SS 親父とラーメン

 ぼんやりと、疲れた頭のまま廊下を歩いていた。


 電気のついていない、薄暗い実家の廊下。家政婦も帰り、母はどうせ夜遊びで、この広い実家には自分と父しかいないはずだ。


 いまだに慣れない勉強に、機械油の匂いが恋しい。ペンを動かすよりも、工具を使いたいが、目標を達成するにはそうも言ってられない。夢を見つけるのが遅れたツケは、こういう所に現れてくる。


 右手にカップ麺を持ったまま、台所を目指す。そして、台所の暖簾をくぐって、そこで、ようやく自分は台所に灯りがついていて、そしてその中に誰かいるのに気がついた。


「……」


 父だった。


 部屋着に眼鏡という、家の中のオフモードの父だった。


 見れば、片付けられた台所の作業台の上には、味噌ラーメン、と書かれたカップ麺が置いてある。つい、自分の右手を見下ろした。その手の中のカップ麺には、塩ラーメン、と書いてあった。


 父は、丸イスから立ち上がると、コンロにかけられていたヤカンを持ち上げた。そして、水道まで持って行って、温め途中のお湯の中に水を足していく。そして、また、コンロにかけた。


「……親父?」

「お前も、夜食なんだろう」


 父は、そう言って、作業台の下からもう一脚の丸椅子を出した。そのまま、ぼんやりとした様子でコンロを見つめている。


 つい、時計を見てしまった。現在時刻、午前0時。日付が変わった所だった。


 普段は遠慮する自分も、頭が疲れているせいだ、と言い訳して、父が出してくれた丸椅子に座る。そして、同じくコンロにかけられたヤカンを見る。先ほど水が足されたヤカンは、まだ沸騰するのに時間がかかりそうだった。


「……その、また、仕事?」


 自分の問いに、父は頷くだけだった。顔を見ると、やはり、疲れている。それに、申し訳なくなる思いだった。


「会社でしないのかよ、親父」

「……私があんまり残業していると、部下が、色々と」

「親父、無理しがちだから。心配してるんだよ、きっと」


 父は首を傾げた。そうなのだろうか、と声に出さずに思っているのがわかる。鈍感だな、とただ、それだけ思った。


「お前は、どうだ、最近」


 父の、不器用な言い方。それを、なるべく最大限汲み取って、自分は口を開いた。


「勉強、難しい」


 でも、と、今働かせてもらっている、バイク屋の先輩達やお客さんや、おやっさんの顔を思い出す。


「でも、みんな頑張れって。……悪くないよ」


 そっと、父を横目で見る。父は、そうか、と言って、小さく、笑みを浮かべていた。


 それに、なんだか、瞳の奥が熱い。


 散々、迷惑をかけてきた父だった。


 腹違いの弟をいじめて、受験に失敗して、やっと入れてもらった学校も夜遊びと身の程知らずの飲酒とタバコで、進学できなくて。


 高校卒業後、腹違いの弟は順当な道を歩んでいるのに、自分はずっとプラプラしていて。どんなに心配をさせていたのだろう、と、今更、後悔する。


 バイク屋のおやっさんの顔を思い出した。自分が父に散々迷惑をかけたのだと告白すると、その顔に笑みを浮かべて、前歯がない事を何も気にしていなかったあの様を思い出す。


 ――なら、今頑張って、親父さんに立派な姿、見せてやらないとな。


 本当に、そう思う。


「親父、その」

 

 言いかけた時、ヤカンが音を鳴らした。


 父は立ち上がって、布巾を使って持ち手を持つ。そして、自分の塩ラーメンに、先に湯を入れてくれた。父の分の味噌ラーメンにも、湯を入れる。


 お互い、作業台の横に並んだ椅子に座って、カップ麺が出来上がるまでの時間を、共に過ごす。


「今の俺の事、さ」

「……ああ」

「どう、思ってる?」


 父は、首を動かして自分を見た。

 じ、と自分を見た後、疲れたその顔に、ふ、と柔らかな笑みを浮かべた。


「うれしいよ、和樹」


 親父は、確かにそう言ってくれた。


「お前が、夢を見つけてくれて、しかも、バイクの整備士という仕事は、人の命を守る物だろう。誇らしいよ、本当に」


 父が、疲れているのは分かっていた。繕うほどの元気が、今の父にはないのだろう。

 でも、だからこそ、こうして、迷惑ばかりかけていた出来損ないの息子に、優しい言葉を掛けてくれたのだ。


「……俺、悪さばっかりだったから、会社継げないのに?」

「それくらい。お前が気にする事じゃない」

「彰兄ちゃんにも面倒かけたのに。伊吹よりも、出来が悪いのに」

「彰には、私もちゃんと謝った。それに、伊吹は伊吹で、お前はお前だ」


 父は、箸を自分に手渡した。

 それを受け取って、塩ラーメンの蓋を開ける。カップ麺は、すっかりと出来上がっていた。


「整備士の学校、通ってもいいんだぞ。実務経験だけじゃ、夢が叶うのは時間がかかるだろう」

「いいよ。親父」


 自分は、首を振った。


「今働かせてもらってる工場でもさ、色々仕事任せてもらってるし、俺にまた金掛けると、うるさい奴らがいるだろ」 


 出来損ないの自分に金をかけるくらいなら、自分たちに金をくれ、と言ってくる様な、親族が。


「周りからも色々と教えてもらってるから、大丈夫だよ、親父」

「……すまないな、和樹」

「いいんだよ。……いいんだよ、親父」


 いつか。

 自分が整備したバイクで、父を後ろに乗せて、思い切り走りたい。


 出来損ないでも、愛してくれた父の為に、立派になりたい。


 自分よりも立派な腹違いの弟は、どうせ父の事なんかもう忘れている。自分が、父の側にいなくては。自分が、父の味方でいなくては。


 唯一、味方でいてくれた、父の為に。


 啜る塩ラーメンは、しょっぱかった。

 でも、自分はその味を噛み締めながら、父と並んで夜食のカップ麺をすする。父の味噌ラーメンも随分としょっぱそうだったのは、きっと、気のせいだ。

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