この夜を覚えている

熊猫ルフォン

テセウスの船

 昼過ぎに起きてTwitter(X)を開くと、鳥山明の訃報が飛び込んできた。五秒くらい硬直した後に、その情報の真偽を確かめて、どうやら本当らしいとわかると「ご冥福をお祈りします」とツイート(ポスト)した。誰かが亡くなった時には、それが習慣になっているようだった。


 就活生の身なので、昼飯を食べると、すぐに髪をセットして私服に着替え、予約していた会社説明会に参加した。志望度の高い会社だったので一言一句聞き漏らすまいと耳を傾け、事業内容などを改めてワードに書き留めていった。説明会が終わり、手持無沙汰で友達に電話をかけ、駄弁り終わるころには日が暮れていた。


 夕食は母親の望みで焼肉に行くことに決まっていた。居間に降りると両親とも準備を済ませていて、自分もあわててアウターを羽織った。家を出る前にふとスマホを見る。かなり年上のフォロワーの方が、鳥山明の死を悼む内容を呟いていた。それでようやく実感が湧いてきて、父親の背中に向かって言った。

「鳥山明が死んだらしいよ」

 玄関扉に手をかけていた父親は短く返事した。

「知ってるよ」

 そうして、少し怒ったように付け加えた。

「最悪だよ」


 父親とはあまり話さない。別に仲が悪いわけではないけれど、朝に弱い自分とは活動時間が重ならず、日に二、三言しか交わさない。平日なら、一言も口を利かないことだって珍しくない。中学生くらいまでは、よく漫画やアニメの話をしていたけれど(自分の漫画好きは父親に影響を受けているので)、いつからか、お互いに干渉しない生活が続いていた。

 最近話したことと言えば、就活と祖父について。

 就活の話は、適当に近況を訊かれて、「仕事なんてしたくない」と、ありのままの気持ちを答えた。しかし気持ちの上ではそうであっても、親のすねを齧り続けて平気でいられる人間ではない。そのことをよく分かっている父親は、結婚すれば家族のために働くだろうと苦笑していたけれど、結婚というのも、自分にとってはあまり身近に感じられない言葉だった。

 祖父について話したのは、本当に最近、つい昨日のことだった。数年前から一日のほとんどをベッドの上で過ごしている祖父が、明け方トイレに行こうとして転んでしまったらしい。祖母の力だけでは立ち上がらせることができないので、父親が朝早くから助けに向かい、休みをとって病院に連れて行ったそうだ。その後特に報告を受けていないので、大きな怪我はなかったのだろう。


 焼肉を食べている最中も、Twitterを開くたびに鳥山明の名前が流れていった。誰かが、「50代も、40代も、30代も、20代も『世代だったので辛い』と言っていて、鳥山明の偉大さを実感した」というようなツイートをしていた。自分はあまり世代だと感じたことはないけれど、中学生のころは、学校帰りに友達と「ドラゴンボール超」のアニメを見ていたし、もっと小さいときには、行きつけの内科に置いてあったジャンプコミックを、適当に棚からとっては眺めていた。確か、魔人ブウとかその辺の巻だったと思う。


 今年で二十一の自分にさえ、少なくない思い出があるのだから、直撃世代だった父親にはもっと影響があったのだろう。家を出る時に聞いた「最悪だよ」という言葉は、父親の青春時代を彩っていた一つの象徴が、ここにきて失われてしまったことに対する、怒りと、失意から吐き出されたものだとわかる。


 焼肉からの帰りの車の中で、宇多田ヒカルの「プレイ・ボール」を聞いていた。幼いころ、両親の実家や、あるいは九州にある祖父の実家に帰る際に、カーステレオからは絶えず宇多田ヒカルの曲が流れていた。当時の記憶からして、多分「DEEP RIVER」というアルバムだったと思うのだけれど、いまそのアルバムがどこに行ってしまったのかはわからない。でも、九州までの長い道のりを、夜中、宇多田ヒカルの曲を聞きながら車に揺られるのは、言葉にし難い哀愁と、孤独を伴っていて、妙に心地よかった記憶がある。その当時を思い出しながら「プレイ・ボール」を聞いていると、自分の世界はまだ完全で、綻んですらいないのだと思った。


 家に帰ってシャワーを浴びながら、思考が拡散していくのに任せて、いろいろなことを考えた。

 一つは、父親のことだった。最近、父親の人生を考えることが多くなった。頭からお湯をかぶりながら、なぜかふと、自分が生まれたときのことを想像する。もちろん、実際に覚えているわけではないけれど、我が子が生まれたことを聞きつけて、父親が駆けつけてくるという想像だった。母親の腕にすっぽりと収まった第一子を見て、いまはほとんど話さなくなってしまった父親はどんな顔をしただろう。この二十一年を振り返れば、そのときの様子は手に取るようにわかる。自分と、そして後に生まれる弟のために、身を粉にして働く父親が想像できる。

 自分の人生は自分のもので、誰になにを言われても(たとえ相手が親であっても)、好きなように、自分の生きたいように生きると決めている。一生を小説を書いて過ごしたいと思っている。その邪魔をするものは、どんな手を使ってでも排除するという気概でいる。それでも、シャワーを浴びているうちに、いつの間にか涙が出ていた。


 湯船に浸かると、父親についての想像は霧のように消えてしまった。涙も次第に引いて、けれど代わりに、母親との会話を思い出した。先週だか先々週に、「○○内科が閉院になる」と母親に聞かされていたのだ。鳥山明が亡くなったことで、ドラゴンボールを読んだ記憶が刺激され、芋づる式にそのことを思い出したのだった。最後に内科を訪れたのはもう何年も前だけれど、医師せんせいは高齢で、その知らせを聞いたときには、少し寂しい気もした。なのにその気持ちさえ、鳥山明が亡くなるまで忘れていたのだった。


 祖父や鳥山明のこともあって、父親の世界が綻びつつあることに同情した。しかしその一方で自分は、宇多田ヒカルの曲を聞き、子供のころを思い出して、たったそれだけで安心していた。自分を形作ってくれたものは、まだ何も欠けていないのだと、安心しきっていたのだ。


 綻びが生じても、一週間やそこらで、世界は再構築されていくのに。


 就活に心を奪われているうちに、内科が閉院することを忘れてしまう。

 魔人ブウとの戦いを、はらはらしながら読んだことを忘れてしまう。

 父親との会話が減ったことを、当たり前のように受け入れてしまう。


 そうして欠けたピースのことさえ、いつしか思い出さなくなる。


 就活の合間に、珍しく感傷的なことを考えた。帰りの車で「プレイ・ボール」を聞いていた時、夜の街並みを眺めながら、なんとなく、数年後もこの夜のことを憶えているだろうなと思ったけれど、いままでも同じように予感して、それでも記憶の彼方に消えてしまった夜があるのだから、こうしてエッセイの形で記録することにした。


 いつにもまして読みにくい散文だけれど、数年後の自分が、この夜のことを思い出してくれますように。

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この夜を覚えている 熊猫ルフォン @pankumaneko

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