イデアの空、ピンホールと夏
アゴトジ・セボネナラシ
イデアの空、ピンホールと夏
ブラインドがかすかに揺れている。山田はひとり、背もたれに体を預けていた。
スチール製の羽の隙間を抜けて、外光が事務所に縞模様を描く。山田が眉間に指を添えると、椅子のきしんだ音がひと気ない部屋の隅に消えていった。
彼はモニターの輝度を下げたものの、目元内部の圧迫感は依然そこにある。
「そんなんじゃ困るよ」
耳なるほどの無音はかえって脳内の記憶を浮き彫りにした。彼はマウスを操作し、メールアプリがレビューの一覧とともに閉じる。奮わない成績への改善案は昼休み中に思いつけそうもない。
山田はデスクをあとにして事務所の玄関に向かった。ドアノブが手のひらを冷やし、冴えてきた瞳が磨りガラスのむこうに人影を見出した。
彼の影が窓越しに来訪者を染めている。山田は内開きの戸を開けた。
「初めまして。こういうものです」
女性は斎藤と名乗った。彼女は研修中らしく、山田は名刺を受け取る。よくある通過儀礼であり彼もまた経験者の一人だった。
「私共は貴社のお力になれると存じ上げます」
「上司に相談してみますよ」
斎藤は一礼して去っていった。彼女に背を向けて山田はいったん事務所内に戻る。パンフレットを引き出しにしまった。
彼は受付に別れを告げて内廊下に繰り出した。階段を下ってビルを降下していく。
靴底が踏み板を打鍵し、硬い音が吹き抜けに吸い込まれていく。やがて山田は一回にたどり着き、歩行音を踊り場に置き去りにした。
彼が眼科の前に立つと自動ドアが二つに割れた。
「だいぶ悪いね」
医者はゴーグルを彼の額まで上げた。片闇の視界で山田は医者を見つめて硬い微笑みを口元にたたえる。
「頑張ってはいるんですけどね」
「分かりますよ。満足させられる映画をつねに提供するのは難しい」
医者は眼球前部を山田の左目にはめ込んだ。彼の腕は確かで、少しの段差もなくスライスする技術を山田もまた買っていた。
倒れていた椅子が駆動し、山田は上体を起こす。医者は背を向けて膿盆を手に取り、振り返ると山田の目前にそれを持っていった。
「とりあえずポップコーンは取り除き、箱内の消毒もしました。今度は薬も処方しますから、彼らの騒ぎに辛くなったら飲むといいですね。しばしの間、眠らせられます」
「ありがとうございました」
会計を済ませた山田はロビーに足を踏み入れた。麻酔がまだ残っているおかげで、洞窟の中の小コウモリたちは鎮まっているようだ。
彼はラウンジのソファに腰掛ける。テーブルヤシからの木漏れ日が彼の額に描かれた。そして、ジャケットの内ポケットから彼は名刺を取り出した。
「もしもし」
電波の宛先にて斎藤が応じた。
「決心がつかれましたか」
「よろしくお願いいたします」
携帯端末ごしに山田は頭を下げて通話を終えた。そのまま彼は腰を落ち着けている。
昼時の大通り、人々が歩く影がラウンジの壁に行き交っている。山田は動かず、振り向きもせずに彼らを眺めていた。
そして、いつしか斎藤のパンプスがラウンジで拍を刻みはじめていた。
「お待たせいたしました」
山田は彼女の後を追った。二人は大通りに出たが、正午から一時間過ぎたそこは閑散としている。
斎藤が右手を頭上に掲げ、掌を空に向けた。拇指と示指、中指と環指の間だけを開き、雲ひとつない青空のもとで印を結んだ。
そして空が、丸く空いた。
「お手をどうぞ」
差し出された斎藤の左手を山田は取った。
ゆっくりと、二人の体が空へと落ちはじめた。足先を穴に向けた山田は上に振り返った。
逆さまの街が過ぎ去っていく。彼の意外、その街は影のように黒ずんでおり、光を反射する大通りは白く輝いていた。
「少し不安です」
斎藤は振り返り、山田と視線を交わす。
「そのための案内人ですから」
彼女は握りを強くし、山田もまたそれ真似た。振りほどけぬように、離れぬように。
穴の向こうには依然として闇が広がり、しかし、かすかに光の点が揺れていた。
斎藤の右手第二指が光点を指し示す。
「行きましょう。箱庭を脱して実世界、フィクションじゃない世界へ」
「はい」
彼らは頷きあった。不安に揺れる体を預けあい、そして二人はひたすらに落ちていく。
ふと上を見ると、名刺が一枚、闇夜に消えていった。
イデアの空、ピンホールと夏 アゴトジ・セボネナラシ @outdsuicghost
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