農園育ちの田舎令嬢、婚約破棄騒動に巻き込まれる
くーくー
第1話
「コーネリア・グィネヴィア・スノーブ嬢、本当に申し訳ない。あなたと婚約をすることはできない」
アンリ王子はその場のだれもが予想していなかった言葉を、今日この日にまさに婚約を発表する予定であった外務大臣バーネット・スノーブ侯爵の息女であるコーネリア嬢に発した。
宮殿の大広間、招かれた錚々たる顔ぶれの名家の紳士淑女たちの顔は凍り付きうら若きその子息や息女は一様にざわつき彼らの視線はたった今内定していて後は披露するだけだったはずの婚約を断られたコーネリア嬢の表情、その一点に集中した。
「よろしければご理由を教えていただければと存じます。わたくしに何か至らない点がございましたでしょうか」
彼女はその場にへなへなと座り込みよよと泣き崩れるようなことはせず、すっと背筋を伸ばしたまま凛とした眼差しでアンリ王子を見据えたが、その唇は微かにふるえている。
「あなたは何も悪くないのです。品行方正、容姿端麗、艶やかでありながら芯の強い深紅のカメリアのようだと皆様がそう称される通りだと私も承知しております」
「ならば何故……」
「それは……」
アンリ王子は気まずそうに目を伏せた後、頭上を仰ぎ、ふうっと大きく息を吐いた後意を決したようにぐっとこぶしを握り、朗々と語り始めた。
「私には幼いころから心に決めた女性があるのです。しかし、父上や姉上にそのことを打ち明けることもできずただただ時が過ぎ今日のこの日を迎えてしまいました。もっと前にきちんと行動しておればこのような場所であなたをこのような目にあわせてしまうこともなかったでしょう。これはすべて私の不徳の致すところです」
「何故、なぜ今なのですか。せめて人がいなくなってからでも」
ほかの女性への恋慕を衆目にさらされた状況で打ち明けられ、さしものコーネリア嬢の瞳もわずかに潤み、唇ばかりかそこから漏れる声も震え始めた。
「それではもう取り返しがつかなくなってしまうのです。私は自分が愛する方の前で、偽りの婚前の約束を交わすことなどとてもできなかったのです」
「その方は……ここにいらっしゃるの……」
「えぇ、幼き頃、川べりで約束を交わした向日葵のように輝く女性、その方は」
アンリ王子の言葉を最後までを待たずに、コーネリア嬢はこめかみを抑えて倒れこんだ。
「大変だ!医者を、医者を呼んでください」
遠巻きにこの高貴なような低俗なような痴情のもつれをしげしげと眺めていた貴族たちもさすがに駆け寄り、コーネリア嬢はすぐに広間の外へと運び出されアンリ王子も執事のじいやに慌てて連れ出されて結局彼の意中の人である向日葵のような恋の相手は謎のまま明かされることはなかった。
本来なら王子と侯爵令嬢の婚約が大々的に発表され、その後ダンスパーティーが開かれるはずだった大広間に残された子息や令嬢たちは一瞬ぽかんとあっけにとられた後にうわさ話に花を咲かせ始めた。
「向日葵、となるとおそらく髪の色は金髪なのだろう。ふーむだとするとピンネッタ男爵令嬢とか? 確か母方の伯母上が王子の教育係を務めていたとか」
「おいおい止めてくれよ! 彼女は俺の兄上の婚約者だぜ」
「ははは、すまんすまん。ほんの冗談だよ。この大広間の中だけでも金髪の令嬢なんて何十人もいるものな。特定なんてとても無理さ」
「あぁ、まぁ確実に違うってのならわかるんだけどな」
「あぁ、それは俺も分かる。あのオレンジの燃えるような髪、あれは向日葵なんてかわいいもんじゃなくてボーボー燃えさかる炎だぜ」
「口開いてるの見たことねーし、まぁ顔は悪くねーけど暗いつーかすっげー地味なのにな、髪だけはやたら派手だよな」
ビンジー伯爵とコンテッタ子爵の子息であるピーターとノートンがちらりと一瞥をくれた先にいるのは、この騒動に唯一興味を示さず壁の花というかほぼ壁と同化して存在を消していた貴族の息女の一人、シャルロッテ・セラ・ワープリンだった。
彼女は二人のその視線にも全く気付かない様子で、どこかをじっと凝視している。
その先には、シャンデリアの光でキラキラと反射するガラス瓶があり、その中にはなみなみとオレンジエードが入っていた。
【あぁ、あぁ、あのエードはいつ飲めんだっぺ?甘い飲み物なんて本当に久しぶりなっす。とても待ちきれねぇよ、誰かに聞いてもいいんかな、いや、勧められるまではやっぱだめなんだよなぁ】
とても貴族の令嬢とは思えない胸のうちの文言だが、彼女はれっきとした公爵令嬢である。しかし、訳あって田舎育ちのため言葉がひどくなまっていて家庭教師の指導でだいぶ直ってはきているのだが油断するとまだ訛りが出てしまうため、人前ではほぼ口を開かない。
現在は行儀見習いのため王宮から一番近い場所にあるマーガレット王太女の離宮に滞在している。しかしアンリ王子の姉であるマーガレット王大女は公務で日々忙しくしていて、挨拶もできず一度だけちらりとその姿を見たきりだ。
離宮には他にもシャルロッテと同じ十代半ばの貴族の令嬢たちが滞在しているが、一切交流はなく普段接するのはお付きの家庭教師のブリッター女史のみだ。
シャルロッテはこの女史から味の違いを覚えるためにと日々紅茶のみを飲まされており、甘くすると味がわからなくなる、それに勉強のためのお茶を嗜好品のように嗜むなど贅沢だと砂糖を入れることを禁止されていた。
そんなシャルロッテの前に久しぶりにお目見えした甘い飲み物。
飲みたくて飲みたくて、今にも喉から手が出てきそうだ。
エード、エード、オレンジエード、あぁあの橙色のしたたりが喉を通り抜けたら、その爽やかな甘味を舌で味わえたら、どんなにか至福のひと時であろう。
すっかり目も心もオレンジエードに奪われていたシャルロッテにとって、会場で起きていたひと悶着のことなどまったく目にも耳にも入ってこなかったのだ。
今夜の主役になるはずだったコーネリア嬢とアンリ王子が去ってからしばらくたち、手持無沙汰でうわさ話にも飽きてきた子息や令嬢が一人消え、二人消え、広間ががらんとしてきたころ、周りに人がいないのをきょろきょろと確かめてからそろりそろりとオレンジエードの瓶にやっと伸ばしたシャルロッテの手は、むなしく空を切った。
「シャ、シャーリー、さっきは驚かせてすまない!」
広間から去っていったはずのアンリ王子がバタバタと掛けてきて目の前に現れ、突如として彼女の肩に手をやったからだ。
【なんじゃーこの男は……あたいにエードを飲ませない気か】
むかむかとしたシャルロッテは目の前のふわふわと綿毛のような黄金色の髪をした王子の紺碧の瞳をねめつけ怒鳴りだしそうになったが、「なまりが出そうなときは会話はしないこと!」とブリッター女史にきつく言われていることを思い出し、ぐっと怒りの声を飲み込む。
「あぁ、シャーリー、この夜を切り裂く鮮やかなお日様の光りのような髪の色、相変わらず素敵だね。あの向日葵の種のように愛らしいそばかすが見えないのはすごく残念だけど」
アンリ王子は戸惑うシャルロッテをよそに肩に手を置いたまま一方的にまくしたてる。
一方のシャルロッテは彼が婚約を白紙に戻して話題の的になっていた王子だと全く気づいていない。
頭の中はクエスチョンマークでいっぱいになっている。
【何ぞ、コイツあたいの田舎でのあだ名で呼んできてずいぶんなれなれしいけど、あたいこんなやつあったことねーぞ。しかもそばかすのことまで知ってるし】
今日は白粉で隠されているが、シャルロッテの顔には鼻にちらほらなどとかわいいもんではなく右の頬骨の上から鼻を通って左の頬骨まで、それこそ向日葵の種のようなそばかすが散らばっていて、それは彼女のけして小さいとは言えないコンプレックスだった。
「あー!お前何ぞ!あたいはエードが飲みたいってのに!ごちゃごちゃうるさい!」
とうとうこらえきれずにまくし立てると、アンリ王子は一瞬キョトンとした後ぱぁっと満開の笑顔を見せ、それからシャルロッテの前で跪いた。
「ぷぷっ、あぁ、それでこそボクのシャーリーだ。離宮でちらりと見かけてもずっと俯いて元気なさそうで心配していたんだ。順番があべこべになってしまったけど、もうこの思いを飲み込むことはひと時たりともできない。シャーリー、シャルロッテ・セラ・ワープリン嬢、どうか僕と結婚してください」
「はぁぁ!?ふざけるのもいい加減にしろ!ぬしのことなんぞ知らんわー!」
掴まれてキスをされそうになった手の甲で王子に裏拳をかましたシャルロッテはエードの瓶をつかんでその場から遁走した。
その背中をじっと見つけて悲しそうに肩を落としとぼとぼと再び大広間から去っていくアンリ王子の二度目の修羅場をすべて見届けていた者たちがいた。
それはピーター・ビンジーとノートン・コンテッタだ。
この出来事は悪女令嬢にもてあそばれて足蹴にされた間抜けな王子という醜聞になって、王都中を駆け巡ることになる。
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