パンドラ戦記

元とろろ

パンドラ戦記

 パンドラはくつくつと笑った。

 笑いごとでないのは承知の上で、それでもひきつるような忍び笑いをこぼさずにはいられなかった。


 まさか、まさかだ。

 全知神が手ずから下さった黄金の箱の中身があのような災いだったとは。

 理知神の警告は真心からのものだった。今更分かった。顔向けできぬ。


 パンドラは賢い女だ。

 他ならぬ全知神がそうなるように差配した。

 まずはこの世の中で最も美しい人形の体が造られた。

 全知神は人形の少女にめいめい贈り物をするよう神々に呼びかけ、自らは真っ先に生命を与えた。

 至上の人形をより良くしようと神々はこぞって良いものを与えた。

 煌めく髪、澄んだ瞳、快い声。

 諸芸の心得、人望の徳、機知と器用。

 淑やかな気品、優しい心、探求心。


 そう、探求心だ。

 これも全知神の薦めによって他の神から与えられたものだった。

 全て見越してのことだったろう。


 パンドラは生まれたばかりの頃、神々の元で可愛がられていた日々を思い返さずにいられなかった。

 内心では恐れ多くも父のように慕っていたあの全知神が。

 怜悧にして力強く厳かな顔の下で恐るべき企みを抱いていたのだ。


 パンドラはエピメテウスに嫁ぐ際に黄金の箱を持たされた。中には数多の宝が入っているのだと全知神は囁いた。

 対して理知神は絶対に開けてはならない、中を覗こうとしてもいけないと言い含めた。

 パンドラの知性はそれを矛盾とは捉えなかった。何しろ神から賜った尊い宝だ。みだりに浪費するべきではなく、箱ごと祀って御神体としてもいいくらいだと考えたのだ。そして実際に住処の一角にちょっとした棚を作ってその上に箱を奉安していたのだった。


 結婚の後は長い間、穏やかで幸福な生活を送っていた。

 それが一変したのは娘のピュラが生まれてから数年経ったある日のことである。


 パンドラには一つの悩みがあった。苦痛の伴わない悩みである。

 パンドラが神々から授かった長所はピュラにも良く受け継がれていた。

 それは誇らしく喜ばしいことでもあったが、パンドラ自身の意図が働いたことではなかった。

 パンドラは自身が神々からそうされたように、娘になにか良い贈り物をしたい、それも自身で考え抜き選び抜いたものを授けたいと望んだのだ。

 悩みというのは何を与えるのが良いか、また何ならば与えることができるかということである。

 ピュラがすでに多くの美点を備えていたためになかなか答えの出ない悩みであった。


 そしてある折に思い当たったのがあの黄金の箱だ。

 その中には誰も見たことのない素晴らしい宝が隠されているはずであった。

 ピュラに新しい何かを与えられるとしたらその箱の中身しかあるまい。

 開けてはならないという言葉を忘れたわけではない。

 しかし開けてどうなるという思いもあった。いかに賢いパンドラでもあらゆる苦痛というものを知らずに生まれ育った者である。

 言いつけを破った報いというものを具体的に思い描くことは彼女の想像力を越えていた。

 また何事か罰があろうともそれは自分一人のことで済むだろうという楽観もあった。

 そして何よりも例の探求心がどうしようもなくうずいた。


 箱の中身を知りたい。

 そして神の言いつけに背いて何が起こるのか知りたい。

 怖いもの見たさとはそれ自体が恐ろしいことよ。

 そして真に畏れるべきは全知神の迂遠な奇想よ。


 それまでは欠点とならなかった探求心もその一時においては無謀な好奇心でしかなかったのだ。


 かくして箱は開け放たれた。


 箱の中からは幾千もの影が飛び出した。

 その一つ一つが病魔であり、苦難であり、悲哀と憂鬱と死の化身であった。

 パンドラが身がすくむのを堪えて箱の蓋を閉めた時にはこの世の果てまで広がっていた。


 そうしてようやくパンドラは全知神が齎した贈り物の意味を悟ったのだ。

 全ては人間に神への畏怖を思い出させるためであった。

 黄金の箱には恐ろしいものが込められていたが、それは全知神の神智でもあった。そう思えば確かに箱の中身は尊い宝でもあったろう。

 そしてパンドラが生を受けた意味はただ箱を開ける役目という一事のためであった。

 箱とパンドラとは全ての人間に対して仕掛けられた一揃いの罠であった。


 自身は世にあらゆる災いを振りまくために生まれたのだ。


 パンドラはくつくつと笑った。

 他にどうすることもできなかった。


 そして、これからが本題である。



 この時代も人間というのは寄り集まって社会を作り暮らしていた。

 パンドラもまた人の輪の中にいて姫と呼ばれる立場であった。

 多くの人々から慕われ、その持てる才覚によって人々の暮らしの手助けをしていた。


 身についた習慣がパンドラの気を取り直させた。


 皆の様子を見に行かなくては。きっと誰もが助けを必要にしているはずだ。

 一目でわかった。箱から飛び出したのは悪いものだ。人々を不幸にするものだ。

 自分で解き放って何を、とも思われるかもしれないが。

 この身にもまだできることがあるだろう。


 パンドラは集落を駆け回った。

 皆がひどく憂いていた。

 病に苦しむ者がいた。

 老いを嘆く者がいた。

 熱を出している者には冷えた水の入った革袋を当ててやり、傷の開いた者には布で縛って押さえることを教えてやった。

 しかしどうにも対処の仕方がわからない苦痛の方がよほど多かった。

 彼女が初めて迎える困難であったから無理もない。


 謝るパンドラに恨み言をぶつける者は一人二人ではなかった。

 そうしなかった人々もパンドラを許し気遣っているのではなく、苦しみのあまりうわ言を繰り返すしかできないという様子だった。


「苦しい、苦しい」

「ああ、俺はやがて溺れて死ぬのだ」

「今は何とか怪我も病気も免れたが、やがて来る死は避けられぬ」


 パンドラは意気消沈し一時住処に帰って休むことにした。

 住処では幼いピュラが不安げに母の帰りを待っていた。


「お母さま、外はひどい騒ぎです。いったい何があったのでしょうか」


 パンドラは我が子を抱きしめて、その体に発熱や怪我のないことを確かめた。

 それから訳を話さねばならないと思ったが、どうしても自分のやったことは言い出せず、ただ人々が多いに苦しんでいるのだと伝えた。

 そして彼らの手助けをしたいがどうすればいいのかわからぬということも正直に話した。


「お母さま、あの箱を開けてはどうですか。神様の宝が入っていると聞かせてくださいましたね。ひょっとするとこんな時にこそ役立つものがあるのではないでしょうか」


 パンドラは言葉に詰まった。


 私がその箱を開けたがためにこんな事態になったのだよ。


 そう口に出せずにいるうちに、ピュラは棚から床に降ろされたままの箱に手をかけた。


 はて、どうして棚の上にないのだろう。しかしこれで私にも開けられる。


 ピュラはそう無邪気に考えて、さっと蓋を持ち上げてしまった。

 するとどうしたことだろう。

 箱いっぱいの恐ろしい災いの影は既に出尽くし空となったはずであったが、今度は柔和な光が一筋漏れ出しピュラを照らした。


「お母さま、やっぱり何かあるようです。何という名前か、どう使うかはわかりませんけれど、これで何とかなるように思えます」


 パンドラは呆気にとられた。

 これも何かの罠ではないのか。

 安心させて後に手ひどく裏切る仕掛けがあるのではないか。

 心傷つき荒んだパンドラの猜疑心はそう訴えたが、一方でそんな誤魔化しのあるものではないと澄んだ瞳にははっきり映った。


 しかしどうしたことだろう。最初から箱の底にあったものだろうか。

 まさか私が外を見回る内に誰かが箱の中に入れたということもあるまい。理知神ならばそれもできるかもしれないが、あの女神は私に呆れているだろう。

 ましてや自然に湧き出るようなものとも思えない。

 やはり最初から箱に入っていたのか。しかし何故。


 納得のいく答えには思い至らなかった。

 だがそれがそこにあるのは事実だ。

 答えのわからぬ問いは置いておき、パンドラはその事実を嚙み締めた。


「ピュラ、それは希望と言うのだよ。それは大切にしまったままにしておきなさい。その箱ごとピュラに上げよう。今の困り事には私ができるだけのことをするから」


 そう言い聞かせてパンドラはそっと黄金の蓋を閉めた。

 目に見える光は箱の中に隠れたが、希望が思い出させた勇気と理知は失われなかった。


 そうだ。私もこの箱と同じだ。災いを振りまく役目を終えたとて、今ここに私として生きているのだ。

 全知神にとって使い終わった道具に過ぎないのなら、今度こそ私の思うままに正しいことをして文句はあるまい。

 落ち着いて決心をしてみれば一つ気づいたことがある。

 世界中にあらゆる災いが広まったはずだが近隣の人々の苦痛には偏りがあった。

 将来の死を嘆く者が多かったのだ。

 これはきっと前知魔とでも言うべきものだろうか。生命の結末を知らせて苦しめる魔物がまだ遠くに行ってはいないに違いない。

 おそらくは飛び出た影の中で最後に出たものがそうだったのだ。

 せめてこの前知魔だけは見つけて滅しなければならない。

 怪我や病気から免れた人でさえいつかは死ぬ。それ故に今はまだ苦しみのないはずの人でさえ前知魔のために嘆いている。世の全ての人を脅かす魔物だ。

 幾千の災いの内のたった一つでしかないのだとしても、最悪の前知魔だけは何としても始末をつけよう。


 パンドラは槍を手に取った。森の野獣から人々を守るために使われていた武器だった。

 住処の外へと踏み出して、またすぐに方向を定めて疾風のように駆けだした。

 方角を決めた根拠は不意に感じた怖気だった。

 パンドラは恐怖というものを始めて感じた。

 その恐ろしいと思ったものに向かって行ったのだ。



 見通しの悪い森の中である。

 パンドラは槍の穂先を下に向け、右手と左手を離した位置に両手で柄を握っていた。

 無闇に茂みを突くようなことはせず、足元や木の枝に目を凝らして魔物の痕跡を探していた。

 未だ影さえ見いだせないものの、悍ましい気配は次第に強く感じられた。


 瞬間、背中の肌が泡立つのを感じた。

 パンドラはとっさに振り向き水平に槍を掲げた。

 魔物の爪が降り降ろされたのを柄の中心で受け止めた。

 片手を引き、逆の手を押す。

 爪を支点に槍が回る。

 穂先は機敏に魔物を向いたが、魔物も俊敏に飛びのいた。


 暗い影が浮き出たような魔物である。前知魔に違いなかった。


 パンドラは暗黒の爪が彼女の喉笛を引き裂くのを見た。

 遅れて爪がまさにその通りの軌道で振るわれた。

 先に見えたのは前知魔の見せる死の予兆である。


 その爪は再び柄で受け止めた。反撃に動くことはできなかった。


 怖い。

 なるほど、これは恐ろしい。

 自分が死ぬとわかるのだ。

 人々が嘆く理由がわかった。

 だが、落ち着け。

 こうして戦う中であれば、それは私にも利のあることだ。

 相手の攻め手が見えるのだ。恐怖に負けねば対処はできる。


 魔物が爪を槍の柄に合わせたまま、ぐにゃりと逆の手を伸ばす。

 腹が抉られるのを知ったパンドラは片手を柄から放して半身で躱す。

 槍を手放すわけにもいかぬ。


 魔獣の胴に向けて蹴り。脚が裂かれるのを知って退く。

 爪が滑るように槍を持つ指を切り落とす。そうなる前に体ごと退く。

 距離を取り槍を構え直す。

 退いてばかりだ。攻められぬ。


 それも道理か。

 死の予兆に応じるということは自ら後手に回っていることに他ならない。

 ただ防ぐのでは駄目だ。

 あの爪を乗り越えて一撃を食らわせなければ。


 敵意を込めて睨む。

 前知魔が体を揺らして待ち構えていた。

 頭に向けて槍を突けば。交差するように槍をいなした爪が目玉をくり抜くのがわかる。

 縦に構えて下から喉元を狙うか。槍を踏まれたまま心臓を貫かれるのがわかる。


 躊躇する間に前知魔が両腕を振り上げ躍りかかった。

 これは予兆ではない。

 パンドラは踏み込みながら石突で魔物の片手を打ち据え、一瞬の内に槍を返して穂先で逆の手を切りつけにかかる。

 のらりくらりと避けられる。


 だが、希望はある。


 まともに撃ち合うことはできている。

 前知魔には問答無用でパンドラを殺すほどの強さはない。

 希望はあるのだ。


 直前の攻防、死の予兆が見えずかえって戦いやすかった。

 あの程度の動きなら捌くことはわけもない。


 勝利の保証があるわけではない。だが戦うことはできている。

 それをあえて希望と呼ぶのだ。


 力いっぱい槍を振り下ろす。魔物は横に回って脇腹を――。

 ならばより早く、渾身の力で槍を横に薙ぐ。大振りなそれに対して、魔物は無理せず退いて見せた。

 腰だめに構え直して真っ直ぐ突っ込む。迎え撃つ爪が頭を割り――。

 退かず、横に跳ねて再度の突進。魔物は再び距離を取る。


 前知魔が見せる死の予兆は徐々にその回数を減らしていた。


 槍を振るう。爪を弾く。

 数度、穂先が前知魔を捉えていた。

 効き目は判然としない。

 戦いの終わりが見えない。

 それでも勝利を諦める理由はない。


 戦いは長引いた。

 パンドラの疲労が槍を鈍らせた。

 とうとう邪悪な爪がパンドラの左腕を肘から肩まで切り裂いた。

 血を噴き出しながら、右手で我武者羅に振り回した槍が前知魔の頭を殴りつけた。

 前知魔がよろめいた。

 パンドラは止まらぬ。

 だが片手で槍を持つには力が涸れ果てかけていた。

 パンドラは狙いも疎かに槍を投げつけた。

 そして、全身に悪寒が走った。

 

 怖い。


 それは今度こそ不可避の死の予兆だった。

 この死は決して避けられぬ。

 逃げ場はどこにもなかった。

 全身が水に沈んでいる。

 目に見える世界の全てが水底にあった。

 十年は先か、長くとも二十年の内か。

 私は呆気なく溺れ死ぬ。

 水に漬かった体は激流に流され、削られ、腐り果て、葬られることもないのだろう。


 その意味がわかるか。

 私が死ぬのは、今ここではない。


 パンドラは前知魔の胴に突き立った槍に飛びついた。

 最後の力で槍を引き倒し、刺し傷をさらに引き裂いた。

 前知魔は断末魔もなく滅び去った。


 槍を手放したパンドラは、腕から流れる血を止められぬまま、その場に倒れ込んでいた。



 前知魔が見せた未来までには猶予がある。


 まだ傷の癒えていないパンドラはそれが長いか短いか考えたが、これも答えはないように思えた。


 前知魔が消えたとて、人々の苦しみはなくならない。

 見せられた死の予兆の記憶が消えたわけではない。

 人々は当初の混乱から落ち着きを取り戻していたが、決して元通りというわけではない。

 箱が明けられる前と比べれば、どうしようもない陰鬱さを皆が表情に宿していた。


 前知魔以外の悪魔の所在は全くの不明だ。

 もはや災いの根源たる魔物を除くことは望めそうになく、来る苦しみ自体への対処で応じるしかないと思われた。


 だが、希望はある。


 パンドラはピュラにも悩みができたらしいことに気が付いていた。いつかの自分自身と似たような苦痛を伴わない無邪気な悩みであるらしかった。


「お母さまから貰った箱に何を入れようか考えているの。まだまだ隙間が空いているので」


 聞けばそんな答えが返ってきた。

 その言葉はパンドラの胸にすとんと収まった。


 私もその箱と同じだ。


 造られた命には意図があった。

 役目を終えた今、全知神からすれば私の生きている意味は無いのかもしれぬ。

 だが、私にとっては、私の意味はこれから生まれるのだ。


 死ぬまでは生きることができるのだ。

 生きていれば何か為すことができるのだ。


 私の命、私に残された時間。

 限られてはいるが、何かを詰め込む時間はまだある。

 善良なものを、正しいことを、精一杯に詰め込んでやろう。


 それができると信じている。

 それを私は希望と呼ぶのだ。


 だから、これからが本題である。

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