フェノメノンと呼ばれた女

そうざ

A Woman Called Phenomenon

 控え室代わりに通されたのは、最上階の事務フロアだった。彼方此方あちこちにダンボール箱が雑然と置かれ、店頭に並ぶ瞬間を今か今かと待つ新刊が顔を覗かせている。

 ここは紙製書籍の最後の牙城――と人の言う。印刷物特有の懐かしい匂いが全館に染み付いている。これをかぐわしく思えるか否かで、人間性の一端を計れるかも知れない。

 篠突く雨が狂ったように窓ガラスを叩く。まるで止む気配がない。防災警報が出た地域もあるらしい。自分の運のなさ、否、こんな仕打ちこそが私には妥当なのかも知れないと思う。

 窓の外を見やる。眼下にあったのは、舗道に色取り取りの傘が織り成す長い行列だった。

「先生ぇ~どうもどうもどうも~っ」

 今時、揉み手をしながらご機嫌取りに来る主催者も珍しい。店長に続き、書店員が数珠繋ぎで現れる。

「本日はお足元の悪い中、誠に誠に誠にっ」

「花粉が舞わないのは救いです」

「えっ、花粉症なのですか?」

 店員達が顔を見合わせる。意外だったらしい。私を物語の登場人物か何かと勘違いし、実在する事に驚く人も居る。物好きな研究者をして『逸材フェノミナン』と称される私だが、物を食べれば出す物を出すし、誕生日には少し贅沢をしたくなるような唯の女だ。

「ところで、あの行列は」

「そりゃもうもうもうっ徹夜組まで出る程の大盛況でしてぇ」

「風邪を引いてお腹を下しでもしたら大変でしょう、早く店内に入れてあげた方が」

「実は実は実はっ、既に全ての売り場を解放しておりまして、それでも入り切らない程の大盛況でしてぇ」

 訊けば、私のサイン会の為に通常営業を休止したと言う。事前告知は店内の貼り紙のみだったが、混雑は必至と予想していたらしい。そして、それはいみじくも正しい判断だったという訳だ。

「どうも私は過分に評価されているようです」

「飛んでもないっ、出版不況が続く昨今、私共のような書店にとっても先生はもうもうもうっそりゃもう救世主でございますぅ~」

 見え透いたおべんちゃらに失笑を禁じ得ないが、この人達にはご満悦の笑みに映っているかも知れない。私に出来る事があるとしても、客寄せパンダが関の山だ。

「正直、今日この時を迎えるまでは不安しかありませんでした。何度お断りしようかと思ったか」

「ええっそれはそれはそれはっ何故ですか?」

「私なぞ紙製書籍が隆盛を誇った昔日の遺物に過ぎませんから」

「えぇっそんなそんなそんなっ滅相もない」

「今や時も場所も選ばず電子書籍を愉しめる時代でしょう。態々わざわざ書店に足を運ぶなんて――」

 また何気なく表の行列に目をやり、そこで思わず言葉を飲み込んだ。この悪天候にご苦労な事で、と斜に構えながらも、武者震いにも似た感慨が一入ひとしお募り始めたのだ。

 私を名指して忌み嫌う連中が大勢居る事はかねてから聞き及んでいる。他人に嫌われるより前に、私自身ずっと罪悪感に苦しんで来た。己が身の碌でもない『特異フェノミナン』を呪った。世が移り変わり、綺麗さっぱり忘却されてしまう事を切望し続けて来た。何なら出版不況や電子化の波を歓迎していたくらいなのだ。


 ――MAちゃん……MAちゃん……MAちゃん――


 不図、何処からか人の声が聞こえる。それは、荒れる一方の雨声うせいを突き、次第に大きなうねりを帯び始めた。

 いぶかしみながら窓ガラスに顔を寄せると、下界に花咲く傘の群れが一定のリズムを刻んで踊っているではないか。


 ――MAちゃん! MAちゃん! MAちゃん!――


 シュプレヒコールだった。

 しかし、ネガティブなものではない。待ちあぐねた心が抑え切れない歓喜を表出しているのだ。

 やがて歓声は店内にまで伝播し、ビル全体をライブ会場の如く変貌させた。

「開場時間にはまだ少しありますが……」

「始めましょう。今日の主役は私じゃない、お客さんです」

「あぁあ、ではではではっ開場しましょうっ」


 ――MAちゃん! MAちゃん! MAちゃん!――


 私は、自分がMAマーちゃんと呼ばれている事を初めて知った。

 長く巷間の常識なのか、今この瞬間に生まれたばかりの愛称なのか、私のフルネームをイニシャルにしただけであろう安易さは否めないものの、所詮の私には相応だろう。

 売り場への扉が開くと、地上階から貫かれた吹き抜けの空間が眼前に広がった。

 各階の視線が一斉に私に集まり、店外から雪崩込む人波と共にシュプレヒコールを最高潮にまで高める。


 ――MAちゃん! MAちゃん! MAちゃん!――


 群衆は思い思いの書籍を手にしている。辞書や参考書、雑誌や写真集、単行本もあれば文庫本もある。何やら大判の分厚い豪華本を掲げる者まで居る。全て私のサイン帳にすべく持参したものだ。


 ――MAちゃん! MAちゃん! MAちゃん!――


 老若男女が過不足なく入り混じったその顔触れは、純粋な衝動に突き動かされた結果、今日この場所に集った事を如実に証明していた。

 誰しも現実の私にまみえるのは初めての経験だろう。しかし、誰しも既視感と共にある事が手に取るように解る。

 私が今、この見知らぬ群衆を前にして抱く懐かしさにも似た連帯の意識を何とする。そこに交錯する漠とした自責の念を何とする。


「皆さん……」

 私の第一声に会場が水を打ったようになり、遠くの豪雨が間を埋める。

可惜あたら廃れた紙製書籍への憧憬と愛着とを胸に、居並ぶ書架を経巡へめぐらんとほっする愛すべき酔狂な同胞はらかたよ。願わくは、争うべからざる選ばれし者の宿命がけがれなき恍惚の御国みくにへと昇華されん事を……」


 嵐にも地鳴りにもまごう喝采が忽ちの内に猛り狂い、にも尾籠びろうな異音が同時多発の様相で轟いた。異音は間髪を入れず異臭を誘発し、全館へあまねく拡がり、印刷物の匂いと分かち難く入り混じるのだった。


 茶系統の様々な硬軟を有した『現象フェノミナン』が自発的に引き起こされたこのサイン会は、書見排便史に燦然と臭い立つエポックな出来事として、今もマリコ・アオキを信奉する者の間で語り草にされていると言う。

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フェノメノンと呼ばれた女 そうざ @so-za

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