羊をかぞえる

三輪徹男

羊をかぞえる


 一


 Kは寝るときに羊をかぞえる。羊の知識がないために、想像されるのは毛の丸まった雪白たる羊である。月の光に照らされる草原に、羊たちは群れている。場所はどこだか知れない。北海道かもしれないし、露西亜かもしれない。遠くに黒い山並みが見える。星のよく見える夜空を冬の吐息のような雲がたなびいている。Kは羊を一匹ずつかぞえる。

 羊たちは雑然として辺りを彷徨き回っている。草を乱暴に食べ、羊同士でうるさく話し(羊には当然だが話の中身などない。あるいは人間には理解できないほどの高度な話し合いかもしれないが、羊にそのような知能はないだろう)、時には怒ってふわふわの身体を力いっぱいぶつけ合ったりする。そうしてすぐに喧嘩をしていたことも忘れて、げらげらと笑って糞をする。Kは羊をかぞえると同時に、そんな羊たちの世話をしている。といってもするべきことは数少ない。彼らは勝手に草を食べ、糞をし、またその糞を食べ、気ままに交尾をして暮らしている。Kの世話とは食べられる前に糞尿を片付けること、生まれた子羊が偶然に死なないように見守ることのみである。そうして生まれた子羊は親のように何も考えずに育つ。また能無し羊が一匹生まれる。そのようにして彼らはKのつくった世界で生きてきた。彼らに寿命はなく、始まりがあっても終わりはない。Kが死んだときぐらいだろう。彼らには自らを終える権利がないし、そんなことを考えることすらできない。Kが死ぬまでの間、羊たちは永遠に夜の、それも冬の寒い平原で生きていくこととなる。そこで永久に草を食べて糞をして、交尾をして生きていく。

 Kはいつもの通りに羊をかぞえる。羊は自分の倍ぐらいの大きさで、数え終えた羊は分かりやすく赤に染まる。彼が寝てその次の日の夜になるころには、もう白に戻っている。Kは十から先を数えることができないので、十のまとまりがいくつあるかで羊をかぞえる。Kが羊のいる世界を創り出した四年前には羊は五匹しかいなかったけれど、今では数え切れないほど羊がいる。十のまとまりの十のまとまりが三つほどできる。けれどもそこから先を数えようとするころには彼は眠ってしまっている。深い深い眠りだ。朝になって目を覚ますころには、もう羊が何匹いたかなんて覚えていない。

 Kは古いアパートの二階に暮らしている。角部屋である。六畳間より少し狭く、小さなベランダのすぐ先には大きなマンションがあって陽の光を遮っている。故にアパートは常に薄暗いし、洗濯物もあまり乾かない。けれどもKには洗濯なんてしたことがないから関係のない話だった。そもそも彼には洗濯機の使い方が分からないのだ。

 生ぬるい布団を出て、Kは空き缶やらカップラーメンやら弁当箱やらが散乱する床の踏み場をつま先で探りながら部屋を歩き回る。特に意味はないし、Kもそこに意味を求めようとしていない。ただそうしているとなにかをしている気分になるからしているというだけである。三十分もそうしているとピンポンが鳴る。Kはのろのろと玄関に向かい、扉を開ける。すると隣人のNが立っている。同じ会社のNはKの世話係であった。Kの面倒を見ているのはNだが、Nはとくに面倒見のいい人間ではない。むしろ誰かの世話、介護なんて仕事よりも嫌というような人物である。

「K、よく起きてたな。顔は洗ったか?」

「洗ってません」

「顔はちゃんと洗わなきゃだめって毎朝言ってるだろ」

 そう言いながらNは靴を脱いでKの家に上がり込む。Nはすでに会社へ行く支度を終えてスーツ姿である。髪型もオールバックにしてばっちり決めている。Kの背中を押して洗面所へと連れて行き、蛇口から水を出してやる。

「顔の洗い方覚えてるか?」

「………覚えてません」

「両手を椀の形にして、水を溜めるんだ。そうして溜めた水で顔を優しく洗う。優しく、だ」

 彼はジェスチャーを交えてKに教えた。Kは三度目に椀をつくるのに成功し、水を溜めたが、顔を洗う寸前になると手の形を崩して水を溢した。

「顔を水につけるのが怖いか?」

「怖いです」

「ならその手で顔を満遍なく濡らせ」

 言われた通りにKは顔を濡らした。Nの差し出したタオルを受け取って顔を拭いた。タオルはそのまま足元に落とした。Kが着替えるあいだ、Nは落ちたタオルを片付けて、それからズボンを脱いでKを呼んだ。Kはズボンを穿いたもののシャツのボタンの留め方が分からないようだった。だらしなく開いたシャツからはくたびれた下着が覗いている。

 Nはトランクスを脱いで勃起した性器をKに見せた。Kの顔は幼く、身体も小柄であった。Nは彼に性器を口に含むように言うと、跪いて言うことを聞いたKの温かな口内に射精した。KはNの出した精液を精液とは知らなかったが、尿に対する生理的嫌悪感は持っていたために性器を含むことは嫌だった。しかし射精したあとにNが優しく頭を撫でてくれることを知っていたKは、こうしてNの性器を舐めたり口にすることを喜んでする。KにとってNは父親のような存在であった。

 着替えを済ませてNの運転する車で会社まで向かう途中、彼は家族のことを考えた。Kの両親は神戸に暮らしている。弟が二人と姉が一人いる。Kの三つ年上の姉は先月結婚したばかりであった。しかしKが結婚式に呼ばれることはなかった。K以外の姉に親しい親族は結婚式に招待された。Kを呼ばなかったのは恐らく中学生のころの出来事が原因であろう。

 中学二年生まで、Kは姉と一緒に風呂に入っていた。一人で風呂に入れないために、姉がKの身体を洗ってやっていた。当時姉は高校二年生で、彼女には大学生の彼氏がいた。あの日の一週間前にできた彼氏は、すぐにKの姉を自宅に招いて太陽のある時から抱いた。姉にとって初めてであるセックスは、ロマンチックのかけらもない想像を絶する苦痛であった。性的快感などは一切が痛みに塗りつぶされていた。股の裂けるような痛みと、腹の底に金属の塊があるような異物感。それらは家に帰ってからも続き、股の擦り傷のようなひりひりとした痛みはいつまでも残った。その日もKと風呂に入った。中学二年生のKの身体は小柄だけれど、性器は皮が剥けて陰毛が生え揃っていた。彼女がいつもの通り彼の身体を洗おうとしたとき、Kは突然姉を突き飛ばした。大きな音を立てて壁に身体をぶつけた彼女はそのまま崩れ落ち、Kは倒れ込んだ姉に覆い被さって強引にセックスした。彼の性器は硬くなり、姉の性器は昼間の性交に濡れていた。するりと性器が入って、Kは姉の尻に己の腰をぶつけた。姉は泣きながらKの身体を蹴り飛ばし、腰を掴むKの腕を払い除けようとしたが、男児たるKに力では敵わなかった。そうしてそのまま無意味な抵抗をつづけながら実の弟に犯されつづけた。母親が大きな音に風呂場の扉を開けたときにはKは射精していた。姉はたった一度の射精で妊娠して堕胎手術を受ける羽目になり、高校を退学せねばならなくなった。彼女は友達を失い、二度と子供が産めない身体になった。

 Kは会社に着くといつも通りに業務をこなした。会社といっても単なる食品工場である。Kの仕事はコンベアから流れてくる食品の検査だ。彼は製品の異常を検知するという作業において、甚だ飛び抜けた才覚を発揮した。特定の分野において、彼は恐ろしいほどの天才であった。羊の世界をつくるのも、その一つに数えてよいだろう。

 昼休みには食堂で味噌ラーメンを食べ、夜になるとNとともに帰った。Nの部屋に寄って彼とホモ・セックスをした。Kは自身の肛門に性器を挿れられると、心地いい感じがするので嫌いではなかった。その日はNの部屋で一晩を過ごした。


 羊たちはいつでもそこにいる。静かな平原には静かな風が流れ、足元を茂る草々が寂しく鳴りだす。見上げると何億光年という距離の宇宙が隅々まで見通せる。宇宙には始まりがあっても、終わりはない。宇宙とは羊であり、羊とは宇宙である。彼は裸のまま草原に横たわる。すると羊の一匹がKのもとに近づいてくる。

『我々はいつまでこうしていればいいのだ?』羊は言う。

「きっと僕が終わってしまうまで」

 彼はこう言いながら不思議に思った。果たして自分はどのように終わり、終わった先はどうなるのだろう。自分には何も分からない。自分が見分けた異常のある製品が最終的にどうなるのかも、正常である製品がどうなるのかも分からない。自分には自分すら分からない。どうしてあの日、姉を犯したのか。そもそもなぜ犯さなければならなかったのか。そこに必然性はあったのだろうか? 自分の終わりに、羊たちに必然性はあるのだろうか?

 Kは自分と目の前の羊との違いを探してみた。しかし羊と彼とはなんら違うところがなかった。

『我々はどうして存在しなければならない。羊とは何たるや。宇宙とは何たるや。神とは何たるや。死とは何たるや』

 Kには何も分からなかった。漠然として羊は羊であり、宇宙は宇宙であり、神は神であり、死は死であった。同様に、生きるは生きるである。彼はそこになにか違和感を抱いた。なぜ僕は生きなければならないのだろう、と彼は思った。羊は彼のはだかの胸元にそっと頭を乗せた。羊は彼の心臓の胎動を感じているようだった。羊にとって心臓とは子宮であり、脳とは心臓だった。

「僕はただ眠りたいだけだ」

『眠るための羊』

「では生きるということは眠ることなのか?」

『ためしに隣で寝ている男を殺してみるといい』

 Kは瞼を開いた。


 二


 翌日、Kは出勤しなかった。しばらくしてNのケータイが鳴り響いたが、彼は気にも留めなかった。ベッドの上にはNの死体が横たわっている。目を大きく開いて、口を開けている。鼻の穴が大きく開いている。首には昨夜の彼の手の形が生々しく残っている。KはNの死体で生まれて初めて自慰行為をした。そうして床に寝転んで目を瞑った。依然として月の出た真夜中の世界には、羊たちがただ静かに生きている。

「Nを殺した」

『Nを殺したか』羊の性器はやはり勃起していた。

「あなたがNの羊ですか?」

『私はNの代わりではない』

 しかしKはその羊と交わった。


 三


 Kはそこにいる羊を一匹ずつ数え、そうして殺していった。羊たちは毛を一本引き抜くだけで簡単に死んでいった。ばたりと倒れて、羊の死体には彼の手の跡が無数に張り付いていた。彼は確実な終わりを羊たちに与えていった。羊たちは次々に死んでいった。あるいは彼の意識へと還った。月が沈みはじめていた。

『我々の終わりか』羊が言った。『殺してくれたまへ。君の終わりを待たずして死するのは、何よりも望まれるべきことだ』羊はそう言い残して死んだ。

 羊を殺しながら、Kは現実的な世界について考えた。結局のところ、自分は現実的で実際的な世界に生きていたのだろうか。この世界は間違いなく抽象的で概念的な世界である。この世界において羊は羊ではなく、宇宙は宇宙ではない。草原は草原ではなく、世界は世界ではない。全ては現実的であり非現実的、抽象的であり具体的である。では自分はどちらに生きていた? 彼は考えた。何よりも実際的であったのはコンベアから運ばれてくる食品と、結婚式に招待しなかった姉だと思った。そうして何よりも抽象的であったのはNだった。Nはもう死んでしまった。Kが殺した。そしてその死だけは確かに実際的であった。

『我々は生きている』Kと交わった羊が言った。『生きているとは同時に、死を望んでいるということでもある。あるいは死に最も近づいているということでもある』

「君は生きている? それとも死んでいる?」Kは訊ねた。そこにNの影はもうどこにも見当たらなかった。羊はにこやかに笑って(少なくともKにはそう見えた)、そうしてやはり死んだ。

 羊たちを殺しつづけても羊はぜんぜん尽きなかったが、その数は目に見えて減りはじめた。羊は仲間たちが殺されてもいつも通りでいた。彼らが殺されるたびに、Kの心は不自然に動揺した。自分自身で作り出した存在を自分自身で消すだけだというのに………彼にはそれがどのような理屈からなのか分からなかった。分からないことだらけだった。ただひとつわかるのは、自分は羊たちを一匹残らず殺さなければならないということだけである。

 夜空がほのかに明るくなった。遠く地平線が白くなり、だんだんと赤く闇を蝕みはじめている。Kは急いで羊を殺した。羊たちはなんの抵抗もなく死んでいく。ばたりと倒れて、それからまったく動かない。羊の死体だらけだ。

 ようやく最後の一匹となった。

『やあ』羊は彼に挨拶した。『僕は一匹めの羊であり、こうして最期の羊になった』

「一匹めの羊?」

『君が生み出したはじめの羊は実は僕なのさ。小学三年生のとき、君はいつも僕にいじめの身代わりをさせた。おかげでほら、背中のここ、毛が禿げちまってるだろ?』たしかに羊の言う通り、そこにだけ毛がなくなって皮膚が露出していた。その皮膚は瘡蓋のようにがさがさとしてわずかに膨れ上がっていた。

「もう僕は疲れたよ」

『僕も疲れた』と羊は返した。『早く殺しておくれ』

 最後の一匹もまた死んだ。太陽が遠い山並みを赤く燃やし、草原を焼け野原にした。羊たちの白い毛が赤く染まり、次第に黒く焦げはじめた。夜の世界が太陽に灼かれていた。Kもまた、太陽によって存在を燃やされてしまった。


 四


 羊が死に、朝がやってきて抽象的で概念的な世界が消えた。Kが気がつくとNの部屋は変わらないまま、現実的で実際的な世界は夜を迎えていた。Nの死体はどこかに消え去っていた。

 KはNのキッチンを漁って包丁を見つけると、自らの首に突き刺した。世界は徐々に黒く染まってゆき、現実的で実際的な世界は彼の存在ごと夜に呑み込まれて消えた。彼の意識はもうどこにも存在しない。

 Kは死んだのだった。辺りを歩く羊たちを数えながら。


 2024.3.9

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