深層1
帰宅したとき、外は小雨が降りはじめていた。天気予報は当たっていたらしい。
「ただいま」
「レンちゃん帰ってきたよー」
「はぎっ」
彰人のうしろからさぎりが呼ぶと、居間から白いお面が顔を出した。
見るからに元気な四歳児だ。黒生地で独特な文様が縁取りされているライカナの民の民族衣装を着た子が、さぎりの懐に飛び込む。ライカナの民
は北海島にいた先住民族で、今は文献にしか残っていない。
遅れて、彰人の隣に白生地のライカナの民の服を着た青年が姿を現した。痩身に見えて引き締まった体格、隙のない凛とした表情で左目をはちまきで覆っている。彼は子供に向かって厳かに一礼した。
「レンカランクル。今このときも我らの地に滞在していただき、心より感謝いたします」
レンカランクルと呼ばれた子供は頷いて応え、青年はさらに深く頭を下げた。
彰人に憑依している神剣カルネモソミは白く輝く刀身だが、自宅ではひとの姿で現れる。レンカランクルのように人や物に触ることはできない。
このカルネモソミからレンカランクルが病や死を運ぶ闇の神だと聞かされ、関係者一同は納得した。氷雪山山頂は、それが姿を現してからものの数時間で焦土と化し、追ってさまざまな妖怪があふれ、北海島のみならず世界の常識さえ一変したからだ。
古来の闇の神が存在しているならば陽の神も存在しているようで、陽の神トンラウンクルが己を遣わしたとも神剣は語った。そして自身の左目を犠牲にして封印の面を作り、闇の神の封印するという偉業を成し遂げた。
こうして北海島に平和が訪れ、封印された根源はというと。
「あきと。あかのかぎをゲットした」
「お。レッドドラゴン倒せたのか。がんばったじゃん。よくやったな」
「いえい」
「レンちゃん、すごいすごい」
「ふひひひ」
根源は彰人とハイタッチし、さぎりに頭をなでられて満足気だ。面越しでも表情がすこしわかる。
力が封印され、これ以上北海島を荒廃させることなく過ごせるようになった闇の神は、すっかりテレビゲームに夢中になっている。なかでも世界的大人気ゲーム『まじょとゆうしゃのものがたり』シリーズは気に入ったようで、闇から世界を救うことに懸命だ。さぎりが在宅中はさぎりの家で、学校にいる間は彰人の家でゲームをしている。保育士つき。
「ガネさん、ただいま」
「お。おかえり」
食卓の一角で、青年がパソコンから顔を上げた。白髪交じりの短髪で、メガネの奥にあるやつれた目が優しく笑う。
名前は鋼判(はん)。三十代半ばの退魔士で、さぎりの従兄弟で、彰人の顔なじみで、彰人の未成年憑依者監視員で、レンカランクルの担当保育士だ。
ちいさな事務所の社長をしていた頃は頼りない人だと思っていた彰人だったが、カルネモソミを狙われたときに彰人を護衛する姿を見て、かなりの実力者ではと思い直した。
今は会社を畳んで彰人とふたり暮らしだ。彰人が園児の頃からさぎりと一緒に交流をしてきた仲であり、彰人の両親は昔から放任主義かつ長期単身赴任中なので、親戚のようのお互い気兼ねすることなく過ごしている。
「アッキー、蒸しパン正解。たすかった。今日も腹減ったってぐずってさ。出したらすぐ静かになった。また明日も頼んでいいか」
「いいよ。レンジですぐできるし、材料もあるから」
「悪いな。さぎりん家みたいになったらお手上げだ」
さぎりの担当監視員もいたが、次々に辞退していくため、鋼が兼任している。理由はやはりレンカランクルにあった。
おそろしい闇の神といっても気性は子どもそのもので、ゲームオーバーになっては号泣、おなかすいたと言っては泣いて駄々をこねた。そこまでなら泣く子をあやせばいい。困ったのはその後。泣き声に呼ばれたように妖怪が集まってきて家屋に貼りつくのだ。大小さまざまな妖怪は祓っても祓っても離れず、次々にやってきて家を包み込み、屋根や壁がみしみしと揺れた。根源が泣きやめば妖怪もいなくなるが、その頃には担当者も心が折れ、引退する者まで出る始末。かといって未成年にはどうしても監視員が必要なので、判が兼任する運びとなった。
事態を聞いていた判は、前もってさぎりから「アキトのおやつを出せばいいよ。すぐご機嫌になるから」とアドバイスがもらえたので事なきを得ている。歴代の監視員たちが憑依者が未成年だからと相談さえしなかったことも問題だが、高校生の作るおやつが根源を鎮める最適な供物になるとは想像もしなかっただろう。現にコントローラーを投げて泣いたとき、蒸しパンを渡したとたんご機嫌になったのだから、鋼も供物効果の凄さに言葉も出ない。それを作っている本人は祈祷も知らない一般高校生なのだ。
彰人は冷蔵庫からプリンとゼリーを出した。登校前に作っておいた物で、どれも完成している。食卓からさぎりとレンカランクルが「アキトプリンまだかな」と話しているのが聞こえてきて、くすぐったくなる。
一人暮らしの暇つぶしから始まったお菓子作りは、ミックス粉を使用するなど特に凝ったものはない。しかし予想外にも幼なじみから別格と言われるほど気に入られ、闇の神からも供物にプリンを指定されている。材料のプリンミックスは、退魔士協会から支給されている。退魔士協会本部で一番厳しそうな海照神父も、監視者にプリンミックスを発注するのは初めてだと苦笑していた。
プリンにゼリーを添えて皿を並べ、彰人は言った。
「ハギ。レンレン。これはガネさんの分。どうぞ」
「いただきます」「いただきます」「お。ありがと、アッキー。いただきます」
それぞれ食べはじめる姿をみて、彰人はやっと一息ついた。任務完了。カルネモソミも食卓をやさしく見つめている。
「お兄ちゃん。しんせかいの扉って知ってる」
さぎりに呼ばれて、鋼の手が止まった。
「ひさしぶりに聞いたな。深世界の扉がどうした、扉のありがたい話でも聞いたのか」
「迷惑勧誘。今日の帰り、みんなで歩いてたら、いきなり話しかけられてさ。一緒にいた友達が絡まれて、しつっこいわねちっこいわ。アキトが「良い信仰を」言わないと、家まで貼りついてたんじゃないかな」
「おい、学生相手に勧誘かよ。なにやってんだ、あそこ。アッキー、よく断れたな。えらい。どんなやつだった。おっさんか」
「若い女の人。でもやばい感じ。どこも見てなくて、こっちの話を聞かないような人」
「だからあの時言ったんですけどね」
カルネモソミが不機嫌そうに言うのを、ごめんごめんと謝る。
「ちょっとアキト。カルちゃん、忠告してたの。もう、教えてよ。それ聞いてたら逃げたのに」
「ミラがいたから言えなかったんだよ。学校でカルネモソミのことなんて言ってないしさ。マジでやばかったらカルネモソミを出せばいいだろ」
「まあね。あたしもレンちゃんがいるから平気だけど」
鋼は席を立った。
「ごちそうさん。迷惑勧誘は本部に報告しておく」
「報告するの、ガネさん。被害ないけど」
「万が一にな。どうでもいいことが意外と火種だったりするし、なにもなければそれでいい。それよりも。さぎり、それに彰人」
鋼から名を呼ばれて、彰人は身を固くした。この監視員が重い話をするときはあだ名で呼ばない。担当監視員はひとりひとりに真顔で迫った。
「いいか。勧誘をなめるな。絶対だ。昔、強い退魔士が詐欺を成敗してやるって施設に乗り込んでいって、あっさり寝返った事件もよくある。知識はあってもこっちは勧誘素人だし、あっちはそれだけ人を取り込むのが上手いんだよ。それと、普段から憑依妖怪に頼るなよ。癖になって、最後には人格も人生も全部乗っ取られるぞ。そもそも憑依に頼らず生きるのが人間だ。憑依に依存しないように」
厳しい口調に、彰人は身が引き締まる思いがした。それだけ気が抜けていたんだろう。
「もう一度言うぞ。宗教勧誘に行かない、近寄らない、逃げること」
「はあい」「はい」
「よし」
鋼は頷いた。
「じゃあ俺は部屋で仕事してくる。アッキー、今日の送迎は頼んでいいか。式神つける」
「ううん、いいよ。さぎりんちまでだし。コンビニに寄ってくる」
「わかった。さぎり、レンレン、また明日な」
「お兄ちゃん、またね」
「また明日な、判」
さぎりの家は道路を数本渡った先にある。夜間通学になってからは、こうして彰人と判のふたりで、さぎりを自宅まで送っていた。
街灯に照らされた雨上がりの歩道で、レンカランクルが水たまりに飛びこんでは喜んでいる。水にさわれても濡れないので遠慮がなく、さぎりも苦笑して見ていた。
「送らなくていいのに。すぐそこなんだし」
「十時過ぎてるから。それにお前らコンビはなにかやらかしそうだから」
「やらないよ。レンちゃんもいいこだし」
「うん。いいこだからしないぞ」
「いいこって」
突然、世界が暗くなった。緊張が走る。
足を止めて見渡すと、周りの街灯や家屋は明るいままだった。
「アキト」
さぎりが上を指し、納得した。頭上の街灯が切れている。
「なんだよ、びびった。行こうぜ」
しかしさぎりは街灯を見上げたまま動こうとしない。
「アキト。ほんとうに苦しんでると思う」
「さあ」
迷惑勧誘の女性は、街灯の点滅は閉じこめらている益妖怪が苦しんでいるせいだと言った。彰人は故障かなにかだと思って気にもしていなかったし、そもそも妖怪には特に興味もない。
しかし妖怪好きのさぎりは違う。
「ちょっと見てくる」
「え。まてよ、ハギ」
言い終わらないうちにさぎりは闇に溶けた。
溶けた輪郭は黒蛇になり、するすると街灯をのぼっていく。その頭にレンカランクルが飛び乗り、あっというまに益妖怪のいる電灯に着いた。ガリガリと爪を立てる音もする。
人が出歩かない時間とはいえ、彰人は誰も来ないことを祈って待った。ひやひやする。
さぎりはレンカランクルの力によって、妖怪に変化できる。さらに、妖怪になれば妖怪とコミュニケーションが取れるらしく、本人は毎日変化したがっていた。しかし都合が良い能力はないようで、妖怪で居続けるほどひとに戻れなくなるし、変化からひとに戻れば体力がひどく消耗してしばらく動けなくなるのだ。そのため変化は我慢するようになったらしい。
またさぎりは、妖怪変化能力を退魔士協会に申請していない。つまり北海島でこれを知っている人間はさぎりと彰人のみ、あとはレンカランクルとカルネモソミだけ。
頻度は減ったと本人は言うが、それでもこのように気まぐれで妖怪変化するので、彰人は気が気じゃない。いつかばれるだろうし、その時どうなるのか想像もつかない。今はひたすら見つからないことを祈るばかりだ。
数分後。頭に子どもを乗せた蛇がするする下りてきて、地面にべたりと座り込むさぎりに戻った。さっきまで全力疾走していたかのように息を切らしている。
「だいじょうぶか」
「だめだ、あきと」
さぎりの背後からレンカランクルが顔を出し、両手を揃えて差し出してきた。ちいさな手に、油粘土のような黒い長方形の塊が乗っている。
「籠のなかにこのクムがいた。だけど、もうだめだ。毒にやられている。ここには治す草もない。こいつはこのまま苦しみながら死ぬ」
ライカナの民は妖怪をクムと呼ぶ。
「本当か」
さぎりも頷いた。目が、話のとおりだと語っている。
レンカランクルはそれを地面に置いて数歩離れた。塊がわずかに震えている。
「あきと、カルネモソミ。頼む」
「あきひと」
「うん」
カルネモソミの声に応えて、彰人は左腕を鞘走った。とたんに右手に白銀の剣が握られる。神剣カルネモソミ、すべての妖怪を祓う剣。剣の構えから振るい方まで、カルネモソミが教えてくれる。彰人は握っているだけでいい。
「「クムはクムの地に帰れ」」
ふたりの声が重なる。
一刀両断。
音もなく益妖怪は塵になり、夜風に乗って消えた。
「感謝する。このクムは苦しむことなく我の国に帰った」
「レンレン、どういうことだよ。益妖怪にわざわざ毒なんておかしいだろ」
「はぎ。あの紙はあるか」
さぎりが握りつぶされた紙を出した。なんとか開いてみると、花屋の開店告知ポスターだった。日時はかなり前で、購入者にはもれなく花の種をプレゼントなど、内容にもおかしなところは見当たらない。
「柱に貼ってあった。この紙から毒の匂いがする。毒が立ち昇って、上のクムを苦しめていた。火で炙られているように苦しかっただろう」
「蚊と蚊取り線香みたいな感じか」
「我はあのクムが罪を犯して罰を受けているのかと思った。しかしそうではないとクムは言った。住んでいるだけだと」
「普通のポスターだし、貼ったほうも毒と知らないで貼ったかもしれないぞ。剥がし忘れてるっぽいし」
さぎりが立ち上がってよろよろと歩きだした。ただし家がある方向ではない。
「ハギ」
「行ってくる」
「行ってくる、て。帰ってきたときに見たあそこか。無理だろ」
彰人の手をふり払おうとするさぎりの腕を、強く引き戻す。さぎりはふたたび座りこんだ。
「ほらみろ、無理だって。今日は帰れよ」
「はぎ。帰るぞ。ほかのクムはあとでいい。あきとも今夜は家に帰れ。コンビニにもどこにも寄るな」
「レンレン、俺もなの」
「そうだ、あきとも今は帰れ。すぐに帰れ。いいな」
頑なな態度のレンカランクルに、ふたりはしぶしぶ言うとおりにすることにした。
彰人が帰宅したとき、鋼はまだ部屋で仕事をしていた。街灯の騒動でいつもより時間がかかった気がしていたが、コンビニに寄ってきたときより早く帰宅したようだ。
「あっ、ヤベ」
上着のポケットから件のポスターが出てきた。さぎりに返したつもりだったが、持ち帰ってしまったらしい。返すのは明日でいいか。
手でできるだけシワを伸ばし、あらためて見直す。紙は風雨にさらされたせいで波打ち、ところどころ破れている。縁には蔦が描かれ、四隅には蓮のような花が描かれた、花屋らしい告知ポスターだ。開店日は三月下旬。新学期前からだから、数カ月放置されていたんだろう。
カルネモソミが覗きこんできた。
「毒の匂いとかわかるか、カルネモソミ」
「いや。匂いはわからない。しかし、これは見覚えがある。あきひとも知ってるはずだ」
「えええ。見たことないけどな。花屋オープンとか聞いたことないし」
「はぎとレンカランクルが持ってきた紙に似ている。はじめてわたしがあきひとの学校に行った日だ」
「そうだっけ。まあいいや、あとは明日にしよ、明日。今日はいろいろあって疲れたし。さっさと寝る」
それがいい、とカルネモソミは頷いた。
その頃、時長もベッドのなかでケータイを見つめていた。待ち受け画面には少女が笑顔を向けており、愛おしそうに見ては悔しさに顔を歪めた。
「クソッ」
家主によって貼られたカレンダーを睨みつけ、大仰に背中を向けた。カレンダーには蓮のような花が散りばめられており、中央には美しい金文字レタリングで深世界の扉音別支部と書かれていた。
キープアウト!! 奈落編 羽風草 @17zou
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