ちょっとだけ飛べるペンギン
水野いつき
短編のファンタジー
ちょっとだけ飛べるペンギン
「おい。おーい。下見ろ、下」
「え?」
「ちょっと自販機のボタン押してくれよ。一番上、左から三番目のお茶」
「あ、はい。小銭入れますか?」
「ICで払うから平気」
ガコッと落ちてきたペットボトルのお茶はよく冷えている。キャップをひねり、ぐっとあおると親切な若者と目が合った。
「サンキューな。助かったわ」
「大変ですね。僕がいなかったらどうしてたんですか?」
「その辺の木の棒とか。お前が思ってるより何でも出来るぜ」
「へえ。じゃあ、僕もう行きますね」
振り返る服の裾をきゅっとつまんだ。汗でじっとり湿っている。
「腹減って倒れそうだ」
「え?」
「付き合ってくれよ。俺はひとりで外食出来ないんだ」
ホームの階段をのぼり、改札へ向かう。足音が付いてこないから振り向いて大声を出した。
「頼むよ! 奢るからさ!」
若者は線路を見ていた。はっとしたように小走りし、俺の横に並んで歩いた。
駅から出ると直射日光で目がくらむ。真夏の太陽は俺に恨みがあるらしい。
「暑さで頭おかしくなりそうだよな」
「この天気で外出て大丈夫なんですか?」
「アスファルトの照り返しがキツい。干からびて道にぶっ倒れたら、見捨てないで水かけてくれよな。アハハ」
真面目な若者は「わかりました」と言った。今の笑うとこだったのにな。
好きなものを食わせてやると言ったのに、若者が指定したのはチェーンの回転寿司屋だった。思わず「肉じゃなくていいのか?」なんて聞きそうになったが、若い男イコールとりあえず肉、というのは短絡的かもれないと思い、胸に押しとどめた。
「シャリ食べれますか?」
「何でも食うぜ。酒も飲む。煙草はやらん」
「へえ」
主に俺が散々飲み食いして、満足すると店を出た。
「ごちそうさまでした」
「いいってことよ」
礼儀正しい。素晴らしい若者だ。
「じゃあ僕はこれで……」
「待て。お前は大事なことを忘れている」
「なんですか?」
「デザート食ってねえだろうが。アイス屋さん行こうぜ」
「アイスなら寿司屋にあったじゃないですか」
「わかってねえなあ。ショーケースに並ぶアイスを見て悩むのが楽しいんじゃねえか」
ちょうど青に変わった横断歩道を渡る。足音が付いてこないから振り向いて大声を出した。
「二段でも三段でも食わせてやるからさ!」
若者は走って追いかけてきた。そんなに嬉しいのかと思ったら信号が点滅していた。減速せずに俺をサッと持ち上げると、ラグビーボールのように小脇に抱え、赤に変わる前に渡りきった。運動神経がいい。
「俺はね、チョコチップと抹茶とストロベリー。お前は?」
「バニラで」
平日の昼前、涼しい店内はすいている。
重なるアイスの境目がうまい。溶け合って、混ざり合って、何味とも表現出来なくなるあの部分。幸せ味だ。
「おかしいと思わないんですか?」
「何が?」
「バニラの三段重ねなんて」
「別におかしかねえだろう。お前は何味よりバニラが好き。俺は三段を奢りたい。それだけの話だ」
「みんな、たまには違うのにしなよって言うんです。でも僕はバニラが好き。それに冒険したくないから……」
「言わせとけ。冒険したくないならしなくていいんだ。それのどこが劣るかよ。一途で結構じゃねえか」
外に出ると太陽は真上までのぼっていてとたんに汗が吹き出た。まずい、暑すぎる。
「じゃあ僕はそろそろ」
「あっ」
若者は足を止めて振り向く。ローアングルだと逆光で表情がよく見えない。
「プール行こう」
「はあ?」
「市営プールがすぐそこにあるんだよ」
「水着なんか持ってないです」
「売店に売ってる。俺の本気を見せてやるよ」
歩道橋の途中で足音が付いてこないことに気付いた。
「早く来いよ! 俺、泳ぐのめちゃめちゃ得意なんだ!」
ゆっくりと現れた若者はお婆さんを背負っていた。俺は感動した。こんなこと出来る奴はそういない。
「ばあちゃん、買い物袋は俺によこしなよ。うん。大丈夫。抱えれば引きずらないから」
地上に降りてお婆さんを見送ると、さすがの若者も汗でびっしょりになった。
「はあ、はあ……暑い……。プール、行きましょうか」
「そうこなくっちゃ」
エクササイズの主婦達に混ざって準備体操をして、俺は早速飛び込んだ。鋭い笛の音が水中に響く。そうだった。飛び込みは禁止だったのを忘れていた。俺はこう、なんというか、大量の水を目の前にすると、血が騒ぐ。
若者はハシゴをゆっくり降りてきた。俺はとっくに二十四メートルを泳ぎ、華麗なターンで折り返している。
「ぷはっ。どうだ、速いだろう!」
「プールサイドからだと黒い弾丸が水の中ぶっ飛んでるように見えました」
「オリンピック出れるかな?」
「どうでしょうね。身長制限がなければいけると思いますけど」
若者は水の感触を味わうようにゆったりと泳いだ。
水面にぷかりと浮かぶと遺伝子が安心するのがわかる。きっと若者もそうだ。俺達は昔、ひとつの生物だったのだから。
何度か休憩を挟み、名残惜しいプールにさよならをしたのは夕方だった。着替えを済ませ、併設のカフェでコーヒーを飲むと外はもう薄暗くなっていた。暑さは和らぎ、時々ご褒美のように涼しい風が吹いた。
ひぐらしに急かされたのか足は自然に駅の方に向いた。最後まで俺の歩幅に合わせて歩いてくれた若者は、やっぱり親切だ。
心地良い疲労がありホームのベンチに座る。電車の時間が近付くと、ずっと黙っていた若者が立ち上がり、口を開いた。
「じゃあ、僕もう行きますね」
「どこ行くんだよ」
「え?」
「お前、どこ行くんだよ」
若者の目が潤み、鼻が赤くなった。膝から崩れ落ち、俺を抱き寄せた。意外と大胆な奴だ。
「僕……僕……」
プールと夜風でクールダウンしからだに若者の体温がうつった。
「俺はちょっとだけ飛べる」
「え?」
「見てろ。お前のかわりに飛んでやる。不可能だと思うか? いいか、先入観を捨てて、目で見たものを信じるんだ。そして自分に価値がないと思うのをやめろ」
警笛が鳴り遠くから電車が迫ってくる。
今朝、若者が、何本も何本も見逃した電車が。
「サン……」
「え」
「ニ……」
「えっえっ」
「イチ……!」
「えええ!」
「うおおおおおおおおお!!!!!!!!」
「やめろーーーー!!!!!」
――ファンッ! ゴーーーーーー……
『危ないですから線の内側に戻って下さい』
若者の鼓動が聞こえる。疲れた血液を回収し、元気な血液を全身に送る音。そこに意思は干渉しない。生命力という。
「苦しい。おい離せ」
「……びっくりした……」
「飛べるって言ったろ。なに勘違いしたんだか知らねえけどよ。あーあ。かっこよくキメようと思ったのに邪魔しやがって」
へたりこんだ若者は俺を地面に下ろすと泣きながら笑った。
「お前は親切で、真面目で、礼儀正しくて、運動神経がよくて、お年寄りに優しくて、プールのマナーを守る良い奴だ。それから俺も守ったな。おい、今日という日を忘れるな。自分が成し遂げたことを忘れるな」
こういうとき映画なら腕を引き上げて立たせてやるんだろうが、あいにく俺は身長が低い。でも大丈夫だ。ほら、この若者は、自分の力で立てる。
「お前、どこ行くんだよ」
「家に帰ります」
若者はもう泣いていなかった。
次の電車に乗り込むだろう。
〈おわり〉
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