蛟龍
天翔の「亜父」、
『極秘の勅書を受領した。宰相
おそらくは、天翔への密書と同じ内容だと思われた。明傑の所領は、天翔が治める
宮廷にも長年仕えた、知勇兼備の年長者の判断であれば、本物の勅書とみて間違いはないのだろう。だが同時にそれは、碧海の二つ目――「同じ密書が複数送られている」との推測が真実であることも示していた。
ならば、これは競争なのだ。最も早く都へ入り、宰相を討ち果たした者が次の権力を握る。
ゆえに天翔は――発案は碧海ではあったが――亜父と尊ぶ相手へ向けて、解釈によっては自信過剰ともとれる返書を送った。
『私も同様の勅書を受領しております。天子様の苦しみを思えば、奸賊は一刻も早く討伐すべきでありましょう。私は先に兵を進め、亜父のために露払いを務めてまいります。都にてお会いするのを心待ちにしております』
つまりは、こちらが先に都へ着く、との宣言だ。
天翔の所領は都から遠く、稼働できる兵力も少ない。だがその分、素早い行軍も可能だと碧海は判断した。
天翔の兵力では、単独では宰相配下の軍には立ち向かえないだろう。だが先陣切って都へ到達することで、同盟関係にある明傑の立場が、ひいては天翔自身の立場が、いくぶん有利になるかもしれない。
さらに、碧海は考慮に入れていないであろう想いも、天翔の判断に影響を与えた。
――私は立派に育ちました。亜父を
十余年ぶりに会う、敬愛する御方にそう告げたかった。できれば手土産と共に。
己が兵を率い、都の門前で亜父を迎えたかった。ひとかどの男に育った、なによりの証として。
天翔の返書は、即日使者に託された。そして日没さえも待たず、天翔と碧海は一千の手勢を率い、鴻郡を発った。
「震えていますね。そこまで、都が楽しみですか?」
馬上、旅の装いとなった碧海が声をかけてきた。天翔は相変わらず黒頭巾で顔を隠していたが、緊張は目にも表れているかもしれない。
「生まれて初めての上京が、このような形になるとは思わなかった。できれば、平和な賑わいを見て回りたかったが」
言いつつ、天翔は周りを見回した。
街道の両側は、見渡す限りの青い麦畑であった。まだ収穫には遠いものの、顔を出し始めた幼い麦穂が、緑葉の間からちらちらと顔を覗かせている。
「都の宮殿は、『木』の青緑色で鮮やかに彩られているという。この景色よりも遥かに、美しいのだろうか」
一面の青を眺めながら、天翔は手綱を握り直す。碧海はわずかに顔をしかめた。
「天子様の御住まいを麦畑に比べるなど、あまりに畏れ多い……いずれも『木』徳の表れとはいえ、天上の月と地上の小石とを比べるようなものですよ」
「……すまなかった」
天翔がうなだれると、碧海は表情を緩め、励ますように笑った。
「しかたありませんよ。月を見たことがなければ、月の美しさがわからないのは当然のこと。……共に天子様に仕える身として、いちどは見ておくといいですよ。都の栄華を、宮殿の美しさを」
どこか自慢げに、碧海は言う。だが誇っているのは自分自身の知識ではなく、天子の――皇帝陛下の貴さであることは疑いがない。碧海はそういう人物だ。
少し許された心持ちになり、天翔はあらためて周りの麦畑を見た。見渡す限りの瑞々しい青は、「木」の恵みに満ちている。
世界は「五行」の徳で成り立っている――ある程度の学がある者なら、誰もが知っていることだ。
そして、この世のあらゆるものは五行に属する。木は「春」「東」「青」「目」「酸味」などに対応し、火は「夏」「南」「赤」「舌」「苦味」などに対応する――といったふうに。
世を統べる帝室も例外ではない。「火」の王朝が衰えれば、火に勝つ「水」の王朝が後を継ぎ、水の王朝が乱れれば、水に勝つ「土」の王朝が取って代わり――そうして代々移り変わってきた、と史書は記す。
五行の果てなき巡りの末、いま世を統べるのは「木」、すなわち青の帝室であった。
◆
四日の後。天翔と碧海は行軍を続けていた。
周りの景色から麦畑は消え、乾いた黄色い荒野が地平線まで続いている。さらに都へ近づけば、青菜や果物の畑が増えてくると碧海は話していたが、いま目に入る景色に草木の青はない。このあたりは、「木」の力とはやや縁遠い土地なのかもしれない。
「天翔様!」
伝令兵の声で、我に返った。
街道の向こう、遠く前方に城壁が見える。都への道は半ばを過ぎた。次に通るのは
だが、街とは異なる方角から、ただならぬ気配が流れてきている。
「どうした」
「あちらを!」
兵の指す方角を見れば、黄色く乾いた大地の向こう、砂埃が激しく逆巻いているのが見えた。黒雲の下に立つ柱状の渦は、遠雷を従え、急速に天翔たちの軍へと近づいてくる。
「竜巻だ、散開し駆けよ! 城市に向けて進め!!」
碧海が叫ぶ。
すぐさま隊列が崩された。前方の城壁へ向けて、散り散りの兵たちが猛然と馬を駆る。
だが、風の方が速い。
唸る風に大粒の雨が混じり、ほどなく横殴りの嵐となった。平静を失った馬が、激しく
振り向けば風雨の隙間、厚い雲の奥に、不可解なものが見えた。
天翔は、はじめそれを黒雲の塊かと思った。だが雲の流れの中、それは確かな形を保っていた。風の中の
不意に、黒が吼えた。
轟音が天地を震わす。馬のけたたましい鳴声と共に、天翔の体が宙を舞った。
馬に振り落とされたのだ――と知覚するより早く、天翔の目は、黒きものの正体を捉えた。
雲中より現れた、蛇のごとき黒鱗の体。先頭で
――
書物の記憶が過った瞬間、天翔の身体は地に叩きつけられた。
意識が遠くなる。碧海の叫ぶ声が、風雨の向こうからかすかに聞こえた。
◆
目覚めれば寝台の上だった。服はすっかり脱がされ、横に座った碧海が眉根を寄せている。身体を起こしてみれば、幸いにも痛む部位はない。
「あの龍はどうなった。……我が兵たちは」
「まず状況の把握を試みる姿勢、一軍の将としては好ましいものですがね」
いくぶん呆れた口振りで、碧海は天翔の手を取った。乾いた手指で触れられ、己の手が冷たい湿気をわずかに帯びていることに気付く。
「あなた自身はどうなのです、天翔。将が負傷したとなれば進軍もままなりません。見たところ大きな怪我はなさそうですが、どうです、手足は動きますか」
「ひとまず、骨や腱に影響はなさそうだ。多少の打ち身はあるようだが」
手足をあらためて動かし、具合を確かめつつ答える。碧海は穏やかに笑みを浮かべた。
「ならば問題はありませんね。ここは翠柳城です。県令に話を通し、一時の滞在を許されました。城壁の中までは、蛟龍もあえて襲っては来ないと聞いています」
「兵たちは?」
「幸いにも人的な被害はありませんでした。ただ、龍の咆哮に驚いた馬たちがいくらか逃げ去ってしまいました。天翔、あなたの馬も含めて」
碧海の言葉に、少なからず天翔は落胆した。郷里で大切に育ててきた愛馬だった。馬の側からもなつかれていると思っていたが、書物の知識も持たない獣にとって、初めて遭う龍はよほど怖ろしいものだったに違いない。
今、どこでどうしているだろうか。馬の側でも天翔を探してはいないだろうか。龍に喰われたりはしていないだろうか。行方を探す余裕がないのが、たまらなく悔しい。
だが、ここで行軍を止めるわけにもいかない。天翔は重い口を開いた。
「そうか……代わりの調達はできそうか」
「県令との交渉次第ですが、用意できたとしても、慣れない馬では迅速な行軍は難しいかもしれません」
天翔は唇を噛んだ。明傑よりも先に都へ入り、己が力を示そうとする計画に、予想外の妨害が入ってしまった。大言壮語じみた手紙を、明傑へは既に送ってしまっている。遅れを取るようなことがあれば、大いなる恥だ。
「仕方がないな。覆水を嘆いても盆に返ることはない。今は、できるかぎりのことをやるだけだ」
言えば、碧海は目尻を下げて微笑んだ。
「いい落ち着きです。一軍を率いる者として頼もしい限りですよ。さすがは我が主」
碧海はちらりと部屋の端に目を遣った。青銅製の火鉢の中で、炭が赤々と燃えている。
「まあ、まずは身体を乾かしましょう。拭いはしましたが、まだ冷えているはずです。将が病を得て倒れたりすれば、今度こそ行軍が止まりますからね」
「拭ってやった、とは……碧海、おまえがか?」
天翔は少なからず驚いた。濡れた身体を拭うなど、下男下女のやることではないか。少なくとも、軍師のなすべき任ではないだろうに。
だが碧海は、眉根ひとつ動かさず答えた。
「ええ、私ですよ。鎧と服を脱がせ、ひととおり拭ったうえで寝かせました。……あまり、あなたの身体を他人に見せない方がよいと思いましてね」
天翔の心臓が、針で刺されたように痛んだ。
己が身に視線を落とせば、解かれた銀髪は湿気を含んだまま肩にわだかまり、幾筋かは胸板へと垂れている。白い胸に張り付く乱れた銀糸は、火鉢の光を受けてわずかに輝いていた。
「あなたの姿は人目を惹きすぎます。余人に晒し、いらぬ情を抱かれるのは本意ではないでしょう」
天翔は無言で頷いた。この罪ある姿を人目に触れさせることは、確かに、己も望まぬことであった。
「貴きものは隠すべし。宝の存在を誰も知らなければ、盗人に狙われることもないのですからね」
ふたたび天翔は頷いた。己の姿が貴いものだとは思わない。だが、人目に晒せば
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