知らない女が、死んだ俺の彼女だった。

hiziking

前編 花音と小百合

 普通の人は、いくつかの恋愛を経験するらしい。

 新しい女の子を愛すれば、愛するほど、昔の女の子は記憶の彼方に消し去られていくと――


「陽くん!陽くん!陽くん…」


 親しげに俺をニックネームで呼ぶ、全く見覚えのない女の子が唇を近づけてきた。

 冬の、部活が遅くなった帰り道のことだった。

 坊主頭の同級生と、一個前の交差点で別れを告げて、一人でトボトボ、スマホを見ながら帰っていた。

 雪が積もり始めている歩道橋の階段に足をかけ、安全に上るため、スマホから目をそらすと、俺は気づく。


 歩道橋を登り切った先に女の子が、短く整えられた髪をたなびかせ、味噌カフェオレなんていうニッチな缶ジュースを飲んでいることに。


「まだかなぁ…」


 と独り言をしている女の子に俺は、あの子――滝原花音たきはらかのんを重ねていた。花音は、俺の恋人で、つい先月までこんな風に、まずいカフェオレをお供に、この歩道橋で待ってくれていた。

 ただ花音の葬式は、先週行われていた。帰宅中にバイクではねられ、即死だったらしい。

 それでも俺は、家に帰るだけなら、行く必要のない歩道橋にわざわざ毎日通っている。そこに、花音が待ってるんじゃないかって思って。


「あっ………!もしかして、陽くん?」

「………っ!」


 けど実際に居たのは、花音が好きだったカフェオレを片手に、慣れ親しんだニックネームで俺のことを呼ぶ、見覚えのない女の子。その子は、階段を上り切った俺に、気付いたようだった。

 俺のことを、古賀太陽こがたいようって名前からもじって、陽くんって呼ぶ奴も、あんなくそ不味い味噌カフェオレを好き好んで飲む奴もこの世に一人しかいないはずなのに。

 花音だけの特権をその子は行使しているように感じられた。


「君は一体…?」

「やっぱり陽くんだっ!!」


 俺の質問が、空を切り、見覚えのない女の子は、懐に飛び込んできた。俺に抱き着く彼女の体は、何がとは言わないが、柔らかかった花音と異なり、引き締まり、張りを感じさせる。


「私だよ、花音だよ!」

「………花音」


 花音という言葉が俺の脳内で繰り返されていた。記憶の中の花音は、長い髪の毛がふわりとカーブし、目尻の下がった優しい瞳をしていた。しかし、目の前にいる女の子は、短く整えられた髪型に、滑らかな切れ長の目をしている。


「陽くん!陽くん!陽くん…」


 俺に包まれていた彼女は、唇をそっと近づける。彼女の吐息が顔にかかり、緊張しているのか、荒い呼吸音がすぐそこにまで聞こえてきた。有無を言わせないこの態度に、いつも俺を引っ張ってくれていた花音を思い出す。


 あれはひどい夢だったんだ…そうだよ、顔も体格も違うけど、この子は花音なんだ。花音が死ぬわけ…死ぬわけ――

 そんなあまりにも甘く、醜い考えが脳裏をよぎるが、


「やめろっ!」

「っ………陽くん…」


 俺は、胸の中にいた女の子を引きはがす。

 俺をいつも追いかけてくれた瞳は、虚空を見つめる。俺を温めてくれた肌は、冷たさしか伝えない。あんな経験が夢なわけない。


「ふざけるなっ…!何の冗談だっ!」

「陽くん、ちがっ…私は…」

「何が違う!?花音のマネして、楽しいか?俺を弄ぶのが、そんなに楽しいか…?」


 震える声を必死に抑えて、目の前の女の子…いや、女を拒絶した。怒りのこもった言葉がつらつら出てくる。

 いつもなら、どれだけ変な女の子でも、初対面で罵倒なんてしない。けど今回だけは、我慢しなかった。一生癒えない花音という傷を抉られたから。


「マネなんかじゃないよ!陽くん私は…」


 …そう語る女は、裾を感情に任せて、握りこむ。そんな仕草に、また花音を思い出した。ただ花音を思い起こせば、起こすほど、花音に対して、何もできなかった無力感と花音を演じるこの子に対して、怒りが湧いてくる。


「だからっ……あぁっ、もういい…」


 だから俺は、逃げ出した。

 降り続ける雪をかき分けるように、彼女の横を通り過ぎ、階段を全速力で駆け降りる。


「陽くんっ…!待って!」


 後ろから聞こえてくる震えるような声に、後ろ髪を引かれながらも、俺は部活で疲労しきった脚を全力で動かした――





「うぃっす、太陽」

「………はっ?」


 翌日、登校してきた俺だったが、開口一番、間抜けな疑問符が飛び出した。いつものテキトーな挨拶をしてくるクラスメイトにではなく、その隣でこちらを睨みつけてくる、制服を着た昨日の女に対して。


「こちらさんは?」

「ん?お前に会いに来たって聞いてるぞ。それ以外は知らん。」

「ごめんね、ちょっと…話があるんだけど、いいかな!太陽くんを待ってたの」


 そう語る女からは、言葉とは裏腹に、謝罪の意思なんて、一つも感じられず、敵意をむき出しにしていた。

 俺は、女に苛立ちと違和感を覚える。

 苛立ちを覚えたのは、昨日、向こうが最低なマネをしてきたくせに、敵意を露わにし、こちらを睨んできていたから。

 そして違和感を覚えたのは、昨日のこいつ――まるで花音みたいだったこいつと比べて、今日は、全く花音を感じさせなかったからだ。


「(太陽、いつの間にこんなべっぴんさんと、お知り合いになったんだよ!)」

「(えーっと、昨日)」

「(昨日!?お前すごいな、俺にも紹介してくれよ!)」

「(お前、見る目ないのな…こいつはやめとけ)」

「(なんで?)」

「(えっと…自分で考えろ)」


 こいつの正体を知らない、女好きのクラスメイトがひそひそと話しかけてくるが、説明するのも面倒なので、話を無理やり切り上げる。


「悪い、ちょっと行ってくるわ。」

「チャイムまでには戻ってこいよ。」

「ごめん、ちょっと借りてくね。」

「おう、小百合こゆりちゃん全然大丈夫だから。」


 俺以外には好意的な、小百合こゆりと呼ばれるこいつを尻目に、先に教室を出る。そんな態度に女の目つきは更に鋭くなり、俺を追いかけてきた。


 俺とこの女、二人で、教室を抜けると、

 

「あのさ…あれって…」

「あぁ、太陽…もう立ち直ったのかな?」

「どうだろう、俺は、花音ちゃんのことまだ引きずってるって思ってたけど…」


 教室内が少しざわついた気がした。





「何をしに来た、小百合さん。お前はいったい何者なんだ。どこで花音と知り合った。」


 教室を抜けて、人気のない廊下まで歩いてきた俺は、振り返り、乱暴にいくつも質問を女に投げかけた。


「あんた、昨日とは違って、私の話聞く気になったんだ…」


 しかし、女は、乱暴な質問を意に介さず、怒りが籠った語気のまま、小馬鹿にしたような顔で挑発してくる。「私」という意味の分からない言葉を用いながら。


「たち?お前は何を言ってるんだ?というか俺の質問に答えろ。」

「女の子に対して、そんな言い方するんだ。お里が知れるね。」

「はぐらかすな。」

「昨日もそうだったもんね。」


 俺が強気に出れば、向こうはわざとイラつかせるように言葉を選び、昨日の俺の態度を糾弾してきた。

 どうして、俺が責められなければならないんだよ。お前が花音のことを嫌な形で掘り返すから…そんな思いが俺の中を埋め尽くす。


「昨日は…お前があんなマネしたからだろっ!」

「そうやって、花音を傷つけたんだ。」


 俺が、声を荒げると、目の前の女…の子は、さっきまでの怒りの表情に加えて、涙を抱えていた。


「俺が傷つけたのは…花音じゃない。」


 俺は、彼女の涙を見て、語気が弱まるが、それでもこいつのやったことは許せないから、責める姿勢は緩めないようにする。

 彼女は、涙がこぼれるとは思っていなかったのか、少し恥ずかしそうに、涙を拭くと、挑発するような笑顔に戻した。


「初デートは、ナミシマ水族館だったらしいね」


 すると、意味の分からない言葉が、彼女から飛び出す。いや正確には、身に覚えのある意味の分からない言葉。


「その日、花音、眠れなかったらしいけど、あんたも充血した目でやって来た時、似た者同士なのが、おかしくてつい笑っちゃったって、嬉しそうに語ってた。」

「っ………」


 遠い昔、ナミシマ水族館で、俺たちは何の変哲もない一般的な初デートをしたんだ。


「途中で買ったおそろいのジンベエザメのキーホルダーは一生の宝物らしいね。おそろいだなんて、テンプレート過ぎて、聞いてるこっちが恥ずかしかったよ」

「なんで…」


 彼女の語る内容は、花音と俺だけがもっているはずの記憶だった。確かにその日は、寝不足で花音に笑われたし、水族館で買ったおそろいのキーホルダーは、今でも俺のカバンについている。

 けど、俺はこんな花音との思い出を、周りに話したことは一度もない。こんなうぶな初デートなんて恥ずかしいし、花音と俺だけの思い出にしたかったから。

 ――どうしてこいつが知っているんだ?昨日知り合ったばかりのこいつが知るはずないのに………

 

「ここまで言ったから、もうネタバレするけど、昨日の私は、花音だったんだ。」

「はっ…?」


 俺の抱いた疑問は、彼女の方から、答え合わせされた。ただ言ってる意味がこれまた分からないから、答え合わせになっておらず、俺は眉をしかめる。


「昨日、私には花音が乗り移ってたんだ。」

「乗り移ってた?」

 

 意外と察しのいい彼女は、分かっていなさそうな俺の表情から答え合わせの解説をし始めた。


「そう私、昔から幽霊が見えたり、幽霊にとりつかれちゃう体質なんだけど、昨日の夜、花音の霊をおろしてたんだ。」

「そんなバカなことが…」


 幽霊だなんだと、言っていることが信じられない俺を無視して、彼女は言葉をつづける。


「歩道橋で初めて花音と出会った時は、いつもみたいに祓ってやろうと思ったんだけど。幽霊なのに、てちてち小動物みたいにこっち寄ってきて。」

「………」

「『わたしが見えるんですか』って、あんな可愛い顔面に上目遣いで言われちゃった。そんなの話、聞かざるを得なくない?あんたの彼女、可愛すぎない?」

「そ、それは…」


 彼女の語る幽霊うんぬんについては、いささかも信頼できるものではないと思った。ただ、幽霊になった花音の様子についてだけは、実際に見ていなくとも、想像できるぐらい、花音らしかった。


「だから、花音にお願いがあるって、言われた時は、私も協力してあげたいって思った。花音が、大好きな彼氏に会うためなら、私の体を貸すくらいならしていいって思った。」

「あっ………」


 俺は、そこまで言われて、やっと彼女、小百合が俺を責めていた理由を理解する。


「でもさ…花音の霊体が体から出てったって気づいた時、私…いや正確には私の体は泣いてた………すぐにわかったよ。花音が泣いてたんだってね」

「………」


 初めて小百合とあった時とは異なり、俺は言葉をすぐには出せなかった。


「花音は、私に何も言おうとしなかったけど、私の体に残ってた悲しみは、伝わってきた。だから私、あんたに文句の一つでも言ってやるっていったら、花音なんて言ったと思う?」

「それは………」

「私が悪かった。生きてる陽くんにとって、私は邪魔にしかならないから、忘れさせてあげるべきなんだって言ってた。」


 死してなおも、俺のこと思ってくれる花音。そんな彼女に俺は昨日、最低な態度をとってしまったことに気付き、俺は呼吸が一気に苦しくなるのを感じた。


 俺は花音に何をしてるんだ………


 でも………でもさ、花音。少しぐらいは説明してくれよ。俺そんなに察しのいい彼氏じゃないんだぞ。いきなり知らないやつにキスを迫られて、断らないほど、ちゃらんぽらんじゃないんだぞ――


「確かに、調子に乗って、いきなりキ………キスなんてしようとするあの子もあの子だと思うよ。でもさ、あんな可愛い彼女にこんなこと言わせるなんて、ちょっと…ひどくない?」

「………」


 俺も、恥ずかしそうにキスを言いよどんでいた目の前の彼女も、最初のいがみ合いとは様相が変わり、沈黙が続きがちになる。

 そんな中、予鈴がなった。


「じゃ、私の伝えたかったことは以上だから。私の言ったことが嘘だって思うなら自由にして」


 そう言い放った彼女は、踵を返して、教室に帰ろうとするが、もう一度こちらを振り向きなおしたと思うと、


「少しでも気になるなら、信じてくれるなら、今日の放課後、昨日と同じ時間にあの歩道橋に来て。花音が待ってるから。」


 俺にとって、一番都合のいい提案をしてきてくれた。


「お前…」

「お前じゃない、私は、福島ふくしま小百合こゆり。以後よろしく。」


 改めて、名乗った彼女は今度こそ、振り返ることなく、教室に帰っていった。





「…花音であってるか?」


 俺は、恐る恐る、暗くなった歩道橋の上でカフェオレを抱えて待っていた"彼女"に声をかけた。


「………」


 目の前にいる女の子は、小百合のはずなのに、我ながら意味の分からないことを言ってるなと思うが、それでも真剣に"彼女"から目をそらさない。昨日のことがあったから。…目をそらし、逃げてしまったから。


「…花音なのか?」


 もう一度、俺は"彼女"に対して問いかけた。すると…


「ごめん、太陽。まだ私…」


 恥ずかしそうに、小百合が苦笑いをこちらに向けてきた。


「あぁああ…何なんだよ…お前…」

「えっと…その…ほんとごめん…」

「お前さ…あの言い方だと、居るの花音だと思うだろ…喧嘩打ってる?」

「ほんと…ごめん。アンタの真剣そうなあの態度は忘れるよ。今から、花音を下すから、ちょっと待ってて」

「ちゃんと忘れてくれよ………」


 俺の花音に対する真剣さを目の当たりにし、共感性羞恥でも感じたのか、耳を少し赤くする小百合。そんな彼女が、俺に背を向けたと思った瞬間、冬の暗闇の中で、うっすらと光が小百合の体に重なった気がした。


「小百合…?」

「………」

「もしかして…花音か?」


 背を向ける"彼女"は微動だにせず、動きや態度が判断基準である俺にとって、彼女が小百合なのか、花音なのか分からない。


「ごめんね。陽くん…」

「っ………!」


 しかしこちらを振り返った"彼女"の、眉をひそめる申し訳そうな顔と、裾を握りこむ動作に俺は止まれなかった。瞬間、彼女に詰め寄ると


「俺の方こそ、ごめん!あんなことしてごめん!会いたかった…会いたかったんだ…」


 俺は、目の前の女の子を力いっぱい抱きしめた。


「あぁ…そうなんだよ。私、あなたにこうしてほしかった…」


 抱きしめられた"花音"は、それに応じて、抱き返してくれた。


「ごめん…花音。俺もこうしたかった…こうしたかったはずなのに…」

「謝らないでよ、陽くん。私が悪かったんだよ………私が、すぐ…あなたを求めようとする、我儘な子だったから…」


 後悔の言葉を吐く俺に対して、花音は、声を震わせながら、自分を責める。


「違うんだ。…俺が駄目だった………前みたいに花音を理解する彼氏になれなかったんだ。」


 言葉も涙も止まらなかった。


「だって、俺…あんな…あんな別れ方して…正気じゃいられなくって…。花音が、花音が…」

「ごめんなさい………ごめ…んなさい………」


 謝り続ける彼女の表情は強く抱きしめ合ってるせいで分からなかったが、彼女の顔があるだろう俺の左肩に水が数滴、零れた気がする。


「花音が居なくなって、俺ずっと君を求めてた…寂しかった、寂しかったんだ…」

「陽くん…ようくぅん…」


 感情を吐露しあう俺たちは、ずっと抱き合っていた。それこそ冬の厳しい寒さが指先の感覚を奪ってしまうほど、長い間。けど不思議と俺は、寒さも痛みも感じない。だってこんなにも心が温かかったから。


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