感じる視線
藤瀬京祥
感じる視線
うん、まぁわかってた。
わかってはいたの、今頃じゃろくな物件が残ってないって。
世間的にはとっくの昔に物件を決めて、今頃は引っ越し準備……いえ、もう引っ越しシーズンか。
引っ越し業者が無茶苦茶高く……なりません。
はい、なりません。
高くなるのは引っ越し代で、業者が高くなってどうするのよ?
高級引っ越し業者ってなに?
たまぁ~にこういう言い間違いっていうの?
まぁそんな凡ミスをして怒られながらも勤続六年。
社内ではまだまだ下っ端だけど、世間の荒波に揉まれ、会社の人間関係に悩まされながらも頑張る
ついでに後輩からの突き上げにも耐えて頑張ってます。
うん?
職業OLじゃなくて会社員って言っとく?
そういえばアンケートとかでも、職業欄に 「OL」 はない気がする。
だからといって会社員に訂正したところで薄給にかわりはないけど。
それでも同じ会社に六年も勤めていたら、少しずつではあるけれど昇給するわけで、どうにかこうにか一人暮らしでやっていけている。
そしてこの度、六年住んだ部屋から引っ越しをすることになりました!
パンパカパーン!!
……と張り切ったまではよかったんだけど、ね。
それこそクラッカーを打ち鳴らしたいくらい張り切ったんだけど、ちょっと行動に移すのが遅かったというか、時期を外したというか。
ろくな部屋がない
いえ、世間には沢山素敵な部屋があると思うの。
それはそれは星の数ほど。
でもあるはずなのに残っていないっていうね。
だって三月なんて引っ越しシーズンよね。
引っ越し先の部屋を決めて、仕事や家族のスケジュールを調整なんてことは年明けから始め、二月中には終わらせておくもの。
人によっては年末には終わらせているかもしれない。
もちろんわたしだって急に思い立ったわけでもないし、転勤や進学シーズンの三月は物件争奪戦が終わってろくな物件が残っていないってわかってた。
でも休みが取れなかったのよ!
休日争奪戦って、どうしても家族持ちが優先されるのよね。
物凄い同調圧力をかけられて。
わたしみたいな勤続六年目の独身は非常に立場が弱いというか、肩身が狭いというか。
つまりわたしは社内……いえ、部署における休日争奪戦でも負けました。
それでも年次休暇の消化が法律で定められ、ようやく取れたのが今日です。
あまり……いえ、全然期待はしていなかったけれど、折角の有給だし、家でダラダラしているのももったいないからと出掛けた不動産屋が、最初に案内してくれたのがこちらのアパート。
もう築年数とかどうでもよくなるくらい古い。
住んでいる人には申し訳ないけれど、なにか出るんじゃないかと思ってしまうくらい古かった。
それでも室内が綺麗ならと思って担当者さんに促されるまま入ってみたけれど、内装は古いというより汚い。
なに、この汚さ!
ビックリするくらいの汚さにわたしが言葉を失っていると、さすがに担当者もまずかったと思ったのか苦笑い。
そもそも女の一人暮らしに一階を紹介するのはやめて欲しい。
わたし、条件の一つとして 「二階以上」 って書いたはずなんだけど。
舐めてるの?
え? わたし、この営業に舐められてるのかしら?
ちょっと腹が立ったから、次こそはまともな物件を紹介してもらうためにも、後ろに立っている担当営業を横目に睨んでおく。
少なくともこちらが出した条件に合う物件を見せてもらいたい。
それこそないならないとはっきり言ってもらったほうがいい。
でも担当営業としては一件でも多くの契約を取りたいわけで、中でもこんないつまでも売れ残りそうな物件をカモに押しつけられればと考え、「ない」 とは絶対に言わないんだと思う。
その気持ちもわからなくはないけれど、さすがにこれはないでしょう……というくらい案内された物件は汚かった。
ざっと見た感じ、設備も古い。
和式トイレなんて生まれて初めて見たもの。
和式トレイだってことはわかるんだけど、使い方がよくわかりません。
どう考えたってそんなところには住めないわよね。
トイレと風呂は、毎日使わずには済まされない設備だもの。
その使い方がわからないなんて、どう考えてもわたしはここに住めない。
そう考えて引き返そうとした時、ふと気がつく。
見てる?
そう、視線を感じたの。
もちろん案内してくれている不動産屋さんの担当ではない、別の誰かの視線を。
どうやら担当も気づいたらしい。
わたしと同じように顔を強ばらせ、こちらを見ている。
「あの……なにか感じませんか?」
そう尋ねてきたから、わたしも 「感じます」 と答えておく。
なるべく平静を装ったけれど、たぶんバレバレだったと思う。
おそらく視線の主にもわたしたちの緊張は伝わったと思う。
不動産屋の店舗から、担当の営業が運転する車でここまで来た。
今も車はアパートの前に停めたままになっている。
その車を降りてアパートの前に立った時、なにか出そうな雰囲気の古さだとは思った。
それでも住んでいる人もいるし、内覧だけなら……と思ったらまさかまさかの事故物件だったなんて。
本当に出るなんて予想外よ。
しかも事故物件には告知義務があるはずなのにまるで聞いてません。
それとも内覧だけなら必要ないとか?
不動産業には詳しくないからわからないけれど、わたしとしては内覧前に教えて欲しかった。
そうしたら絶対に踏み込まなかったのに!
「俺、こういう物件にあたったことなくて、その、こういう時どうしたらいいか……」
わからないんですね。
つまり担当もここが事故物件であることを知らなかったということね。
当然のことですが、こんな時の対処法なんて客のわたしにもわかりません。
知ってるはずないじゃない。
わからないけれど、とりあえず外に出たほうがいいんじゃない?
視線の主はただ見ているだけで今のところなにかされる様子はないし、それならされる前に逃げたほうがいい。
そう思い、言葉ではなく指で玄関を示すと、担当も無言で大きく頷く。
二人ほぼ同時に踵を返そうとして、後ろを振り返るその視界の隅に、わずかに開いた襖が入る。
そのわずかな隙間からのぞく目があった。
「……あ? ちょっとっ?」
背筋がぞわりとしたのも束の間、あることに気づいたわたしは担当が止めるのも聞かず襖に近づくと、そっと隙間を広げる。
襖の向こう側、狭い押し入れの中からわたしたちを見ていたものの正体、それは小さな猫だった。
「お猫様?」
思わずわたしの口を突いて出た言葉に、担当は 「猫?」 と怪訝な声を出す。
「あ、本当だ。
なんだ猫か」
正体見たら枯れ尾花よろしく、視線の主がガリガリに痩せた小さな猫と知り、担当は拍子抜けした声を出す。
「まったく、驚かせやがって。
こんなところにどうやって入ったんだよ」
はぁ~と大きく息を吐きながら腰を屈める担当。
でもわたしはその何気ない言葉に引っかかりを覚える。
どうやって入った?
確かに入った方法も気になるけれど、この子、出られないんじゃない?
あとで駆け付けたオーナーの話によれば、定期的に窓を開けて部屋の空気を入れ換えているらしい。
おそらくその時に迷い込んだものと思われる。
そして迷い込んだが最後、気づかずにオーナーが窓を閉めてしまい、外に出られずじっと押し入れに潜んでいた。
母猫はもちろん兄弟猫も見当たらず、たった一人、こんな暗く狭い場所で何日過ごしていたのか。
そのことに気づくと、わたしはいても立ってもいられなかった。
念のため担当の営業にオーナーに電話をしてもらい、この子猫様が飼い猫ではないことを確認してもらい、わたしはそのあいだに近所の100均へダッシュ。
ペットショップがあればよかったんだけど、そううまくはいかないもの。
そこで100均で組み立て式の箱とタオルを数枚購入。
ちょっと可愛そうだとは思ったけれど、狭い押し入れの中で隅に追い込み、タオルを被せて捕獲すると猫ぐるみっていうの?
人間の赤ちゃんみたいにタオルでぐるぐる巻きにして、タオルを敷き詰めた箱に入れて動物病院に持ち込んだ。
この時からわたしは本腰を入れて部屋探しを始めた。
もうそれこそ 「まともな物件が残っていない」 なんて言っていられない。
もちろんこの時の不動産屋以外でね。
そりゃトラ吉との出会いはこの不動産屋のおかげと言えなくもないけれど、信用がないから。
全くないわよ。
だから他の不動産屋で。
ちなみにトラ吉が迷い込んだアパートは、当然ペット不可です。
可であってもさすがに住もうとは思わないけど。
でもなかなか見つからなくて、途中で、もうペット可の物件でなくてもいいか……とか思ったりもしながら、仕事帰りや休みの日に、トラ吉を預けている動物病院に足を運んだ。
あ、そうそう。
トラ吉は子猫様の名前です。
茶トラのトラ吉
安易だけれど、直感で 「これだ!」 と思ったらもう他に浮かばなくなってしまったから仕方がありません。
会社で話したら同僚たちにも馬鹿にされたけれど、写真を見せたらみんな黙りました。
しかも偉大なる子猫様の尊さにみんなの語彙が消失。
「かわいい」 と 「ちっちゃい」 しか出なくなるという現象が発生した。
そんなトラ吉のために頑張った結果、なんと猫飼い歴数十年という大ベテランがオーナーのペット可マンションを見つけることが出来た。
引っ越しが済むまでトラ吉を預かってもらっていた獣医さんのところの看護師さんが、たまたまそのオーナーと知り合いで空室の有無とかを聞いて。
他に立地や家賃のこともあるから、紹介だけしてもらって、あとは直接自分で交渉しました。
「何十年と何匹も育ててきたけど、みんな違うからね。
新しい子と家族になるたび、初心に返るよ」
マンション内に住んでいると聞いて引っ越し前にご挨拶に伺うと、猫飼い初心者のわたしにそんなことを話してくれたオーナー夫婦。
今も三匹のお猫様と暮らしているんだとか。
残念ながら人見知りのため、誰も姿は見せてくれなかったけれど……。
引っ越しの片付けがあらかた終わってから、今度はちゃんとキャリーケースを持って動物病院にトラ吉を迎えに行った。
それなりに大きな箱で蓋もついていたとはいえ、所詮は段ボール箱。
初めてトラ吉を連れて行った時、入れていた100均の箱を見て、病院の人たちはもちろん待合室にいた他の飼い主さんたちもビックリしていたというかなんというか。
でもこれから予防接種とか健康診断とか、なにかあるたびに病院に連れて行かなきゃならないことを考えればキャリーケースはあるに越したことはない。
そう考えて、トイレとかキャットタワーとかと一緒に購入しました。
他にも猫じゃらしやトイレの猫砂とかも。
お迎え準備は万全です
最初こそ、その、事故物件に住み着いた幽霊的なものと勘違いしてしまったけれど、自分でもビックリするくらいトラ吉を迎えることに迷いはなかった。
こういうのを直感っていうのかしら?
オーナーに子猫様のことを電話したあと、「とりあえずこのままにして次ぎに行きましょうか?」 なんて言った営業を殴り飛ばしたくなったのは内緒の話。
いま思えば、その言葉もわたしの背中を後押ししたのかもしれない。
でもたぶん、その言葉がなくてもわたしはトラ吉と暮らすことを選んだと思う。
なんとなくね
そんな気がするの。
この調子で彼氏も見つけてトントン拍子に結婚……なんて夢はおいといて、今はこれから始まるトラ吉との生活を楽しむことにします。
感じる視線 藤瀬京祥 @syo-getu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます