秘密の森
登漉勘十郎
第1話 転校生
机の角をこんこん叩く。誰かひとりが。アルミニウムの丸パイプに支えられている、いかにも使いふるされた擦り傷だらけの木製の机を。ただし必要以上に派手な音はしない。
青いストライプの柄のはいった白地のハンカチで首筋の汗を拭きながら、
放課後、三人は秘密の森にあつまる。
*
ガードレールに背中を押しあてながら、悠は道路の一点をじっと見つめている。午前中は曇っていたので、背中はそれほど熱くならない。伝説にでてくる竜のようなかたちをした入道雲。深緑に染まった田畑が道路に沿ってどこまでも拡がっている。傍らのバス停には誰もいない。乾ききったアスファルトが、太陽に照らされてぎらぎら光っている。
悠は時間を持てあますように、左の手首にとおしていた薄茶色のリュックのストラップを右の手首に移しかえる。もしかしたら、ただ腕が疲れただけなのかもしれない。そうだとしても悠はそれを表情には出さない。
やがてバスが来る。自分の生命の重みに潰れそうになっている、数人のくたびれた年寄りたち。それから、寂れた田舎町の極限化したルーティンにともなう倦怠が充満した空気を乗せて。
勢いよくバスの扉が開く。この子どもは今日こそ乗るかもしれないのだ。運転手は思う。生意気そうな。賢そうな。子ども特有の軌道からはずれた行動パターンが、バス停から絶妙な距離をとらせているだけなのかもしれない。
運転手はバックミラーに視線を固定して待った。根くらべ。とはいえ、苛立った様子はない。時間はたっぷりある。時間だけはたっぷりある。しかし悠がいつまでも視線を逸らしたままなので、運転手は仕方なく扉の開閉ボタンにそっと指を伸ばす。
わざとやっているようには見えない。少なくとも、頭のわるい子どもが、底の浅い悪だくみに興じているようには見えないのである。それは彼にとっていくらか慰めになった。たぶんこの子は単にこの場所この位置が好きなだけなのだ。あるいはこの位置から見わたせる風景が。この子どもがバス停の近くに立つようになってから、たかだか数週間ほどながら、運転手は子どもに不思議と好感を持っていた。だから、バスそのものが怒っているかのように、がたんと派手な音を立てて扉が閉まるのを、運転手は子どもにたいしてどこかもうしわけなく思うのだった。
バスが走り去る。時間が砂埃とともに舞い、空中にとどまったまま、またぴくりとも動かなくなった。
横断歩道の向こう側から、瞭と花がならんで歩いてくる。たまたま帰る方向がいっしょだから歩調を合わせて歩いている、というふうに。話もせず。友だち同士。には見えない。このふたりはいつもこうなのだ。以前から。幸せの実感がないのにむりやりそう演じようとしている夫婦みたい。悠の両親がこんな感じだから、よけいそう見えてしまうのだろうか。
彼らが横断歩道を渡りきる前から、悠はもう歩きはじめる。
そこだけ切りとると悠がひどく自分勝手な子どもに見える。冷たい子どもに見える。だがそこには悠なりの理由がある。
ふたりのあいだにいると、悠はつねに自分を異物として感じつづけるのであった。それは複雑な感情だった。小学六年生の悠にはさすがに自分にもうまく説明できない。
ふたりがもとから仲良しのコンビであれば話は単純なのだ。悠が疎外感を抱いて。風船のように日々その疎外感が膨らみつづけ。処理しきれなくなった悠は観念して他の環(サークル)を探す。それでおしまい。
だが、悠があとから合流したのに、それまでまったく見ず知らずの間柄だったのに、ふたりの関係性は、そもそも悠によって保たれているように感じられるのである。およそ脈絡のない、ふたつの事象のあいだに、なにかが置かれることで正解が導かれる連想クイズみたいだった。悠はなぜか瞭と花のふたりにそうした小道具として利用されているような気がして腹が立つ。
妙な居心地のわるさにもかかわらず、悠はこの環からはずれることができなかった。しかし悠は孤立することを恐れているわけではない。悠はこう見えて、百戦錬磨の流浪の民だ。父親のたび重なる転勤にあわせ、悠は低学年の頃から、さまざまな土地を転々としてきた。孤独の影にただ怯えるだけの子どもではない。状況によっては鞘から剣だって抜く。
だが田舎町で友だちをつくるのもけっこう骨が折れる。都会の学校でさえ大変だった。だいいち、気軽に話せる相手がいるのはわるいもんじゃない。悠は自分に言い聞かせるのだった。たかが友だちだよ。そうムキになるもんでもないし。それに――ここはただの通過点。いつからか悠はこういう考え方をするのに慣れっこになっていた。防御本能。なのかもしれない。我慢しよう。とりあえず、いまは我慢だ。父親のつぎの転勤が決まるまでは。
*
道の途中で拾った小枝で、無遠慮にあちこちの草葉を叩きながら、悠は自分だけ、どんどんさきに森のなかを歩いていった。前日の夜遅くまで雨が降っていたことも悠の心を踊らせた。悠が杖をひと振りすれば、羊歯の葉がうねり、暗い森に射しこむ光の筋のなかで、弾けとんだ飛沫が明滅する。湿って黒ずんだ楡の木を叩けば、川からあがった犬のように、枝葉から大量の水をあたりに撒き散らすのだった。残酷な子どもはのろまなカタツムリさえ容赦なく叩きのめす。
瞭と花には辛うじて悠の背中が見える。陽気な酔っぱらいのように軽い飄々とした足どり。でもきちんと行く先はわかっている。まるで瞭と花が彼の隠れ家に案内されているみたい。
しかしそのことにふたりとも不満はなかった。花はもちろんのこと、瞭にもない。たとえ最初に瞭がここを見つけて、弟にも内緒にして、花だけをこっそり招き入れ、その花が瞭になんの断りもなく、悠を連れてきたのだとしても。
それにしても悠は足が速い。急ぐ理由なんかないのに。都会で生まれた子どもはせっかちなのだろうか。そしてすぐにばてる。息を切らせる。同じ距離を歩いても瞭と花はへっちゃらだ。汗ひとつかかない。
野道をはずれたところにある、厚い苔だらけの断崖にぽっかりあいた穴の前で、やっと悠が立ちどまる。さっきまで絶えず頭上を覆っていた木の葉の天蓋はここになく、過酷なまでの強い日差しが、地面の伸びきった草に、煌々と降りそそがれている。もっとも、穴の入口には緑色の蔦が絡まりながら垂れさがり、外の光をいくらか遮っているため、なかはまあまあ薄暗い。
それは防空壕であった。第二次世界大戦中に米軍の空襲爆撃から避難する目的で掘られたものだ。
瞭が言うのだから、たぶんそうなのだろう。歴史の教科書にもたしかにそういうものがあったという記述がある。とはいえ、入口から奥の突き当たりまで、子どもの歩幅でせいぜい五歩ていどの深さで、いったい何人ほど収容できたのか。悠は疑問に思っている。教科書に載っている添付写真も、ネットで検索して出てきた何百枚もの画像も、この穴ぐら(そう呼ぶのに相応しいものだ)よりもずっと広い。
天井は剥きだしの土の壁ながら、落盤の懸念など微塵も感じさせないほど頑丈で、穴のなかで寝ころんでいても、砂の粒ひとつ落ちてきたことはない。その点ではやはり自然の産物とはいえないだろう。しかし足裏に感じる地面のでこぼこは、鍬や鋤、あるいはもっとそれらしい道具で均されたという気がしない。いわゆる突貫工事だったのか。有事なのだからそれもあり得る。
教師をここに連れてくれば、ほんとうのことがわかるのかもしれない。だがそれはこの秘密基地を大人たちに明けわたすことと引きかえの行為だ。拾ってきた鼠の死骸を、人間にさえ奪われないため、縁側の軒下で後生大事そうに前肢で包みかくしている猫のように、彼らはこの秘密基地が、秘密基地でありつづけるために懸命な努力を払ってきた。悠が加わってからはとくにそうだった。
瞭と花だけが占有していた際には、うつろいやすく散漫だった「秘密」が、花に連れてこられた悠が、その場で即座につくりあげた指揮系統によって、明確に文書化された「秘密」となった。花にはじめてここに連れてこられた日、悠はずっと興奮しぱなっしだった。なぜかひどく怒っていた。よほど悔しかったのだろ――この秘密基地を発見したのが自分ではなかったことが。悠にはそういう屈折したプライドがある。
大人の男女が浮気を問いつめるのとまったく同じ調子で、瞭がこの場所を発見してから、自分が花に案内されるまでの、正確な期間のずれを聞き出すと、悠の怒りはとうとう頂点に達した。ふたりとも悠がそこまで感情的になるのを見たことがなかった。そして瞭も花もなぜこんなことぐらいで悠が真剣に腹を立てているのか最後までよく呑みこめなかった。さらに言えば、悠が転校してきたその日に話しかけてきた瞭が、まずなにを置いてもこの場所のことを報告しなければならなかった、という悠の言いぶんを聞いたときは、さすがにめちゃくちゃだと、瞭でさえ思った。すごい屁理屈。
君ら田舎者にはものの値打ちが全然わかっていない、といわんばかりに、唾をとばし、指を突き立てながら、悠は険しい表情でふたりに、この場所を誰にも口外しないよう、緘口令を敷いたのだった。たくもう。いい加減にしろよなと。そんな感じで。
ついでに各自に要塞を守る軍隊さながらの役割分担を与えた。ただし花は女の子だ。花には、とってつけたような、ただ体裁を取りつくろうためだけの名目が与えられただけであった。そしてまた指揮官は自らにわざわざ重大な任務など課さないものである。そういうわけなので結局のところ瞭が秘密保持の全責任を負わされることとなった。都市型の洗練された消去法というやつである。だが瞭は文句のひとつも言わなかった。なにか言いたそうな顔はしたのだが。
男ふたりの力関係はそもそもの最初から悠が完全に優位に立っていた。といっても、取っ組みあいの喧嘩をしたうえで決まったわけではい。そもそもふたりは喧嘩なんかしたことがない。だったらなぜ、駆け引きがとくべつうまいというわけでもない悠が、瞭にたいして圧倒的優位に立っていられるのか――そこには単純に先まれながらに征服する者と、先まれながらに征服される者の違いしかなかったわけである。
このような出来レースの決議がたまに三人によってなされるとき、花ひとりだけが、悠と瞭をさもおかしそうに、笑いを堪えた、なんともいえない表情で見守っているのがつねなのであった。
*
「今日はなにをしようか」
悠が穴ぐらのいちばん奥に座り、ひとりごとのように呟く。
選択肢は無数にあるようで、まったくなかった。秘密基地が瞭と花のふたりだけの独占区であったときには、あくまでここを文字どおりのベースとして、彼らにとって未開拓の広々としたこの森のあちこちを探索したものである。しかし、悠という、怠惰の権化が参画してからというもの、森のなかをあてどなく探索することを、瞭と花はぱたりとやめてしまったのだった。
「自然散策」などといった行為は、悠にとって、どこか既視感があり、手垢にまみれた牧歌的趣味に過ぎなかった。実際のところ悠は時間の推移によって刻々と姿かたちを変える自然の機微がわからない。咀嚼できない。父親の転勤に付き添って、同じような田舎町を転々としたのも、やはり少なからず影響しているのだろう。それでわかったこと。――田舎なんて絵葉書のなかの山麓の風景のようにどこも似たりよったりだ。
とはいえ、悠がふたりにそれを強制したわけではない。悠は自分がそれに駆り出されないかぎりは、ふたりにたいしてあくまで放任主義を貫いていた。いったん目的地に辿りついてからは自由行動、というわけである。ここはしょせん基地に過ぎないのだから。ところが、ただ物怖じせず超然としているという理由だけで、ふだんからそこはかとなく説得力のある悠の億劫そうな態度が、他のふたりに伝播してしまったのである。「自然散策」なんて田舎に住んでいる子どものやることだ、と。
もっとも、悠だって、あからさまにそういう態度を顕わにしたわけではない。そうであったなら瞭と花も反発しただろう。だいいち、悠にだって、田舎を馬鹿にする気なんてさらさらない。悠はあくまで無言でふたりの自由行動を是認しただけである。――お好きにどうぞと。しかしその態度というものが実に雄弁で、本人が意図したかどうかはともかく、子どもとしては異様に切っさきの鋭い地方の文化批評を内包したものだったから、対抗するロジックを持たない(持つわけがない)ふたりの子どもたちは、あっけなく屈服せざる得なかったのだ。
悠は今日も飽きもせずにポケットから携帯ゲーム機を取り出していじりはじめた。天気の良すぎる日なので、瞭と花は溜め息をつきたくなる。だがあくまで悠が司令塔なのだ。仕方がない。花はキティちゃんのシールが貼ってある緑色のリュックから国語の教科書を取り出す。今日習ったページをめくって、鉛筆でさらさらと走り書きする。瞭は花の肩ごしに教科書を覗きこみながら、しきりに頷いている。むしろ悠のゲームの邪魔をしないために、ふたりとも行儀よくしているように見える。
穴ぐらの外で太陽がぎらつく。空には雲ひとつない。向こう側に見える鬱蒼とした木々の葉は釘で打たれたかのようにぴくりとも動かなかった。近くを流れる小川のせせらぎの音が、穴ぐらの壁をつたって、瞭の耳元から聞こえてくる。目を閉じると川で遊んでいるよう――。
瞭はすぐさま目を開けて口元を歪めながら頭を振った。花の教科書から地面に寝そべっている悠に目を向ける。
そうした段にいたっても、瞭が悠に向ける眼ざしに批判の色はない。どこか同情めいていて、まるで、骨董品の値打ちがわからない、ただ投資目的だけの顧客に向けられる古道具屋の店主の、あのいわくいいがたい諦観の表情とよく似ている。哀れみ。かもしれない。そうした安易な感情を抱くことに関して、子どもながらに慎重な瞭がそう感じるのには、それなりの理由があった。
瞭は一度だけ、悠の家に遊びに行ったことがある。悠が住んでいるのは、町にある唯一の駅のはす向かい、瀟洒な小豆色のブロック塀に囲まれた、白い外壁が光りかがやく真新しい三階建てのマンションだった。すぐ右隣りにマンションから数か月遅れでできたセブンイレブンがカレーの福神漬けのようにぴったり添えられている。まるで駅の利用客よりもマンションの住民たちの散財を臆面もなく当てにしているみたいだった。実際そのとおりなのだろう。周囲は見わたすかぎり、田畑なのだから。
マンションの室内も真新しかった。悠に導かれて、つるつるしたフローリングの廊下を歩いていると、顔は忘れてしまったが、とにかく若くて綺麗な女のひとが現れた。タイトなジーンズを穿いて、下着の線がうっすら見えるほど薄手の焦げ茶色のシャツを着ていた。抜群にスタイルが良かった。子どもでさえそう思うくらい。女のひとは瞭を見てにこっと笑い、瞭はとりあえず会釈だけした。
瞭はその女性のことをてっきり悠のお姉さんだと思った。悠の部屋に入り、お姉ちゃんいたんだと、瞭が無邪気な声で振ると、悠は不機嫌そうな表情を浮かべて、あれは母親だと訂正した。瞭はひとしきり唸った。それからこの年ごろの男の子たちがよくやるように、自分の母親の顔をわざわざ思い浮かべて、笑い出してしまった。
しかしその母親が数分おきに部屋に入ってくるのには参ってしまった。つねにスマホを片手に、悠になにかを報告か相談しにくる。まるで瞭の存在なんか目に入らないみたいに。冷えた羊羹とお茶を盆にのせて持ってきて、初対面同士のひととおりの挨拶をして、といった最低限の執務をこなしてからも、母親はひっきりなしに悠の部屋に来た。メルカリで物を売っているらしく、思いきって自分史上最高額をつけてみたエルメスのバッグが即売れしただの、数日前に商品を送った相手から変なクレームが来ただの、写真にうっすら映る筋は靴本来の皺じゃなく傷なのではないかという質問が来ただのと、ひたすら慌ただしい。
そのたびに悠は他人の親を相手にするみたいに親身になって相談に乗ってあげるのだった。端で聞いていて、瞭も感心するほど的確にして過不足のないアドバイスである。それを母親は中学生に勉強を教えてもらっている小学生みたいに素直にふんふん聞いているのだった。しかも、親子の話を聞いているかぎりでは、悠はメルカリの売買の達人どころか、いっさい手を染めてはいなさそうなのである。三時間の滞在中、数えはじめて二十回目の母親の記念すべき訪問を終えた際、瞭はさすがに思った。あとでやってくれないかなと。――せめてぼくが帰ってから。
さっさと自分に帰ってほしくてこういうことをやっているのかなと瞭は勘ぐったぐらいだった。それなりに傷ついた。しかしこのまま傷ついた心を持って家に帰りたくはなかった。瞭は胸をちくちくする靄がかった拘泥はなるべく早めに取り払って、すっきりしてしまいたい性分である。こと精神的な面における失地回復の希求という点に関しては、気が弱いだけに、瞭には他人よりよけいにこだわりがある。瞭は寝心地のよさそうなベッドに深く沈みこんで、ゲーム機に没頭する悠に率直に訊いてみた。
「悠のお母さんはいつもこうなの。それとも、ぼくが来てるからなの」
悠はゲーム機から顔をあげて、怪訝そうな表情をした。
「なんのこと」
「お母さんが頻繁に部屋に来ることだよ」
無表情のまま、しばらく間を置いてから悠は答えた。
「‥‥瞭のとこは違うの?」
この秘密基地が悠にとって息抜きになっていることは、瞭にだって容易に想像できた。母親の過剰な干渉から逃れるための――。本人が明確に意識していないまでも、それが悠にとって重圧になっているのは、第三者の目から見ても明らかである。そうでなければ、家でもっと手足を伸ばして気楽にできることを、わざわざこの窮屈な穴ぐらでやる必要はない。
最近はその矛盾に悠自身もうすうす気づいているのではないかと瞭は疑う。なんせ賢いやつなのだ。考えれば考えるほど、気づいてない可能性のほうが低い。だったら、ぼくたちに相談してくれたらいいのに。根本的に親切な瞭はそう思う。
しかし普段から悠がそれとなく漂わせる、君らとはしょせん短期間のお付きあい、という、まったく薄情さ抜きの無常感は、それが本人の経験則からくる絶対の前提になっているだけに、目に見えない壁となって悠を取り囲んでいるのであった。瞭も花もその壁をぶち破ることはできない。
それは現実の壁よりも、核シェルターの外壁よりも頑丈にできていて、しかも履きふるしたスニーカーのようにすっかり本人が馴染んでしまっているから、たぶん悠は自分がそういう壁に取り囲まれていることにすら気づいていないだろう。もしかしたらこうした悠の転校サイクルが終わりを告げても壁はそのまま残る可能性だってある。――こうなると瞭にはまったくお手あげだった。おそらく壁をぶち破ることができるのは自分を取り囲んでいる壁を直視した悠自身だけだ。
だから悠がこうして放課後の半隠遁の日々に自分たちを道連れにするのも許せる。しかし瞭にはどうしても許せないことがひとつあった。
瞭はいつも肩を並べて花の教科書を覗きこみながら、花がちらちらと悠を盗み見するのを気づかないわけにはいかなかった。瞭はそうしているときの花の横顔を見る。頬っぺたのまだらなそばかすのうえにある、ふたつの丸い瞳のせわしない往復は、それがわるいことでは全然ないのに、どこか背徳感にみちて浮き浮きと踊っていた。最初は気づかなかった。でもいまではさすがに瞭にだってわかる。花はいつのまにか自分の住んでいない世界に忍び足で密かに移動していたのだった。
花が悠に恋しているのである。
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