KAC20243 空っぽの靴箱

霧野

第1話 鹿沼友希の陰謀

 最近、頻繁に誰かの視線を感じる。

 通勤時や買い物中、週末ごとのジョギング。数少ない外出の機会に、決まってチクチクするような視線を……いや、視線というより、念とか波動という方が近いかもしれない。目に見えるものではないから証明のしようが無いが、確かに感じる。


 どうやら僕はある種の人をどうしようもなく惹きつけるらしく、男女を問わず、執拗に付き纏われることがしばしばあるのだ。一度など、僕をつけ回していた者同士で喧嘩になり、警察沙汰になった。迷惑な話だ。

 だからなるべく他人と深く関わらないようにしているのだが、そうしたらそうしたで、クールなところが好きだとまた寄ってくる。


 まぁ、要するに、モテる。


 だが僕自身は、あまり恋愛に関心がない。色恋沙汰はどちらかというと「面倒事」として分類しており、なるべく避けて通りたい。

 母親がいわゆる「恋多き女」で、男の前では無意識に声色を変えを作るような女だった。惚れっぽくてすぐに体を許し、相手の色に染まりきる。頭が悪いくせに計算高く、笑顔も涙も出し入れ自在。しょっちゅう生きるの死ぬのと大騒ぎしては、男が切れるとこちらにベッタリと依存してくる。弱くて愚かで化粧臭い、そんな母親に心底辟易させられた。

 その反動なのか、僕は体の大きな年上の男性に惹かれる。背が高くて背中が広くがっしりしていて、包容力があるタイプ。父親を知らずに育ったから、父性を求めているのかもしれない。そう、恋愛としてではなく、あくまでも敬愛とか憧れの対象として───


 まさにそんな対象である、上司の市川支部長。


 僕はかねてから、彼に相談を持ちかけてみようと目論んでいたのだ。例の、謎の視線の件で。

 もちろんそれは口実で、単にもっと距離を縮めたい、頼って、なんならちょっと甘えてみたいという下心がある。

 支部長は大学でボート部に所属していたらしく、今でもガタイが良くていかにも頼り甲斐がありそうだ。仕事も出来るし、無口ではあるが心根は優しい人だと思う。いつも深みのある声で優しく「ありがとう」と言ってくれるから、業務の外でも僕は喜んで彼のコートの埃をブラシで払うし、コーヒーが飲めない彼のためにとびっきり美味しい紅茶を淹れる。



 さて、そんな僕の目の前には、【箱】がある。


 有名なブランドショップの、空の靴箱。


 これは僕が犯したの殺人の、唯一の物証である。


 はず、などと言うのは何故か。それは、殺したはずの女が忽然と消えてしまったからだ。目の前にある、この箱だけを残して。




 昨日の朝のことだ。

 僕はいつも通り、早くに出社して僕の主な仕事場である受付カウンターを念入りに磨き上げた。開発室の出入り口横に置いたリース品のパキラに霧吹きで葉水を与え、カウンター上に置いた(こちらは自前の)サンセベリアに水をやる。給湯室に行って電気ポットで湯を沸かし、戻ってきたところで気づいた。


 市川支部長のコートが、昨日着てきて僕がブラシをかけた支部長のコートが、ラックに吊るされたままになっているのだ。

 春先とはいえ、夜はまだまだ肌寒い。なのにコートを忘れて帰るなんて……


 思わず手に取ってしまったのは……そう、置いて帰ったのには何か理由があるのでは、と考えたから。もしかしたらうっかり汚してしまって、クリーニングに出して欲しいのかもしれない。そう思ったから。

 そのままコートを抱きしめて、残り香を胸いっぱいに吸い込み、あまつさえ頬擦りまでしてしまったのは……よくわからない。なんというか、勢いで。気づいたらそうしていたのだ。


 その時だった。


 「えっ、キモ」という品性や知性の欠片もない声が聞こえ、振り向くと見知らぬケバい女が支部長の個室から出てきて、ちょうど扉が閉まるところだった。オートロックの閉まる硬い音が、無慈悲に響いた。


 有名ブランドのショッパーとハンドバッグを腕に下げた女はバカ丸出しの口調で、市川支部長とついさっきまで一緒に居た、などと言う。支部長の個室で。支部長の鍵が無ければ外からは開かない、個室で。


 嘘だ、と思った。

 僕の支部長がこんな女と一夜を明かすわけがない。いや、女は別に「一晩中一緒にいた」とは言っていない。言っていないが、いかにも思わせぶりな目つきで個室のドアを見やがった。


 そして女は、また嘘をついた。

 市川支部長がコーヒーを買いに行った、と言ったのだ。


 彼はコーヒーを飲まない。


 やはりこの女は嘘つきだ。何者だ? どうやって入った? まさか支部長のカードキーを盗んだ? 支部長はまだ中に居るんじゃないのか?!

 一瞬のうちに、さまざまな考えが脳内に渦巻いた。警備員を呼ぶか、今すぐ取り押さえるか。幸い女は華奢で、小柄で細身の僕でも抑え込めそうだ。


 その時、女が言ったのだ。


「あのー、もしかしてお兄さん、ソッチの人? ここ通してくれたら、市川サンに黙ってあげててもいいケド?」


 小馬鹿にしたような半笑いで放たれたその言葉に、理性が飛んだ。逆上した、と言ってもいい。

 女に掴み掛かり、足払いをかけて突き倒した。かつて陸上部で鍛えた両腿で、女の体を腕ごと挟み押さえつけ、力を込めて女の鼻と口を塞いだ。


 僕のことは何とでも言えばいい。中性的なルックスのせいか、昔からオカマだのオネエだの言われ慣れてる。

 だがこの女は、僕の「市川支部長への思い」を嗤った。僕の崇高な思いは、あんな女の唇から軽々しく発せられるべきものでも、ましてや嗤われるべきものではない。それにこの女は、市川支部長のことも汚したのだ。赦せない。


 しばらく足掻いていた女が、やがて動かなくなった。頸動脈に触れてみたが手が震えて脈が取れず、呼吸を確かめたが僕自身の息が乱れすぎて生死の判別はできなかった。

 ともかくこのままにはしておけないので、死体を一旦給湯室の戸棚に隠し、僕は偽装工作を行った。

 隙を見て女の服を纏い、女が自力で出て行った様に見せかけたのだ。そして駐車場で元のスーツ姿に戻り、女の衣類を隠し、何食わぬ顔で戻ってきたら……


 女の死体が、彼女の荷物諸共消えていた。

 要するに女は、死んでいなかったのだ。


 再び駐車場に戻ってみると、植え込みに隠した女の荷物も消えており、代わりに支部長が置き忘れたコートと手帳サイズのファイルが車のルーフに載せられていた。

 おそらく女は、僕が奪ったコートとスカートの代わりに支部長のコートを着込み、脱出したのだろう。そして僕が隠した衣服を見つけ、着替えて帰ったのだ。



 僕は震える手で支部長のコートにブラシを掛け直し、ファイルを胸ポケットに入れてラックに吊るした。

 これで、何もかも元通り。僕の、殺人という罪は、煙のように消えた。


 たった一つ、彼女が持っていた、買ったばかりの靴のを残して。





 僕は思案する。


 一晩経ったが、警察は来なかった。どうせ後ろ暗いことでもあるのだろう。女はあのことを訴え出る気は無いのだ。と言うことは、犯罪は行われなかったことになる。


 ただこの【箱】は、彼女がここにいた唯一の物証。

 そして彼女は、支部長室のドアから出てきた。これは確かだ。

 市川支部長は、彼女と部屋で何をしていた? 何か、いかがわしい事? それとも……仕事の情報を漏らした? どちらにしても、重要な情報が眠っている個室に部外者を入れ、さらに彼女を一晩にわたって放置していたことは事実。



 僕は思案する。


 この【箱】を市川支部長に見せ、彼女のことを問い正す?

 もちろん僕が彼女を殺しかけたことは黙って……いや、むしろに必死でやったことだと言ってみようか?


 そうしたら彼は、どんな反応をするだろう。

 

 もしかしたら。話の持っていき様によっては……

 謎の視線に悩まされている、なんて相談に乗ってもらうより、よっぽど強いカードになる。



 彼を、僕のものにできるかもしれない。僕の思うままに、望み通りに。


 そう思った途端、胸の内に昏い欲望が噴出した。甘い痺れを伴う熱がじわじわと体を満たし、火照らせていく。


 僕にもやはり、流れているのだ。

 あの、忌まわしい母の血が。衝動に心を預け欲望に身を浸す、愚かな血が。



「……崇高なんて、クソ喰らえだ」


 空っぽの箱を胸に抱え、表面にそっと指を這わせる。

 僕は、支部長の個室のドアをノックした。



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