美術つれづれ

You大ニキ

第1話 あべのハルカス美術館ー円空展ー

 円空という人物を聞いて、まず素朴な印象を抱いた。

 これは決して勝手なイメージではない。みてもらえばわかるだろう、この荒削りを。誰が見ても素朴な像なのである。いや、中には下手と酷評する者もあらわれると思う。だが、この展覧会はそのような安直な考えを打破してくれるのではないかと考えている。

 以前、私の指導教官はこの展覧会を大絶賛されていた。


「君ねえ、あれは観た方がいいよ。」

「あ、はあ……」

「なんかねえ、定朝や運慶に通ずる何かを持ってるような気がする。彼らの仏像と円空仏とがなんか重なったんだ。」


 この言葉に衝撃を受けた。その言葉に対し間髪入れず理由をたずねたが、その答えは実にあいまいであった。あいまい、というよりはより感覚的な実感であるがゆえに言語化が難しいとのことだった。

 百聞しても致し方ないということで機会をうかがって昨日館にうかがった。

 一番目にくる作品はかなり刺激的なものを置かれることが多いが、今回はそこまで刺激的だとは思えなかった。しかし、その隣は実に刺激どころか様々な感情があふれ出す高揚感が得られた。

 隣にあった像は、真教寺しんきょうじ十一面観音菩薩像じゅういちめんかんのんぼさつぞうで円空仏の初期作例の一つとされている。現存する円空仏は終始一貫して正面観を重視し細部は絵画的な要素を見出すことができる。しかし、この像は一般的な円空仏とは一線を画した方がいい像であった。身体バランスを捉えることはさることながら、身体の太さ(殊に腕・手周辺)を十二分に維持した姿は鎌倉彫刻にもみられる重量感のある特徴を具えていた。また、細部に至っては一般的な着衣法などに基づく衣文線が施される箇所が確認できたり、像のなめらかさを殊に花瓶から見出すことができたりすることから、彼の彫刻能力は決して低いものではなかったことが感ぜられる。むしろ、さらなる技術の発展があれば鎌倉彫刻の近づける立役者になれたのかもしれない。

 観音像から展示の終わりまで見ていくと、次第に粗雑になっていくのは見て取れるわけだが、この像から彼の能力の高さ(潜在能力)は申し分ないほどあったのではないだろうか。

 そして、粗雑になった過程は決して能力の低下や忙しさを物語るものではない。やったことなのである。彼は実にいい意味でである。木端にも「ホトケ」の世界を見出し粗雑であってもなお彫ったわけだが、ここは仏教的観念に由来するものであろう。

 「ホトケ」には元来釈迦など目覚めた者のことを指してきたが、現在の日本仏教は「普遍真理」としてみなされている。その真理は我々の近くでなくとも、自然界に埋もれているのであって、「仏像を彫る」こと自体、神仏を勧請する行為としてみなしていたのかもしれない。

 自然の中から「ホトケ」をお迎えして、自然に朽ちていくことによって、またお帰りいただく……育っては朽ちていく、この自然のサイクルを受け止めて、彫刻行為によって「ホトケ」を迎え祀り、また再び自然という「仏国土ぶっこくど」にお帰りいただくという、刹那的な彫り方をしてるような気がしてきた。

 彼が本気で長く時間をかければよりいい像はできたのだろう。だが、それは彼の目的外だったのである。ひとえに「彫る」という勧請行為をひたすらせんがためだったのではないだろうか。

 彼の新たな側面をこの展覧会にて得ることできた。

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