天翔翼臣伝 白の貴公子は比翼の友と天を翔ける

五色ひいらぎ

1章 挙兵

密書

 書簡に触れた指先は、確かに震えていた。

 純白の紙巻物を綴じる、蒼天よりも澄み通った青緑の紐。この色がこのような使われ方をするところを、呉天翔ごてんしょうはいままでの生涯で見たことがなかった。


玉簡ぎょくかん、謹んで拝受いたします」


 細紐を解こうとするも、力の入らぬ指先は滑り、端を捉えられない。この醜態、上座に立つ使者には、そして傍らの師友にはどのように映っているのか――気ばかりが急く。

 額に脂汗が浮かび始めた頃、ようやく紐を解くことができた。巻物を広げ、息を呑んだ。

 繊細高雅な筆跡は、祐筆の手によるものだろう。華麗な修辞に満ちた文章も、到底七歳の子供が書けるものではない。だがすべての装飾は、かなめの一文が目に入った瞬間、天翔の意識から消え去った。


『宰相 蔡儒明さいじゅめいを討つべし』


 幾度も、文頭と文末を確かめる。

 文頭には己が名――『こう郡太守 呉天翔』が。そして文末には、確かに『永安帝 胡嘉勇こかゆう』の名が、青緑色の華麗な篆刻印てんこくいんと共に、読み間違いようのない楷書で黒々と記されていた。

 頭の芯が、身体の奥が、かっと熱くなった。



 ◆



 皇帝の使者と名乗る者が退去した後、天翔は急ぎ自室へと戻った。動悸が治まらぬまま椅子に腰を下ろすと、師友の周碧海しゅうへきかいが肩をさすってくれた。

 天翔の蒼眼に、抑えきれぬ興奮の熱が宿っている。色白のうなじが、滲む汗にしっとりと湿り、張り付いた銀色の後れ毛を鈍く輝かせている。

 頭上で固く結い上げられた髪も、新雪を糸に紡いだが如くの、汚れなき白銀色であった。白の肌、銀の髪、蒼の眼――異相の白が、おそろしいまでに端整な容貌を彩り、人間離れした美貌をかたちづくっている。


「碧海。これを、どう見る」


 書簡を示しつつ、天翔は熱を帯びた調子で問う。返ってきた碧海の声色は、意外にもごく冷静であった。


「天翔。あなた自身の見解はどうですか」

「本物であれば、大変なことだ」


 鮮やかな青緑――岩緑青いわろくしょう色の細紐を握り締めながら、天翔は考えを巡らせた。


「宰相の行状は、この北方の地にも伝え聞こえている。高位高官を自らの縁者のみで占め、国庫の財を遊興に浪費し、いさめた者を獄に送り……御歳七歳の皇帝陛下を蔑ろにする言動も多いと聞く。陛下が助けをお求めになるのも、無理ならぬことであろう、が」


 そこまでは、国の誰しもが理解できるはずだ。

 だが、不可解なことはいくつもあった。


「なぜ俺に。片田舎の一太守でしかない俺などに、天子の命が下った。より力のある諸侯は大勢いるではないか。例えば我が亜父あふ――」

「確かに劉明傑りゅうめいけつ様であれば、力もお人柄も申し分ないでしょうが」


 碧海はわずかに首を傾げ、悪戯っぽく笑った。彼がこの顔をする時は、こちらを試しているのだと、天翔はよく知っている。値踏みをするわけではなく、侮るわけでもなく、師匠が弟子の成長を量るときの慈愛に近い、やさしい笑顔。

 艶やかな黒髪を固く結い上げ、濃紺の着物をまとった碧海は、謹厳実直が人の姿をとったような佇まいで天翔と向き合っている。涼やかな切れ長の目に、少しばかり高めの鼻、形良い薄い唇は、十二分に美男子と呼べる容貌であった。とはいえ、天翔の神がかった美貌と並んでしまうと、あくまで人間の器量どまりではあったが。


「天翔。三つの可能性を、私は考えています。当てられますか」

「……あまりに力のある相手では、結局宰相の二の舞になる。そうお考えなのだろうか」

「確かに、一つ目はそれですね」


 宰相の専横が顕著になり始めた折、幾人もの有力諸侯が都での職を辞し、自らの所領へ戻ったとは伝え聞いている。天翔が「亜父」と慕う劉明傑も、そのひとりであった。

 多くの動機は保身であっただろうが、来たるべき政変に備えて力を蓄えている者たちも、少なからずいるであろう。それら有力諸侯のひとりが大義名分を得れば、力の均衡が再び大きく崩れることになるやもしれぬ。そう、碧海は指摘したいのだろう。


「私の見立てではあと二つ。さて、何があると思いますか」


 考え込む天翔に、碧海は薄く笑ってみせた。


「天子様は天地にただおひとり。だが天子の御使いは、ひとりというわけではありません」

「幾人もの相手に、同じ密命が送られていると?」

「さすがは我が『あるじ』。この程度はすぐ察しますね」


 父が子供を、よくできたなと褒めるかのような口調と微笑み。けれど不思議と、天翔には悔しさも劣等感もない。むしろ、彼に「主」と仰がれていることが不思議であった。歳は碧海が一つ下のはずだが、知識も知恵も、それらを運用する力量も、己ではまったく敵わないと天翔は感じる。とはいえ本人に伝えれば、「軍師」とはそういうものだと、笑って返されるのが常なのだけれども。


「私が天子様に策を献ずる立場であれば、ひとりにすべてを賭ける愚は犯しません。何名かの信頼できる相手を選び、個別に接触を図る。候補が多くいれば、そのうち幾人かが断り、また幾人かが失敗したとしても問題はありませんからね。ひとりが成功すればいいのですから。それに――」

「互いに牽制させ合えば、第二の専横者が現れる危険も減る、というわけだな」


 はは、と声を上げて碧海は笑った。


「合格です。仕えがいのある主に恵まれて、私は幸せです」

「まだ三つめが残っているぞ、碧海」

「それはあなたも、既にわかっているです」


 天翔が首を傾げると、碧海の笑みが含みあるものに変わった。


「最初に言っていたではありませんか。『、大変なことだ』と」


 天翔は大きく首を振った。意図はわかった。だがそれはありえないことだ。手中に持っていた青緑の細紐を、天翔は目の前に掲げた。


「偽物ではないだろう。綴じ紐と印泥いんでい、共に岩緑青いわろくしょうを用いるなど、天子様以外の誰にできようか」


 書簡の末尾に捺された、青緑色の印に視線を落としつつ、天翔はかすかに声を荒らげた。

 岩緑青。孔雀石を砕いた顔料は、現王朝の禁色――すなわち、皇帝以外が使用できない色である。五行の「もく」徳を享けた今の帝室が、世を治め始めて既に二百余年。「木」の象徴色である青緑の、最も希少な顔料は、長らく都の天子のみに占有され続けている。天翔も、郡に伝わる古い勅書でしか、この色を見たことはない。

 書簡をちらりと眺めつつ、碧海はまったく変わらない声色で答えた。


「そうですね、皇帝陛下以外が禁色を密かに用いることは難しいでしょう。だが、陛下を意のままに操れる何者かがいるとしたら?」


 天翔が息を呑む。


「宰相本人が、偽の密書で罠を仕掛けているかもしれない、か……」

「人心を失い焦っているか、反乱の芽を未然に潰しておきたいか。いずれの可能性も捨てきれませんよ」

「ならば、俺はどうすべきだ。碧海」


 岩緑青色の紐を手に、天翔はまっすぐに碧海を見つめた。

 白と銀とで彩られた、人間離れした美を湛える容貌が、真剣なまなざしで唇を結んでいる。正面から見据えられた碧海が、唾を飲む声がかすかに聞こえた。

 形良い双眸を一瞬伏せ、小さく息を吐いた後、師友たる軍師は口を開いた。


「密書が本物であれ偽物であれ、すべきことは同じだと私は考えています」

「また判じ物か、碧海。そろそろ俺は疲れたぞ」

「それは降参宣言と受け取ってもいいですか、天翔」

「かまわん。俺は大軍師様の御高説を拝聴だけしていよう」

「主を操り人形にするのは、こちらとしては楽しいものですが、ね」


 碧海は部屋の反対側、文机の上を見遣った。小さな龍が彫られた硯、田舎にしては質の良い筆と墨。いずれも碧海が見立てたものだ。


「いま動かすべき相手は、天翔、あなた自身にほかなりませんのでね。働いてもらいますよ傀儡殿」

「主使いが荒いな。それで、俺は何をすればいい」

「心配は要りませんよ。あなた自身も、やりたいことのはず――」


 碧海の言葉を遮るように、下人の声が部屋の外から響いた。


「天翔様! 劉明傑りゅうめいけつ様よりの使者がお見えです。重大な所用とのことで、天翔様に直に御目通りを願いたいとの仰せです」


 明傑の名に、天翔の心臓は大きく跳ねた。

 同時に、碧海が大きく息を吐いた。


「傀儡殿をこき使う必要は、なくなったかもしれません」

「どういうことだ? 亜父と関係があるのか?」

「明傑殿と連絡を取り、状況を確認すべし。その結果、必要ならば連携の手筈を整えるべし――それが、最初の一手のつもりでしたが」


 有力諸侯のひとりたる劉明傑は、天翔にとって最大の後ろ盾である。かつては宮中で将軍職を拝命し、職を辞して所領に帰った後も、幅広い人脈と財力、そして大規模な兵力とを有している。天翔が年若くして、辺境とはいえ太守の位を得ることができたのも、明傑の尽力があったゆえだ。

 それ以前も、天翔がごく幼い頃から、明傑は細やかに彼の面倒を見てくれていた。学問のための書物や師を手配し、折に触れて手紙を寄越し、己が息子のごとく成長の様子を気にかけてくれた。天翔が明傑を「亜父」――父の次に敬う人物――と呼んで尊んでいるのも、積年の多大な恩義ゆえであった。

 ともあれ。使者の到来に喜ぶ天翔を、碧海はどこか呆れたように見つめた。


「本当にあなたは、明傑殿の話になると楽しげですね。まるで子供のように」

「かけがえのない亜父だからな。子が父を慕うのは当然のこと……いや」


 天翔は椅子から立ち上がり、部屋の片隅に置かれた袋状の黒布を手に取った。頭巾であった。


「生みの父よりもずっと、大切な御方だ。血のうえでの父が俺に遺したのは、汚れた財貨と――」


 言いつつ、天翔は頭巾を被った。白銀を紡いだような銀髪が、黒布の下にすっかり隠れる。


「――この呪わしい姿だけだ」


 天翔は、さらに口元を黒布で覆った。おそろしいほどに整った容貌が、目だけを残して黒に覆われた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る