no name

「いい家でしょう?」

 そう聞かれて彼の方を振り返る。雨戸を軽く開けた窓から陽の光が部屋に差し掛かる。光に当たってキラキラと存在を主張する室内を舞う埃が目に留まりながらも彼の方を見た。

 目尻を下げ、口角を上に上げた表情がとても印象的な中年の男性は手を擦りながらこちらへ歩み寄ってくる。時折り深く深呼吸をするその人は私の目の前で足を止め、ちらり、ちらりと部屋のあちこちへ目を配りながらえへへと笑った。

「そうですね。とても良い物件です。想像していたよりも遥かに料金が安くて驚きました」

 最初の希望金額を下回っている有料物件に思わず安堵のため息を吐いた。

 駅からは歩いて一時間の場所にあり、立地としてはあまり求められないものだろう。少し小高い位置にあり、車でもないと買い物が大変そうではあるが、そこは特別気にしているわけではない。誰からも見向きされないこの家に興味があったのだ。ネットにて掲載されていたあまり目立たない普通の家の写真を見て、運命を感じたのだ。私はこれからここに住むのだと決まったかのような衝撃だった。売り家として紹介されていたこの家を購入すべく、すぐに不動産会社へ連絡を取ったのだ。その間は僅か数日で、急いでいる旨を伝えると彼が対応し、来てくれたのが今日だったのだ。

「そうですね。ネットで拝見したということなので既にお分かりだとは思うのですが、ここは所謂事故物件でしてね。前の住人は一家揃って心中したそうで、それ以降買い手が見つからなかったものですから、お客様にとってはまたとないチャンスとは言えるのではないでしょうか」

「そうみたいですね。今までの私なら遠慮していたかもしれませんが、一目惚れ……とでも言うんでしょうか。すぐここを気に入って……いいえ違いますね。きっと招かれたんだと思います。一緒に住むことになりますから」

「おや、どなたかとお住まいになられるご予定で?」

「いいえ、私とこの家がです」

 私の問答になにやら引っかかったのか、彼は片眉を上げ、それからすぐ考え込まないようにして私の背中に手を添えて案内を始めた。キッチンの床下収納を始め、クローゼット、押し入れ、事細かに説明をしてくれた後和室の扉を開けた。随分広い空間を有している立派なお座敷だった。私はそこへ足を一歩踏み入れる。彼は私の背中に添えた手に力を込めてある一箇所、少し変色した畳の上を指差した。

「ここですよ。みなさんここで見つかったそうです。折り重なるように手を繋いでいたという話です」

 そこまで言うと、彼の行動は早かった。素早く私の肩を掴み、変色した畳の上へ膝をつかせたかと思うと、力任せに組み敷いた。荒い息で切羽詰まったように口元を涎まみれにして、舌なめずりをしていた。

 彼は血走った目で私を見ては「興奮するでしょう?あなたも」と脈絡のない言葉を投げかけてきた。私は特別なにを思うこともなく、彼のなり行きを見守る。彼はまるでなにかに取り憑かれたかのように何度も「神様」とうわ言のように呟いていた。私は先ほどまで彼の手の感触を味わっていた背中に、今度は冷たい畳の感触を感じる。彼の顔越しに見える天井の模様は様々な木目でどれも違うようだ。それが何故だか安心した。

「私はこの家に導かれたような気がしました。私の一目惚れでしたけど、それはきっと間違いで、本当はこの家が私を見定めたんじゃないかと思うのです。"彼ら"が私に来てほしいのだと言われたような気がしました。私はそれについていったんです」

 目の前の彼が目元を覆う。

「それって悪いことでしょうか?それとも良いことなんでしょうか?」

 彼は唐突に断末魔のような叫び声を上げ始めた。

「でもそれって素敵なことだと思うのです。両想いというものなのだと私は感じたのです」

 私の上から身を捻り、和室を出ていこうとする彼に声をかけた。

「あなたはどう思いますか?」

 "彼"は答えた。

「その通りだと思います」


 後日私は無事住まいを手に入れた。何年も乗っていなかった車を中古車として買い、家の前に停める。

 不動産会社は唐突に行方をくらましてしまった担当の男性のことを謝り、別の方を紹介してくれた。必要な書類に記入を済ませ、説明を受けた後鍵を渡してくれたのだ。

 そうして私は無事、荷解きを済ませリビングでくつろいでいる。穏やかな陽の光を浴びながら引越しへの疲れもあり、ゆるく目を閉じた。爽やかな風が窓から入ってくる。

 なんと穏やかな日になったのだろう。

 そんなことを思いながらソファへと沈み込む。揺れたバネの音を最後に、寝息を立てた。

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