N.river

開かなくなって長い

 開かなくなってから長い。

 あいだにもぶくぶくと肥え太った箱はもう、部屋には収まらなくなり始めていた。

 仕方がないので食事は箱の上で食べている。美味いもマズいもあったものではない。衛生面に考慮して、上には一応テーブルクロスをかけているが、その下で今でもときおり微かにうごめくと箱は成長を続けており、どうにもこうにも落ち着かない食卓に味など二の次となっていた。

 かつては気前よく開いてこちらに応じてくれていた箱が、いったいいつからこんな具合になってしまったのか思い出せない。コツコツとノックしては開いた中へ腕を突っ込み、外国の包みが艶やかなキャンディをひとつ、最新のラジコンカーをひとつ、読み解くために半年を要した難解極まる専門書をひとつ、いくら眺めていても飽きない絵画をひとつ、取り出していたものだったのだ。

 けれどある日、ノックしたところで箱はうんともすんとも言わなくなった。

 その頃はまだヒザに乗る程度の大きさで、慌ててバスケットへ放り込むと医者まで車を飛ばしている。もちろんペット専門の病院で、渋る獣医を金でうなずかせ箱をみせたが何の解決にも至らず診察は終わっていた。


 箱が開かなくなってから長い。

 それは何らか取り出すさいの、あの踊る気持ちを失ったことを意味し、なによりそうもエキサイティングだった箱との関係を失ったことを意味していた。いつかまた開くのではなかろうか。待つとこうして傍らへ据え置き続けたが、もうこの大きさに達している。そろそろ限界に近づこうとしていた。

 まったくもって一方的な想像に過ぎないが、ここまで大きく肥えたのは開かなくなったせいだとしか考えようがない。定期的に中からこちらが取り出していた時は、こうもサイズが変わることはなかったのだから確定的だと言えた。そんな箱の中の様子が気になるのであれば付け加えて説明すれば、漆黒である。窓際へ持ち出して底をのぞいてやろうとしたこともあったが、決して中が照らし出されることはなかった。漆黒の中に時折、見えるものがあるとすれば、深海の魚が命の在りかを示すようにほのかに、神秘的に光りを灯すあれだ。箱の中でも気まぐれに蒼白く灯ると、波打ち、幾つもの点はあっという間に消え去ってゆくような具合だった。


 箱の上へ朝食のスコーンが乗った皿を置く。

 昨日までと違いどうにも座りが悪いのは、また箱が肥えたせいだろう。

 そろそろ待つのはやめた方がいいのでは、と予感が囁く。

 爆発するから?

 それとも突如と暴れて家ごとこちらの人生を破壊してしまうから?

 何を警戒して予感はそう勧めてくるのか定かでないが、とにかくそろそろおしまいにしておかないと取り返しのつかないことになるぞ、と囁いていた。

 そんな囁きをじっくり味わいながらスコーンもまた味わう。

 そうかもしれない。

 意見の一致はスコーン、最後のひとかけを口へ放り込んだ時で、指先に残る粉を皿へ払い落としながら箱がここへやってきた時のことを振り返ってみた。なんてことはない。幼かった頃の頭の中にはむしろ開きっぱなしで箱はあり、空を見ては、知らない場所へ出掛けては、それを箱と意識することないまま中から次々、好き放題と様々取り出し続けてきたのだった。やがてそれがのぞきこんでも何ら底のない、果てなき箱だと知れたのは、取り出したものを記録し始めた頃になる。忙しない作業が箱を扱い辛くし、ついに頭の中ら取り出したのは。

 と、記憶をなぞろうとした時だった。

 あなたが食べたのはスコーンだったのでしょうか。

 尋ねる声は皿の上から聞こえていた。

 はっ、と我に返り目をやったのは言うまでもなく皿の上で、食べたはずのスコーンはそこに二つ乗っかっている。

 給仕などいるはずもない。

 それ以前に、スコーンが話しかけたりしない。

 だのに確かめられた真意に気づく。

 違う。

 口走っていた。

 違う。

 そう、違うのだ。

 夢の中でこれは夢だ、と叫ぶにそれは等しかった。

 眠っていたわけでもないのだから目覚める道理もない。だがそのとき視界は開けて世界が色を変える。閃いた、というならまさにその通りで、証拠に閉じ続けていた箱もここぞとばかりに開いてゆく。家の屋根だ。ゆるゆると、この部屋へ風を吹き入れ持ち上がっていた。

 気付いて驚き空を仰ぐ。

 遠のいてゆく屋根は、片側を丁番で固定すると空を指して開き切った。その向こう側に見えるのは星空だ。吹き込んでくる風にはだからか、しっとりとした夜の湿気が感じられる。

 取り出したりなんかしていなかった。

 吸い込めば冷えた夜は身に乗り移り染み渡ると、なおのこと確信を揺るぎないものへ変えてゆく。

 箱は徹頭徹尾、頭の中にしかなかったんだ。

 むしろかつてのように取り出したいなら、今すぐここから抜け出すほかない。

 そろそろ待つのはやめた方がいいのでは?

 囁きもまた蘇った。それはもう警告ではなく鼓舞して誘うウインクとなる、エキサイティングなやり取りをもう一度、取り戻したい。念じたとたん皿の上でスコーンは弾ける。焦げた砂糖とバターの香りが辺りへ飛び散っていた。だがもうスコーンは在るが無いに等しいもので、香ばしい香りを胸いっぱいに吸い込み指揮者さながら操ってやる。四方へ飛び散らんとしていたスコーンが宙で動きを止めていた。ままに冷え固まったその姿は、両翼を大きく広げたクリーム色の鳩へと変わる。変わり翼を打ち下ろせば、見る間に膨れて大きくなった。家は狭すぎ、繰り出す羽ばたきで空を目指す。

 その足を逃す術はない。

 掴んでもろとも舞い上がる。

 開いた屋根がぐんぐん近づき、見下ろした部屋の真ん中で肥えた箱は、箱だと思っていた意気地なしの私は、テーブルクロスをまくってこちらを見上げていた。そっと布地を肩にまとわせなおすと、やがて手を振り高みへ昇るこちらを見送る。

 羽毛を掴んでよじ登った。鳩の背へと這い上がる。

 箱から抜け出した、ここも箱だろうと切る風の果てを見つめた。

 なら次の勇気は?

 鳩からスコーンの匂いがしている。

 さあ、目を覚ませ。

 

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