恋人はじめました
伊島カステラ
第1話『ナンパ』
やわらかな風に鼻先をくすぐられて、僕は目を覚ました。
「ここ……どこだ……?」
木々の隙間から日の差す、暖かくて心地の良いこの場所に、僕は全く見覚えがなかった。
だからこそ、これが現実ではないということを理解するのに、さほど時間はかからなかった。
夢であるなら現実の自分が目を覚ますのを待てばいいだけの話だ。
「おはようございます、○○くん。よく眠れましたか?」
若干ノイズがかかったように聞こえてハッキリと聞き取ることは出来なかったが、確かに自分の名前を呼ばれた気がして振り返る。
そこには、一人の女の人が立っていた。
霞んでしまって、顔を見ることは出来ない。
だが、その姿を見た瞬間、何故か胸の中に『懐かしさ』と『苦しさ』に似たような感覚が生まれ、僕を蝕んでくる。
「どうしたんですか?そんな顔をして。まだ、寝ぼけちゃってるんですか?それとも……私のこと、忘れちゃったんですか?」
彼女の口ぶりからして、僕と彼女は知り合いのようだが……。
「え、えーっとぉ……」
どれだけ思い出そうとしても、記憶の中に彼女のような人はいない。
「ふーん……忘れちゃったんですかぁ……」
彼女の表情が、悲しそうなものに変わった気がした。
「すみません……」
「謝らないでください。私が悪いんですから」
「私が悪い……?どういう……?」
「人間っていうのは、嫌な記憶に蓋をしたがりますから。きっと、○○くんにとって”私”という存在、”私”という記憶は蓋をせざるを得ないモノになっちゃったんですよ」
「そんなこと……」
自然の否定の言葉が口から零れ落ちた。
何で、そう言えるのかは自分でも分からない。
だけど、顔も名前も知らない彼女の存在が『嫌な記憶』なワケがないと思ったのだ。
「ねえ……○○くん」
彼女の声はしっかりと耳に届いた。
彼女の声はしっかりと脳に響いた。
「私……○○くんのことが好き」
彼女の告白は、とても力強いものだった。
その言葉に呼応するように、僕の中にある”衝動”に近い何かが生まれる。
それはだんだんと熱を帯び始め、やがて僕の身体を支配するほどのものになる。
伝えたい……。
いや、伝えなきゃいけない。
きっと、ここで伝えなきゃ後悔してしまうだろうから。
「僕も――……」
そこで、僕の夢は終わりを告げた。
◆◇◆◇◆
「ふう……」
輝く夏の日差しを浴びながら、僕は一つ伸びをした。
もう夕方と言ってもいいような時間帯だというのに、空はまだまだ真っ青で、とても暑い。
そんな夏特有の熱と、今日が一週間の区切りである金曜日であるという事実が合わさって、達成感や高揚感に似たような感情が渦巻いて、とても清々しい気分になる。
そんな学校帰りの駅のホームで、見知った人物の姿を見付けた。
オシャレで可愛らしい、茶髪のショートボブ。
ほんのりナチュラルメイクも相まって、とても”イマドキ”な印象を受ける小柄な少女。
同じ高校の後輩である
椛木乃とは、約三ヶ月ほど前の入学式の日にたまたま出会い、そこから紆余曲折あってそこそこまで関係値を深めたのだ。
よく見ると、椛木乃は誰かと話しているようだ。
……いや、話しているというよりかは『詰められている』といった表現の方が正しそうな雰囲気だ。
その人物は、ウチの高校の制服を校則にギリギリ引っかからなさそうなくらいに着崩した、チャラチャラとした印象を受ける大柄な男子生徒。
所謂『陽キャ』や『ウェーイ系』といったやつだろう。
「き、
男子生徒の名前は『如月』というらしい。
「え~!別にいいじゃん!俺と遊ぼうよ~!」
「これからちょっと……友達との約束があるので……」
どうやら椛木乃は、如月先輩からナンパをされている真っ最中らしい。
「まあ、アイツ可愛いからなぁ……。そりゃ、モテるのも無理ないわな」
ナンパやら告白やらの一つや二つくらいされていたことがあっても、なんらおかしいことはないだろう。
もしかしたら、一つや二つで済む話ではないかもしれない。
「じゃあさ、連絡先だけ交換しておこうよ!」
「へ?い、いや……ちょっと……」
「え~!連絡先くらい別にいいじゃん!減るもんじゃないんだし!ほら、早くしないとお友達との約束に遅れちゃうかもだけど……いいのか?」
如月先輩のナンパは相手に逃げるスキを与えないようなもので、とても厄介そうだ。
椛木乃も椛木乃で、大柄でチャラチャラとした先輩に怖気づいてしまっているのか、中々断りきれていない様子だ。
押し負けるのも時間の問題だろう。
……少し嫌な記憶が蘇ってきてしまい、気分が悪くなってきた。
「はあ……しかたない、助けてやるか」
普段の僕であれば絶対に首を突っ込んでいないであろう事案なのだが、今回の場合は僕の”知り合い”だ。
ここで無視をして、後々大変なことになってしまったら、心内衛生上よろしくない。
「あのー……すみません」
「あぁん?」
さも当然かの如く、如月先輩が僕のことを睨みつけてくる。
これだからこういう系は嫌いなんだよ。
「申し訳何ですけど……その子、僕の連れなので」
できるだけ丁寧な口調のまま断りを入れてから、僕は椛木乃の腕を掴む。
「ほら行くぞ、椛木乃」
「え!?せ、先輩!?」
そのまま椛木乃のことを引っ張って、ちょうどホームに到着していた電車に乗り込む。
「……お、おい!ちょっと待てよ!」
如月先輩は一連の出来事に一瞬だけ呆気に取られた表情をしていたが、すぐに我に返ると、大きく声を荒げながら僕たちのことを追いかけてきた。
間一髪、目の前ギリギリのところで電車の扉が閉まる。
僕と椛木乃のことを乗せた電車は、如月先輩のことをホームに置いたまま、ドンドンと駅から遠ざかっていく。
「ふう……危なかった」
あのタイミングで扉が閉まってくれて本当に良かった。
あと一秒遅かったら、もしかしたら殺されてたかもしれない。
「あ、あの、先輩……ありがと……」
「お前さ、もう少し気を付けろよ。可愛いんだからさ」
「別に……私なんて全然可愛くないよ」
「いやいやいやいや……。可愛くなかったら、あんなにグイグイと陽キャっぽい野郎からナンパなんてされてないだろ」
「それは……そうかもだけど」
「だろ?結論、椛木乃は可愛い。”過ぎる”くらいにな」
「可愛くないの!マジで!」
「電車ん中では静かにしような」
「先輩のせいじゃん……」
僕の指摘にぶつくさと文句を言いながらも、椛木乃は素直に声のボリュームを小さくする。
「ま、自己肯定感は高くしていこうな。女子高生なんだしさ」
「何……その謎理論……」
「そんなことよりさ、さっき椛木乃のことをナンパしてたあの……如月先輩?って、どんなヤツか椛木乃は知ってるのか?」
何とはなしに聞いてみる。
「えぇ!?先輩、逆に知らないの!?」
椛木乃は「心底信じられない」とでも言いたげな表情をコチラへ向けてくる。
「残念ながら、全く存じ上げてないな。誰なんだ?」
「バスケ部のエースの
「うーん……知らないなぁ……」
僕の中に存在する薄っぺらな高校生活の記憶を掘り起こしてみたものの……。
『如月陽斗』なんていう人物は出てこない。
そもそも、住んでいる世界が一から十まで違うような人間だ。
僕が知っているワケがない。
「先輩、マジで言ってるの!?」
「マジもマジだよ。そもそも、その如月陽斗先輩は有名人か何かなのか?」
「少なくとも、私とおんなじクラスの友達は全員知ってるくらいには有名人だよ!」
椛木乃の交友関係がどれくらいのものなのかなんとも言えないが……そこそこの人間には知られているっぽい。
「まあ、僕は男なんかには微塵も興味ないからなぁ……」
「うーわ……先輩……」
思春期の男子高校生の『当たり前』を言っただけだというのに、何故か椛木乃が侮蔑の眼差しを向けてくる。
「んで、そんな有名人の如月陽斗先輩にナンパされた椛木乃は嬉しくなかったのか?」
「私は……別に。なんとなくカッコいいなぁ~……とは思うんだけど、ああいう人は好きじゃないっていうか……苦手なの」
「おっ、奇遇だな。僕もああいう野郎は好きじゃない。というか、嫌いだ」
いや、大嫌いだ。
「先輩はモテた経験がないから、モテてる人に僻んでるだけでしょ?」
「おいこら」
僕は椛木乃の頬を掴むと、ぐにぐにとしてやった。
クソ生意気な後輩にちょっとした制裁だ。
「うわぁ!先輩!や、やめ……やめろぉ!」
「やめてほしいんだったら、もっと先輩を敬う気持ちを持つことだな」
「そんなに敬われたいんだったら、もっと敬いたいって思えるような先輩になってよ!」
椛木乃は、この期に及んでまだ生意気なことを言ってニヤニヤしやがる。
「ちょちょちょちょ!先輩!先輩!!いだいいだいいだいいだい!」
椛木乃の頬を掴む手に、少しだけ力を入れてやる。
「電車では静かに――……って、うおっ!」
椛木乃に思いきり押されて、思わず大きな声が出てしまった。
「お前さ……電車の中では暴れちゃいけないって教わらなかったのか?」
「先輩が悪いんじゃん!そういう先輩の方こそ、後輩にそうやって暴力をしちゃいけないって教わらなかったの!?」
「いやぁ……教わったことないかなぁ……」
「もう!先輩のばーか!ばーか!私、もうここで降りるからね!」
「そういや、最寄り駅ここなのか」
僕の自宅の最寄り駅とは二個違いだ。
「先輩……」
「なんだよ?」
「その台詞……めちゃくちゃ気持ち悪い」
「うるせぇ。はよ降りないと扉閉まるぞ」
タイミングよく発車を告げるベルがホームに鳴り響く。
「あー!もう!先輩、じゃあね!」
「おう。ナンパには気を付けて帰れよ~」
「もうされないから大丈夫だよ!」
椛木乃は騒がしさそのままで、そそくさと電車から降りていった。
電車内に残った謎の生温かいような、冷ややかなような空気を全身に感じながら、僕も帰路につくのだった。
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