ハヤミ時計店の鍵師

佐倉華月

閉店間際のお客様 1

 店の壁一面に、時計がかけられている。

 かちこちと不揃いに鳴る音が、懐中時計の修理に没頭する速水はやみツカサをより一層集中させる。

 細かな部品を真剣に見つめる青い目は、片眼鏡の拡大鏡をかけている。二十九歳の彼には少々古臭いそれは、先代の店長から受け継いだ代物だ。

 ブブブ、と作業台の片隅に置かれたスマートフォンが振動して、ツカサはびくっと肩を揺らした。

 その拍子に、ピンセットでつまんでいた小さなネジが床に転がってしまった。

「わ、しまった」

 ツカサは椅子から飛び下りて、落ちたネジを探した。一つでも部品がなくなってしまえば、懐中時計は元に戻らなくなってしまう。

 ネジは棚の下に入り込んでしまいそうだったところで、無事に捕まえた。

 ふう、と安堵の息を吐き、椅子に座って作業を再開しようとしたところで、カランとドアベルが鳴った。

 ドアが開いて吹き込んできた風は、秋の終わりを感じさせる冷やかなものだった。

 入ってきたのは、客ではなかった。

「ただいまツカサさん」

 二つ年下の同居人、中條類なかじょうるいが上機嫌に片手を挙げた。近所のスーパーから帰ってきた彼は、長袖シャツにジーパン姿で買い物袋を提げている。首元にちらりと見えるシルバーのチェーンの先は、いつも服の下に隠れたままだ。

「遅かったね」

「そこで立花たちばなさんと会ってさ」

 立花さんは、近所で洋服店を営んでいる話好きの女性だ。七十歳近くになる彼女と会うと、口を挟む間もないほどにしゃべり続けるので、三十分は立ち話をすることになる。

 今でこそきちんと身なりを整えている類だが、出会った頃は頭のてっぺんから耳の上までが黒髪、そこから肩に近い位置の毛先までが茶髪という、手入れしていないのが丸わかりなツートーンの頭だった。

 あごには無精ひげを生やし、服も明らかに着古したものを着ていた彼は、とにかく見た目に興味がなく、知り合いでもなければ声をかけづらい出で立ちをしていた。

 どんな格好をしようと個人の自由だが、店が関わるとそうもいかない。

 その姿でいるなら、営業中は店のほうへは来ないでほしい。

 ツカサがそう言うと、彼は翌日には髪を黒に染めてきた。

 染め直すのが面倒くさいから黒にした、と本人は言っていたが、おかげで爽やかな好青年に様変わりし、元々の顔の良さもあって近所ではちょっとした人気者になっている。

「あれ、めずらしいね。時計の修理なんて」

 作業台をのぞきこんで類が言った。

「めずらしくはないよ。ここは時計屋なんだから」

「だってそれの前に修理の依頼が来たの、いつだった?」

「……一か月くらい前だったかな」

「ほら、めずらしいじゃん」

 勝ち誇ったように言って、類は店の奥へと入って行ってしまった。

 ここはハヤミ時計店。れっきとした時計屋だ。腕時計に置時計から懐中時計まで、常に百種類ほどの商品を取り扱っている。

 そのほとんどが年代物なのは、時計の購入を目的とした客がほとんど来ないからだ。

「今日シチューにしたけどいい?」

 奥にあるキッチンから、類の声が問いかけてきた。

「うん、ありがとう」

 すっかり集中力が切れてしまったツカサは、拡大鏡を外して腕の時計を見た。

 時刻は、午後五時半を回っていた。窓からは橙色の光が差し込んでいる。

 キッチンから聞こえてくる野菜を切る音に、ツカサはふと耳を傾けた。料理の上手い人が鳴らす音だ。

 リズムがよくて、ほっとする音。

 目を閉じれば気持ちよく居眠りできそうだが、営業時間中は眠るわけにはいかない。

 ただよってきた野菜を煮込む香りに今度は少し腹が減りながらも、ツカサは再び懐中時計と向き合った。

 持ち主は年配の男性客で、オーバーホールを頼まれた。

 つまり、懐中時計を分解しての清掃だ。

 預かる期間は二週間から三週間。部品の交換が必要な場合はさらに時間がかかるので、一度連絡を入れることになっているが、今のところその必要はなさそうだ。

 閉店まであと三十分。

 今日はもう客が来ることはないだろう。

 一人黙々と作業に没頭していたツカサは、閉店の時間になっても看板をクローズにかけ替えるのをすっかり忘れていた。

 営業時間を十五分ほど過ぎた頃、店のドアが開いた。

 入ってきたのは四十代前半の女性と、黒い箱を大事そうに抱えた制服姿の女子高生だった。

「あの、まだ大丈夫ですか」

 ツカサは、はっと時計を見た。営業時間はとっくに過ぎていたが、看板をオープンのままにしていた自分が悪い。

「大丈夫ですよ」

「鍵開けをお願いできるとうかがったんですが」

「できますよ。どうぞこちらへ」

 ツカサは、店の片隅の応接スペースへと二人を促した。そこにはアンティーク調のテーブルと、二人掛けソファが対面に一つずつ置かれていた。

 目の前に座った女性が、ツカサを見て言った。

「あの、今日は店長さんは」

「店長は僕ですが」

「でもあの、ここの店長さんは年配の男性で、鍵開けの名人だとうかがってきたんですけど」

 人と話すのがあまり得意ではないのか、女性はしどろもどろに言葉を紡いでいる。

「先代は二年ほど前に亡くなりました。今は僕が店長です」

「そ、そうなんですか……」

 女性はまだ何か言いたそうに口をもごもごさせている。

 まだ何か、などとたずねるわけにもいかないので、とりあえず依頼内容を聞こうとしたときだった。

「気になるなら言えばいいじゃない。お兄さんで大丈夫なんですかって」

 女性がぎょっとして隣の女子高生を見た。

「ちょ、ちょっと日菜子ひなこ

「だってお母さん、心配なんでしょ。このお兄さんに大事な箱を任せて大丈夫なのかって」

「目の前でそんな失礼なことを」

「こういうのはお願いする前に聞いたほうがいいよ。どうせあとでぐずぐず悩むんだから。ね、店長さん」

 日菜子に同意を求められて、ツカサは少し戸惑いながらも答えた。

「絶対に開けられる、というお約束はできません」

「どんな鍵でも開けられるって聞いたんですけど」

 日菜子が皮肉っぽく口をとがらせた。

 どんな鍵でも開けられる鍵師のいる時計店。

 ハヤミ時計店がそんな風に呼ばれるようになったのは、曾祖父がこの店を営んでいた頃からだ。

 元々鍵屋を営んでいた曾祖父は、旅行で西洋を訪れた際に出会ったからくり時計に一目惚れをしたことがきっかけで、鍵屋を辞めて時計屋を開いた。しかし鍵師として優秀だったこともあり、時計屋になったあとも鍵開けの依頼に来る客は絶えなかったという。

 その後、曾祖父の鍵開けの技術は祖父に、そして今はツカサに受け継がれている。

 ちなみに曾祖父が一目惚れしたという西洋のからくり時計は、今も店の壁を大きく陣取っている。

「まだ物を確認していないのに適当なことは言えないですよ。壊してもいいから開けてほしい、ということならそうしますけど」

「絶対だめ」

 日菜子が膝に乗せていた黒い箱をぎゅっと抱きしめた。

「せっかく来ていただいたんですから、お話だけでもうかがいますよ」

「……ほんとに話だけしてやめるかもしれないけど」

「いいですよ」

 ツカサが笑顔で答えると、日菜子は抱えていた箱をそっとテーブルに置いた。

 艶やかな黒塗りに、桜が美しく散る様を蒔絵で装飾した、美しいジュエリーボックスだった。

「この箱の鍵を開けていただきたいのです」

 母親が言った。

 箱には小さな鍵穴がついていた。

「亡くなった父のものです。大事なものが入っていると聞いていたのですが、その、どうしても鍵が見つからなくて……」

「手にとって確認してもよろしいですか」

「あ、はい。お願いします」

 ツカサは箱を手に取ると、ポケットから出したペンライトで鍵穴の中を照らした。

 見たところ、複雑な作りをしているわけではなさそうだ。

「それほど難しくはなさそうですね。鍵を開けることはできると思います」

 箱をテーブルの上に戻して、ツカサが言った。

「その、どのくらいかかりますか」

「そうですね。明日まで預からせてもらえれば大丈夫だと思いますが」

「いえ、その……」

 もごもごとうつむいた母親に、見かねた日菜子が口を挟んだ。

「もう、聞きたいのはお金でしょ。いくらぐらいになります?」

 ああ、とツカサは納得した。

「千五百円から二千円くらいですかね」

「それって二千円以上もあるってこと?」

「ないと思っていただいて大丈夫ですよ」

 母親がほっとした顔をした。

「どうする? 日菜子。お願いする?」

「お母さんが決めなよ。私は箱が壊れたりさえしなければいいから」

 言いながら日菜子がツカサを見た。

「壊れるようなことはしませんよ」

「じゃあ、お願いします」

 母親は、テーブルの上の箱をツカサのほうにそっと押し出して、頭を下げた。

「ありがとうございます。ではこの顧客カードに、お名前とご連絡先のご記入をお願いします。鍵が開いたらご連絡しますので」

 母親がカードに記入し、二人は箱を預けて店をあとにした。

 豊田美佐子とよだみさこ

 名前の欄にはそう書かれていた。

「綺麗な箱だね」

 いつの間にか後ろに立っていた類が、テーブルの上の黒い箱を見て言った。

「ていうか、また営業時間過ぎてるのに引き受けたの?」

「僕が看板をクローズにし忘れてたからね」

「クローズになってたって引き受けてるでしょ。この前なんて、店閉めて夕飯食べ始めようとしたときに飛び込んできた客を受けてたし」

「あれは、僕がドアの鍵をかけ忘れたせいもあるから」

「断っていいと思うけどね。そういうときは」

 そう言われても、店内まで入ってこられてしまうとどうにも断りにくい、というのがツカサの本音だ。

「で、簡単に開きそう?」

「たぶんね」

 ツカサは箱を持って立ち上がった。お客様から預かったものを、いつまでもテーブルに置いておくわけにはいかない。

作業台の鍵付きの引き出しの中へ丁寧にしまった。

「もうすぐ夕飯できるけど」

「わかった。片づけたら行くよ」

 ツカサは店のドアを開けて、外へ出た。

 外はすっかり暗く、薄手の長袖シャツ一枚では身震いしてしまうほどに冷え切っている。

 ここは、町で一番大きな駅前商店街だ。ツカサが幼い頃は人通りも多くにぎわっていたが、今は人の往来もまばらになってしまった。

 道を挟んで向かいの八百屋は、何年も前からシャッターを下ろしたままになっている。一方で、居酒屋ばかりが煌々と道を照らしている。

 ツカサはドアの外側の看板を、クローズにかけ替えた。

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