眺めた。しばらくしてからほとほと感心したような口調で言った。

「お前、変わってるよな」

「そうかもな。だから悠以外に男の友だちができなかったんだ」

 瞭は無表情なまま答えた。悠が声を出さずに笑う。

「どうした?」

「なんかさ、いままでの友だちのなかで、瞭にそう言われるのが、いちばんしっくりきたんだ。友だち、って言われるのが」

 瞭は悠の横顔を見た。整った顔が無防備にほころんでいる。瞭がそれまで見たことのない表情だった。悠の視線のさきは、雲や空どころか、大気圏すら突き抜けている。

 壁が崩れたのだろうか。瞭は思った。しかしすぐ瞭は小さく首を振る。早合点するな。人の心なんて、そんなに単純なもんじゃない。

 瞭はこのところ気になっていたことを思いきって訊いてみた。

「花がなにか言わなかった?」

「なにか、って?」

「悠のことが好きとか‥‥」

 悠は言葉につまる。

「ぼくに気をつかわなくていいよ」

「花はきっと瞭のことが好きなんだ。たぶん自分でそのことに気づいてないんだよ」

「そういうことじゃないんだよ。言っていたら、大丈夫なんだ」

 悠はその言葉を理解するのに時間がかかる。お互いに顔を見あわせながら、その言葉の意味をようやく理解した悠は、つい笑い出してしまった。

 瞭もいっしょに笑った。そして転校したあとの悠のことを思った。悠は自分で思っているほど強い人間じゃない。たぶん悠は転校したらまた心を閉ざしてしまうだろう。しかしそこからはもう瞭の手が及ばない領域であった。電話やメールで語りあえることなんて、たかが知れている。ほんとうの意味で悠はまだ救済されてはいないのだ。瞭は深く息を吸ってから言った。

「なあ、悠。お願いがあるんだ」

「うん?」

「十年後でも、二十年後でもいいからさ、もう一度あの穴ぐらに来てくれないかな。悠がもう一度来ることで、あの場所が意味を持つ、そんな気がするんだ」

 悠は頭のなかで何度もその言葉を繰りかえしてみた。しかし悠には瞭がなにを言いたいのか、さっぱりわからなかった。悠は十年後や二十年後のことを想像してみようとした。だがその時間の距離は、地球上でいまここにこうしている自分と、銀河系のはるか彼方、冥王星との距離よりもずっと果てしなく遠いものに感じられるのだった。

「でも忘れるかもしれないよ。二十年後なんていったらさ」

 瞭は上半身だけ起きあがって悠の顔をじっと見た。そしてとつぜん拳で悠の頬にパンチを入れた。悠はびっくりして頬に手を当てる。

「痛たぁ‥‥なにすんだよ、もう」

「悠は人に殴られたことってある?」

 瞭が上半身を起こした状態のまま、地面に両手をついて、愉快そうな表情で悠に訊いた。

「ないよ‥‥親にだってない」

「だよね。ぼくらはそういう風に躾られてる。それに、なんていうか、世の中そういう空気なわけだしさ。どういう理由があっても人を殴っちゃいけない、ってのがね。悠が中学生になったって、高校生になったって、大学生になったって、社会人になったって、もう二度と人から殴られることなんてないと思うよ」

「瞭‥‥お前さ‥‥」

 悠はむしろ笑いそうになった。瞭は頷いた。

「だから悠は忘れない。いまここで話したことを、ぜったいに」

 もし悠がもう一度ここを訪れたら、そのときこそほんとうに悠の心を取り囲んでいる壁ががらがら崩れるだろう。たぶんそんな気がする。そしてぼくはその音を聞く。現実の壁が崩れる音よりもはっきりとこの耳に聞く。

 瞭はぼんやりとそんな風なことを思った。ながくて二十年後か。悠は三十二だ。でも遅くはない。けっして、遅くはない。悠が空に向かって叫ぶ。

「わかったよ。来てやるよ。でもそんときは瞭の顔に思いっきりパンチ入れてやっからな」

 なぜいまここで殴り返さないのかが瞭にはわからない。まだ悠のプライドが邪魔しているのだろう。自分のパンチがどれほどへなちょこなのか、知られるのが怖いのだ。しかしそんな悠が、同性ながらにちょっとかわいい。悠が女子に人気があるのが瞭には少しわかるような気がした。

「もっと強烈なパンチお見舞いしてやっから」

 望むところだ、と瞭は思う。


    *


 悠にとっての最後の一ヶ月は平穏に流れた。

 瞭も花も自分が転校することについてはなにも言わない。触れようともしない。このふたりのあいだでなんらかの約束が交わされたかのように。以前と同じような残りの一ヶ月だった。三人は放課後になると秘密の森を駆けずりまわって遊んだ。

 転校する前日にクラスで送別会を開いてくれた。五時限目の授業が終わったあと、よくわからない理由で校長室に呼ばれて、見えすいた時間稼ぎが行われ、悠が教室に戻ったときには、事前に打ちあわせてあったデコレーションが施されていた。

 ささやかながらも充実した送別会であった。ダンスがあり、歌があった。最後に悠がみんなにお別れと感謝の言葉を述べると、女子たち全員が大声あげて泣いた。つられて何人かの男子も泣いた。小世もわんわん泣いた。

 何度も転校を繰りかえしている悠にとっては見慣れた光景のはずだった。しかしなにかが悠の心を打った。期間的には他の学校よりも短いにもかかわらず、なにかが悠の心を打った。その「なにか」は悠にもわからない。でも悠にはその理由がわかる。泣かない親友がいるからだ。

 ここにまた戻ってこようと悠は思う。でもそれは近い時期じゃなくてもいい。自分の心が自分の名前を呼んでいるのを聞いたとき‥‥そんなときでいい。またここに来よう。悠はそう思ったのだった。


    *


 悠の見送りに瞭は来なかった。

 あいつにはもうお別れの挨拶したから、という瞭の言い分が、花には理解できない。たとえそうだとしても、最後の日にちゃんと見送りに来るのが友だちってもんでしょ。それとも、照れんのかよ。こういうのが。瞭なり、男子なりの考えってもんがあるんだろうけど、あたしにはまったく理解できない。理解、したくもない。

 花が怒るのには、他にも理由があった。悠と母親を見送ったあと、駅であのいけ好かない担任とふたりきりになってしまうからである。

 そのことを想像するだけで花はうんざりした。たくもう、あいつどんだけあたしの足に絡みついてくんのよ。殺しても殺しても死なないゾンビみたいにさ。

 自転車を駅の近くのコンビニエンスストアの前に停め、花は改札口に向かう。そこにはすでに悠と母親と小世の姿があった。花は悠の母親をはじめて見た。白いワンピースに身を包み、まるで百合のよう。この田舎町では見たことのないような綺麗なひとで、花はなぜか顔が赤くなってきた。黙ったまま、軽く頭を下げる。母親はにっこり微笑んだ。小世もぎこちなさそうに花に向かって微笑むと、肩から下げたサコッシュのなかから財布を取り出して、券売機で見送り用の切符を二枚買った。

 悠を先頭に、母親、小世、花の順で改札を通り抜ける。悠と母親が二度とこの改札を通らず、担任と自分だけがまたこの改札を通って日常の生活に戻ることを考えると、花はもうこの時点で泣きそうになってくる。

 ホームで顔に夕暮れの光を受けながら、小世と悠の母親が話しはじめた。子どもの花が傍らで聞いていても、薄っぺらい、中身のない会話であることがわかる。ほんとにこのふたり、友だちなのかな。花は疑問に思う。

 悠もその会話に参加しているので、花は悠と話すこともできない。そうか。瞭はこうなることを予想していたのか。そうだとすると、悔しいけどあいつの勝ちだな、こりゃ。たしかに悠のふだんの言動にありがちな、大人にだけちょっと八方美人になってしまう性格のことを考えると、こうなることはあらかじめ予想できたはずだった。瞭はそれがわかってたんだ――男同士の深い友情にしょせん女子は入りこめないってわけか。花はちょっといじけた。

 やがて電車が来る。気がつくとあたりは薄暗くなっていた。ホームの照明がちらつきながら点灯し、ほとんど同時に駅のまわりの田園のあいだに点在している電灯に順番に明かりがついていった。悠と母親が手を振りながら電車に乗りこんだ。仲のわるい姉妹のように、他人同士の振りをしながら小世と花も手を振る。

 窓際の席に、悠と母親が向かいあって座り、小世と花に向かって手を振りつづける。小世は悠と母親に向かって忙しそうに突き出した両手を交互に振った。それを見て花は少し笑いそうになったが、すぐに笑っている場合ではないことに気づき、悠に向かって一生懸命に手を振った。

 母親のほうが泣き出してしまった。顔に両手を当てる。悠が自分の身体のあちこちに手を当ててハンカチを探す。発車のベルが鳴った。電車がゆっくりと動きはじめた。レールが軋む音を立てる。窓の向こうの車内が容赦なく目の前を通りすぎる。ハンカチを探してズボンの後ろのポケットに手を突っこんでいるのが花が見た悠の最後の姿だった。

 電車は尻尾を振りながら散歩する犬のように、のんびりと最後尾の車輌をふたりに見せつけながら走っていき、遠くの夕闇に呑まれ消えた。

 沈黙がホームを覆う。

 小世がくるりと花のほうに振りかえった。花を見おろす目が潤んでいる。でもちょっと嘘っぽい。表情そのものはどこか怒っているような感じであった。花はどういう展開になるのか、予想もつかない。小世がとつぜん花に向かって右手を差し出した。そしてぎこちない笑みを浮かべた。

「仲間、だね」

 花は差し出された小世の手をじっと見た。だんだん腹が立ってくる。

 仲間。なんかじゃない。花は思った。あたしは本気で悠のことが好きだったけど、あんたは自分のことがいちばん好きで、その延長線上に悠をぽんと置いただけ。わかるんだ。なんたって、あたし、悠のことが本気で好きだったんだから。

 本気か、本気じゃないかなんて、簡単に見わけがつくよ。だからぜったいにあんたとあたしが仲間なわけがない。本物の戦士か、ヴァーチャルゲームのオンライン戦士くらいの違いがある。ちゃんと心から血が流れたんだ。肌を切り裂いて血まみれの心をじかに見せてあげてもいいくらいだよ。花はよっぽど小世に言ってやろうかと思った。

 でもそのかわりに花は小世の差し出した手を握ってあげた。そしてその手にちょっと力をこめた。花としては、紛いものの恋がたきではあるが、いちおうは恋がたきと認めて、それなりの敬意を払ったつもりだったのである。

 するとそれが相手の心のどこかを打ったらしく、小世は口を八の字にまげたかと思うと、それまで堪えていたものが崩れたように、とつぜん子どものように声をあげて泣き出したのだった。身体を屈め、花に抱きつき、声を殺すように花の肩に顔を埋める。でも小世の泣き声は盛大に漏れる。ホームを歩いていた何人かの人間が足をとめて振り返った。

 よしよし。とんだ甘えん坊ちゃんだね。花は優しい目をして思う。よくそんなに泣けるよね。心が軽いから、涙も軽い。するする出てくる。自分がいちばんかわいいんだもんね。かわいい自分がかわいそうなだけなんだもんね。だからその涙なんてあたしにだって無意味なんだ。たぶん誰にとっても無意味。自分のために流す涙なんてそんなもんだよ。

 でもそんな言葉を泣いている小世に投げかけるのは残酷すぎた。花にだってそんなことはわかっている。だが花は小世に何かを言ってあげなければならなかった。相手は泣いている女の子なのだ。花は小世の背中をぽんぽんと叩きながら言った。

「ちゃんと人を好きにならなきゃ、自分がいちばん損するんだよ‥‥」

 しかし花の小さな声は、てっきり自分に慰めの言葉を言ってくれていると思った小世の、ひと際おおきくなった泣き声に掻き消される。そうやって小世は自分の気が済むまで駅のホームで花を抱きしめながら大声で泣きつづけた。

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