ヒトダマアパート【KAC20242】

綿雲

謎に満ち溢れた日常

――リフォームしたばかりなだけあって、部屋の中はかなり綺麗だ。西向きだが大きな窓のおかげで日当たりも良好で、そろそろ日が沈むというのに室内は少し暑いくらいだった。蒸したフローリングの居間は、まだ新しいヒノキとワックスの匂いで充満している。

「すみませんね散らかってて、まだクリーニング作業が残ってるみたいでさ。月曜には業者が片付けに来るから」

「構わないよ。無理言って内見させてもらってるのはこっちなんだし」

不動産屋はバツが悪そうに笑って、窓のそばに放置されたダンボール箱に目をやった。中にはゴミ袋やら掃除用具やらがごちゃごちゃと詰まっている。昨日には終わってるって話だったんだけどなあ、と不動産屋はため息をついた。

「ま、あれさえ片付けりゃもう水道も開通してるし、あとは電気が通ればすぐにでも入居できるよ」

「ありがたい話だよ、こっちも色々急いでるからさ。それにこの値段だし」

「それなんだけど、本当にいいのかい?ここ、格安とはいえ、やっぱりさ……その、気になるだろ?」

「ここがいいんだって。日当たりもいいし、駅から近いしさ。それに他でもないお前の紹介だろ?」

契約客は不動産屋の肩を叩き、明るくそう言った。事故物件がどうのと、いちいち怖がっていてはやっていられない。せせら笑うように部屋を見渡す。

一階なので窓の外にはすぐ隣家が見えたが、垣根によってある程度視界は遮られていた。これならば特段問題は無いだろう。

「それより、今日は悪かったな、休日出勤させちまったし。礼と言ってはなんだけど」

背負っていたリュックサックから二本の缶飲料を取り出し、片方を不動産屋に手渡す。昔懐かしい色味の細長い缶の中で、ちゃぷん、と中身が揺れる感触が手のひらに伝わった。

「ブラックは飲まないんだっけか。ほら」

「いいのか?ありがとう。やっぱコーヒーはフタバだよなあ、さすが、わかってる」

「お前、大学時代もいつもコレだったもんな」

懐かしいな、なんて談笑しつつ揃ってプルトップを開け、カツンと音を立てて缶を合わせる。

これがこいつとの最後の乾杯だ。そう思いながら、契約客は喉に黒い液体を流し込んだ――


「おい。いつまで読んでいるつもりだ?さっさと帰るぞ」

ぱたん、と手元の本が閉じられ、活字で埋められたページの代わりに『10分で驚きの結末!ミステリアンソロジー』と書かれた赤黒い表紙が目に飛び込んでくる。

「ちょっと!どこまで読んだかわかんなくなったじゃない」

「諦めて始めから読め。うちに帰ってからな」

見上げれば机の前には憮然とした態度の幼なじみがこちらを睨んでいた。学ランの肩に竹刀入れを引っ提げて、テーピングでぐるぐる巻きになった手で厚こい本を取り上げる。

「だいたい、貴様の記憶力では読んでいようといなかろうと大差ないだろう」

「せっかく部活終わりを待っていてあげた幼なじみに対して、誠意が足りないんじゃないの」

誠意という単語を知っていたのか、と嘲笑っている幼なじみ、嵐魔を置いていく勢いで、瑚葉実は学生鞄を背負って教室を出た。

「待たんか子狸!持っていけこの趣味の悪い本を」

「勝手に奪っておいてその言い草ったら。ていうか別に趣味悪くない!タヌキ顔はあんたもだし!」

「はん、何が驚きの結末〜だ。たかが10分で得られるカタルシスなどたかが知れておるわ」

嵐魔は大きくNを誇張した「ぬゎにが」くらいの嫌味ったらしい発音で瑚葉実をごく自然に煽ってくる。中学生男子ってやつは逐一相手に喧嘩を売らねばコミュニケーションを取れないようだ。いや、嵐魔に関しては昔からこうだったような気もするが。

「うっさいわ!だからこうやって短編集にして束でかかって来てんじゃないのよ」

「一話一話の感動が薄いことについては否定せんのか」

「まあそこはそれ、面白いのもよくわかんないのもあるし。でも今読んでたやつは嵐魔も好きそう」

「ほう?聞いてやってもかまわんぞ!」

「ええと、これこれ。ひねくれた中二病患者にはもってこいの話かも」

「どういう意味だ!」

瑚葉実は夕日の差し込む廊下を歩きながらぱらぱらとページを捲る。見出しには『ヒトダマアパート』なるタイトルがおどろおどろしい書体で鎮座していた。

「うんとね、まずこのお話はフィクションであり、実在する個人、団体とは一切……」

「そういう至極当然の前置きがいるか。本筋だけ話せ」

「そういうありそうでありがちな感じの入りなの。報道文から始まんのよ」

新聞記事風にまとめられた事件内容によると、事件の内容はこうだった。

4月某日、都内某アパートの一室にて火災が発生。消し止められたのは午後5時頃、出火元は室内。この日当該住居には契約者による内見が午後3時頃から予定されており、火災現場からは契約者と担当した不動産会社の営業マンと見られる2名の遺体が発見された。

しかしこの2名の遺体の死亡推定時刻はおよそ午後3~4時の間と見られており、火事は直接の死因ではなかった。玄関前に座り込むようにして死んでいた不動産業者の遺体からは致死量の毒物が検出されている。窓辺に倒れていた契約客の遺体は火災によりひどく焼けただれており、しかし僅かに焼け残った皮膚の死斑から、同じく毒物を摂取したような痕跡が見られたという。

さらに不可解なことに、出火元である室内には火種となるようなものは見られなかった。被害者2名ともにライター等も所持しておらず、ガス、電気も開通していないため、光熱関連の事故である可能性も低いと思われる。

なお、現場は完全な密室であり、外部から第三者が侵入した形跡は全く無かった。

「で、どのあたりが人魂なのだ。ただの住居火災ではないか」

「それはえーと、第一発見者で隣人のおばさんが警察にこう証言してるのよ」

垣根の隙間から、向かいの部屋に明かりが灯っているのが見えた。部屋の中でゆらりと青い火が揺れたかと思うと、なんと一瞬のうちに爆発した――。

ふん、と一蹴するような鼻息が横から聞こえてきたのを無視して、続く事件当時の記述をざっくり説明してやる。先ほど読んでいた契約客と不動産屋のやり取りのパートだ。

文章を追い追い歩き続けて、教室で嵐魔に中断された箇所まで辿り着く頃にはとっくに校門を抜けていた。長い音読を終えた瑚葉実は、そんな感じ、とざっくり締めくくった。

「ということで。ね、意外な結末がありそうな感じでしょ」

「どこがだ。くだらん」

「くだらんとは何よ。不思議な謎があるでしょうに、色々と!」

「謎などない。まして不思議だと!貴様はこれまでの十四年間俺様とともに過ごしてきたにも関わらずまだ何も分かっていないようだな」

ずいと顔を近づけて捲し立てる嵐魔に辟易として、瑚葉実は本で顔を覆った。辟易としたと言うのは半分嘘で、本当はあまり近づかれるとちょっと恥ずかしかったのだった。

「わかっていないって、なにがよ」

「この世の不思議とは人知によって解き明かすことの出来ない超常の現象のことだ!科学や何やであっさり片付けられる事象など怪でも異でもないわ!」

「じゃ、じゃあ、もうわかったの?事件の真相が」

無論だ、と息巻く幼なじみに疑いの眼差しを向けると、嵐魔は得意気に腕を組んでくつくつとほくそ笑んだ。中学に上がってからこういう気障な言動はますますひどくなっている。

「三遍回ってポンと鳴くなら教えてやらんこともないぞ」

「じゃあいい。よく考えたらネタバレだし」

「ふははは!よくわかっているじゃないか、そう、俺様の天才的な頭脳にかかればこの程度の事件いとも容易く解決してしまうのだ!これから語られる事件の全貌はまったくその物語の解答編となることだろうな!」

「語らなくていいと言ってんのに」

こうなっては嵐魔は止まることを知らぬ暴走機関車そのものであった。耳の穴をかっぽじってようく聞いておけよ、と聞いてもいないのに喋り出す。

「まず、犯人はその部屋の契約客で違いないだろう」

「え?犯人て、なんの犯人よ」

「たわけ、不動産屋を毒殺した犯人に決まっておるだろうが!後述のやり取りからも明確な意志を持って彼の男を殺したことが窺える」

「でも、じゃあなんで契約客も死んでんのよ。それにこっちも毒を飲んだって書いてあるし」

「推理には順序というものがある。まず第一に、契約客の犯行はこうだ。

契約客は何らかの動機……犯行以前から親交があったことを仄めかされているためおそらく怨恨だろう、によって不動産屋を殺害する計画を立てた。不動産会社が休みの日に無理を言って内見を頼み、契約した部屋におびき寄せる。そこで毒入りのコーヒーを飲ませ不動産屋を殺し、死体はどこかへ運んで埋めるつもりだった」

「ちょっと待ってよ。そんな白昼堂々?仕事で来てるんだからすぐ会社の人にバレない?」

「だから会社が休みの日を狙って標的のみが出勤する時間を作ったのだろう。休み明けに内見を頼んだのに担当者が現れなかったと連絡を入れればいい。完全に清掃が終わるのも待たずに内見に繰り出したのもそのためだ」

「ううん、でも運んで埋めるってどこにどうやって?」

「そんな場所はいくらでもあるだろう、都内某所と言うからには。車で都外へ運んで山奥やらダムやらに棄てることも考えられる。不動産屋が社用の車をアパート付近に停めていた場合はまた別の厄介があるが……」

「まあそのへんこだわっても仕方ないか。それで?」

「不動産屋に毒を飲ませたのち、どうしても避けられない作業がある。部屋の掃除だ。被害者の血や吐瀉物、そして被害者が倒れた際にぶちまけられたコーヒーで床が汚れたからな。

遺体がなくともこれがクリーニング業者やほかの不動産屋に見つかっては計画もクソも無くなってしまう。当然徹底的に掃除しただろう。その際どうせ外へ運ぶのだから先に遺体を玄関前の扉に凭れさせる形で座らせておく。これで現場発見時の状態になったな」

「はあ、なるほどね。まあそりゃ証拠隠滅しなきゃだもんね」

2人してぽてぽて通学路を歩きながら話を続ける。よくこうも一瞬のうちに話を整理した上で澱みなくべらべら喋れるなあ、と瑚葉実は感心を覚えていた。

「はあとはなんだ、間抜けめ。そして、ここからが問題となる、契約客の死因だな」

「そうそう、そこが謎なんじゃない。なんで死んじゃったのよ犯人の方は」

「その証拠隠滅のための掃除が死因となったのだ」

「え?」

掃除が死因、と聞いて、瑚葉実の脳裏には雑巾やデッキブラシやバケツや金ダライなどが次々と過ぎって行ったが、あまり殺人事件と繋がりそうなものは浮かばなかった。これだから狸娘は、と嵐魔が呆れたように首を振る。

「どうせ雑巾だの金ダライだのの古式ゆかしい掃除用具のことを考えていたのだろ」

「雑巾は立派な近代式お掃除グッズでしょ!」

「どういう主張だ。だがしかし、犯人はやはり掃除に雑巾を使っただろうな」

「そら見なさいよ、やっぱり手っ取り早いしねモップとかより」

「まあモップでも今回の場合は構わん。部屋のワックスがけをしていたのであればモップも置いてあっただろう。とにかく、水と洗剤を使って拭き掃除をしたのだ。床を片付けることによって、犯人はもうひとつの証拠すら片付けようとした」

「遺体を?」

「違うわ。もう現場の状況を忘れたか!遺体は現場にふたつあったのだぞ!」

「あそっか。じゃあ何?」

「事件において遺体の次に重大な証拠。兇器だ」

「兇器?あ、コーヒーのこと?」

「さよう。被害者はコーヒーを口にして、すぐには異変に気づかなかっただろう。飲みながら旧友と談笑をしつつ内見を続ける。少し経ってから体の異変に気づく」

「何よそれ。毒殺ってこう、うっ!バタン!ってなるもんじゃないの?締まらないなあ」

「流れに文句があるのならばうっ!バタン!でも良かろう。ここからの行為が結果的に犯人をも死に至らしめ、更には人魂すらも呼び寄せる最悪の結果を齎すトリガーとなったのだ!」

信号待ちの間に嵐魔が一息に語ったところで、すぐそばを大きな犬を連れた婦人が通り過ぎる。2人してしばし犬に見入ったところではっとして、点滅し始めた信号の前を急いで渡りきった。

「えっと、不運て言った?なによ不運って」

「ふむ、ただしここから先は俺様の推測でしかない……しかし論理的に考えればこの推理が明らかに間違っているとは言いようがないだろう!」

「いいからはやく語りなさいよ。聞いててあげるから」

「貴様は『混ぜるな危険』という言葉を知っているか?」

「急に家庭科の授業?まあそりゃ知ってるけどさ」

一般的に販売されている掃除用洗剤の中でも、酸性洗剤と塩素系洗剤を混ぜてはいけない。含有成分が反応し合って有毒なガスが発生するからだ。台所でレモンを搾ったあとに漂白剤を使うなどしても同じ反応が起こり大変危険であるという。

「つまるところ塩酸と次亜塩素酸ナトリウムが混ざりあうと人体に有害な塩素ガスが発生し、最悪の場合死ぬ。貴様もせいぜい気をつけることだ」

「気をつけるけどね怖いし、でも、まさか掃除中に間違って洗剤同士を混ぜちゃってうっかりガスが発生して、ってオチじゃないでしょうね」

「正味それも絶対にありえんという事はないだろうな。かなり際どい確率ではあるが」

「流石にないと思いたいな、オチとして……」

「実際塩素ガスは支燃性だ。つまり先に火があればよりよく燃えるようになる」

「だから人魂が爆発したってこと?にしても苦しいって」

「まあ落ち着け。何も塩素ガスが原因とは一言も言っていないだろう」

「なによ、違うの?前フリはなんだったわけ」

「混合危険は多岐に渡る。塩素ガスのように有毒物質が出る場合はもちろん、高圧ガスが発生して爆発する、引火性のある成分が発生して爆発するなど」

「爆発してばっかり」

「そう、爆発だ。そこにヒントがある、先ほど第一発見者が見た光は青かった、と言ったな?」

「え?ああ、うーんと……ほんとだ」

「ニワトリか貴様は」

心霊的なイメージにおいては炎と言うと青で表されるのがポピュラーな感じがして、そこはあまり気にしていなかった。瑚葉実は田んぼの中に点在する墓地の中で、青い火の玉がふわふわ飛んでいる様子を想像する。

「でも、オカルト的に考えないとすると…ガスコンロの火とかは青いけど」

「なかなか目の付け所が良いではないか!そう、まさしくガスが原因だ。引火によって炎は青くなったのだ」

「ええ?だって、ガスはまだ引いてないって書いてあったけど」

「そこで混ぜるな危険の登場だ!犯人は兇器と掃除用具との取り合わせでやらかしたのだろう」

「な、なにそれ……そんなことある?」

「予想するに、犯人は掃除用具にかなり強い酸性を帯びた洗剤を使用したはずだ」

「でも酸性洗剤ってさ、基本お風呂かトイレ掃除のイメージなんだけど……被害者って水場で死んだわけ?」

「際してどこにいたかは記述がなかったが、飲んですぐ倒れたと仮定すれば遺体は十中八九フローリングの上だろうな。わざわざ風呂で倒れて後始末を楽にしてくれるとは考えにくい」

「でも、じゃあフローリングでフローリング用じゃない酸性の洗剤を使ったってこと?」

「どこで倒れたかに関わらずそう考えて良いだろう。これは犯人にしてみれば、警察による捜査が入った場合に撹乱するための措置でもあったのだ」

「洗剤が?」

「現場の鑑識の際、ルミノール反応を見るだろう」

「ああ、拭き取られた血のあとが光って見えるってやつ」

「不揮発性の強い酸はルミノール反応を阻害するのだ。先程も言ったが、床が被害者の血に汚れることを当然犯人も予期していたことだろう。そこで証拠隠滅のための洗剤も準備しておいた」

「殺人なんてやろうとするからには、準備も万端だったでしょうね」

「まあたまたま現場にあった用具を適当に使っただけかも分からんが。現場には清掃用具も置きっぱなしだったらしいからな。どの道この洗剤と、己の無知が犯人の命運を分けることになる」

「そうそう、で、酸性の洗剤と反応したってことは…塩素系?の洗剤がコーヒーに入ってたんだ!漂白剤って毒だって言うもんね」

「惜しいな。ここで発生したのは塩素ガスではないと言ったろう」

「違うの?じゃあ何よ」

「硫化水素だ」

「ふうん」

「もう少しこちらが続きを話したくなるような反応をしろ」

硫化水素とは、硫化鉄に塩酸を反応させて作る化学物質である。強い毒性を持つ気体で、空気中濃度が1%以上になると即死する可能性さえある大変危険なシロモノだ。

「その危ないやつが、酸性洗剤と……コーヒーのせいでできたわけ?」

「コーヒーと反応するわけがあるか。殺害のための毒物として硫黄化合物が混ぜられていたのだ」

「硫黄?温泉とかの?」

「まさしくそれだ。犯人は恐らく硫黄化合物成分が多く含まれる市販の入浴剤をコーヒーに混ぜたのだ、これなら自宅に所持していたところで何ら怪しまれることもないからな」

「げ。気持ちわる、ていうかそんなのにおいでバレない?」

「コーヒーそのものがそもそも匂いが強いからな。それに部屋はワックスの匂いが充満していたようだし、そのせいで若干鼻が麻痺していたフシもある。硫黄化合物は水に溶かすと白く濁るが、被害者の分はブラックではないと記述があったし、色もごまかせるだろう」

「そんなもんかなあ。だって味はどうなんのよ」

「知るか。毒物を作って試しに飲んでみる馬鹿はおらん」

「うーん、まあ、実際死んでるし、飲んだんだろうけど……」

「だが、過去には硫黄系の入浴剤を使った後に酸性洗剤で風呂釜を掃除することで硫化水素が発生するという事故も実際に多数起こっている。犯人が硫黄化合物の有毒性に関して調べていればこの情報は知っていて然るべきだが……」

「なんかだんだん推理が苦しくなってきてない?謎なぞないわとか言ってたくせに」

「煩いぞ。ともかく、この入浴剤入りコーヒーと酸性洗剤が反応することによって硫化水素が発生したと考えて間違いない!はずだ」

「やっぱり苦しくなってるし」

嵐魔はぐぬぬ、と唸りながら竹刀入れの紐を握り締めた。お手本のような悔しがりようである。

「多少の不明瞭は仕方がなかろう!情報が少なすぎる、貴様、いざ謎を解かんという気概はないのか?」

「私に言われてもなあ。そもそも小説の中の話だし」

「だが、硫化水素ならば人魂についても辻褄が合うだろうが!」

「え?なんでよ」

「硫化水素には引火性もある。混合危険お決まりの爆発のパターンだな。そして燃焼の際には淡い青色の炎が見られる」

「ああ!人魂の爆発ってそれで……いや、でもさ、空気に触れただけで火がつくの?」

「甘いな!部屋の詳細と犯人の死体の位置をよく思い出せ」

「詳細?犯人は窓の近くで死んでたんだっけ?」

「うむ、順を追って整理していくぞ。犯人は持参した掃除用具で拭き掃除をしていた。床は体液やら毒液やらで散々な有様だ。バケツに水を汲んで水拭きしたのち、洗剤を使ってさらに床を拭くだろうな」

「それはそうなんだろうね」

「ここで入浴剤に含まれる硫黄化合物と酸性洗剤の塩酸を同時に洗い流したバケツの中で化学反応が起こり、犯人も知らず知らずのうちに硫化水素が発生してしまったのだ。しかも部屋の中は間違いなく密室だ、近隣住民に見聞きされてはまずいからな」

「毒ガス部屋の出来上がりというわけ」

「その通り!そして今更ながら言っておくと、犯人の思惑とは裏腹に、入浴剤を少しばかり飲んだ程度では大概の人間は死なん!」

「え。前提が変わってくるじゃないの!」

「毒物の入手経路などそうあるものでは無いからな。ともかく被害者が倒れてコーヒーをひっくり返し、更に酸性洗剤で掃除をしたという前提があればこの事件は成り立つと言えよう。ああそうか、入浴剤単体ではなく漂白剤なども一緒に混ぜていたのかもしれん、そうすれば毒性も強くなるし塩素ガスも同時に発生して一石二鳥だな」

「そういうのは泣きっ面に蜂って言うんじゃないの」

「あるいは被害者がこの場で倒れるまで衰弱したのは予期せぬ事態で、本来は軽い毒を飲ませて具合が悪くなった被害者を医者に連れて行くと装って拉致し、実際の殺害は別の場所で行う手筈だったかもしれん。おおそうだ!その方が合理的だな、部屋の掃除もしなくて済むぞ!」

「いい事を思いついたふうに言われても。真似したりしないでよ?」

「安心しろ!貴様ならキャラメルでもやろうと言えば簡単に釣れるのだからわざわざそんな手の込んだ真似はせんわ!」

「私だってせめてカステラくらいなきゃ釣れないんだからね!」

「侘しくきな粉棒を齧っているくせに」

「あんただって同じもん食べてるでしょうが!」

2人はとっくに瑚葉実の自宅であるところの狛井神社まで辿り着いていたが、寄り道して買った駄菓子を食べながら駄弁り続けていた。現在推理中のこの本を買ったせいでお小遣いがピンチなので、これくらいしか買えるものがないのである。

「まあともかく、被害者がその時点では死んでおらず、昏倒したところを玄関に座らされていたのだとすれば、だから被害者の直接の死因はこの硫化水素ガスであると考える方が自然だろう。死斑もわかりやすく出る。肌が変色するからな、緑色に」

「えっ怖……じゃなくて、だから火の元は?」

「おお、脱線していたな。さて、ガスの発生時には特有の臭気があるものだ。硫化水素となれば特に分かりやすい」

「硫黄のにおいね。あ、それで換気しようとして、窓に近付いたんだ!」

「そう考えるのが妥当だろう。しかし奮闘虚しく途中で力尽き、その場に倒れ伏せてしまう。たった今人を殺しているところなのだから当然の報いではあるな。さらに運の悪いことに、この部屋にはただ一つ、火種が存在していた」

「また掃除用洗剤?」

「近くはあるな。その火種は部屋の隅、西日を受けながら虎視眈々と己が身体を燃え上がらせる瞬間を待っていたのだ」

「西日?そんなこと言ってたっけ…あ、このダンボール箱の中身ってこと?でもこんなのって中身なんか分からなくない?」

「分からずとも、現場の状態から推察はできるものだ。部屋はクリーニングの最中、置き去りにされた掃除用具、清掃に際して出たであろうゴミ、そしてワックスの匂い……」

「ええと……ワックス?もしかしてワックスって燃えるの?液体じゃないあれ」

「阿呆が!ワックスとはつまり蝋のことだぞ!英語の授業中に決まって寝ているからそういうことになるのだ!」

「だって呪文みたいで意味不明で眠くなるんだもん……」

嵐魔は腹の立つことに全教科が得意という天才気質である。英語の成績も瑚葉実の倍は良いので、ぐうの音も出なかった。

「とはいえ液状のワックスがそのまま燃える訳ではない。ゴミとして出すため布や紙に染み込ませたものを積み重ねて放置することで、自然に発火する可能性が産まれるのだ」

「ああ、学校の大掃除でそうやってるの見たかも。あ、じゃあこのゴミ袋にワックスのゴミが入ってたってこと!」

「部屋は暑かったと言うし、日に晒されていたのなら尚更高温になり発火の確率も上がるはずだ。そして発火の瞬間、部屋に満ちていた硫化水素ガスに引火し……」

「青い炎ができて、一気に爆発したんだ。それをお隣のおばさんがたまたま見たんだね!」

「近くで死んでいた犯人も丸焦げになったろうな。その距離で爆発が起きたとあれば発見者の安否も気になるところではあるが」

「まあ元気なんでしょ。事情聴取されてるんだから」

先ほどから物騒な話を続けているが、いつもの事なので神主の祖父も何食わぬ顔で軒先の掃除を続けている。瑚葉実は開いていた本を閉じると、苔の生えた石段から立ち上がった。

「なんか、意外と推理っぽかった!すごいじゃん嵐魔」

「意外とぽかったとはなんだ!探偵様お見逸れしましたくらい言えんのか!」

「だってところどころ怪しかったじゃん」

「くっ、まあいい、そろそろ家に入れ。そして話を最後まで読んで明日結末を報告しろ」

「結局気になるのね。わかった、推理通りだったらいいけど」

「ふはは!楽しみにしていろ、間違っていればきな粉棒でもなんでも奢ってやるわ!」

「ほんと?箱ごとね。言質とったからね!」

「何!?姑息だぞ!」


――


「それで?どうだったんだ、事の顛末は」

翌朝神社の前で落ち合うと、嵐魔は開口一番瑚葉実に詰め寄った。わかりやすくそわそわしているのを見るに結構気になっていたのだろう。瑚葉実は微妙な表情で嵐魔を見つめた。

「なんだそのチベットスナギツネのような形相は」

「うん……最後まで読んだんだけどさ……」

「どうだった!俺様の華麗なる推理は的中していただろう」

「……合ってた。途中までは」「なんだと!?」

一体どこが間違っていたと言うのだ、と更に距離を詰めてくる嵐魔に、こんな残酷な真実を告げてもいいものか。瑚葉実は赤黒い表紙の本を胸に抱えたままごにょごにょと呟く。

「……お客さんのほうが毒で不動産屋さんを殺した、ってとこまでは、合ってたんだけども……」

「序盤も序盤の話ではないか!それからどうしたというのだ」

「毒の種類とかそういうのは全然出てこなくて……ほら、最初のほうで事故物件がどうのって言ってたじゃない」

「それがどうした。現場として都合がいいからすぐに借りられて人の寄り付かない物件を選んだのだろう」

「そうじゃなくて、そこがホントに幽霊の出る部屋で、殺された不動産屋にそこの地縛霊が取り憑いて」

「ん?」

「そんで、一時的に蘇った不動産屋が、逃げようとした契約客を呪い殺して……」

「は??」

「だから、呪い殺されたせいで死斑が変で…人魂も呪いの魔法で……」

「なんだその論理のない……せめて呪いなのか魔法なのかどちらかにしろ!!」

「そこ?もっとあるでしょ」

嵐魔は憤りを隠そうともせず、ぶつくさ言いながらこちらに背を向けると足早に去って行ってしまった。瑚葉実は力なく苦笑しつつも竹刀入れを携えた背中を追いかける。

「ええい、あれこれ議論したのが馬鹿らしい。その本はどこに売っていた!」

「え?えーと、一木書店さん。いつも行ってる、商店街の」

「今日の放課後乗り込んで、そのふざけた本を全てミステリからホラーの棚に移してやる!」

「賛成だけど、レジ横で平積みになってたから難しいと思う」

「本当にあそこの店主は毎度趣味が悪いな!」

「ていうか、嵐魔もいけないのよ。妙に説得力ありそうな感じの説を聞いてたからオチで気が抜けちゃったけど、普通に読んでたらそうだったのかあ、って納得したかもしれないのに」

「あれで納得するのは三歳児までだろう!」

「でも嵐魔は幽霊がいた方が嬉しいでしょ?」

「……いたとして、そんな説で納得してやる俺様ではないわ!この目でしかと見て聞いて対峙するまで諦めんぞ!」

不思議なことを否定しているように見えて、嵐魔は実の所ずっと、「本物」を探している。人智を超えた謎、怪異、不思議を探しているのだ。

「いつか見つかるといいねえ」

「ふん!」

とうとう走り出した嵐魔に続いて、瑚葉実は本を抱えたまま地面を蹴った。放課後、本屋さんに行ったら、このある意味謎の本の続きが出ていないか探してみようと思う。

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