第6話アヴェーン

翌朝、ニキタ・アヴェーン少佐は、水星司令本部の執務室にて事務処理にいそしんでいた。ただでさえ人手不足の中やるべきことは数多い。船賊対策の立案、人事の決定、地球本国への報告書。これらの内には作戦参謀の職分ではないものも多く含まれたが、彼の卓越した処理能力ゆえにいつのまにか任されるようになっていた。また彼には公式の仕事以外にも頭脳を出力すべき事柄があった。

「アヴェーン少佐、司令官閣下がおよびです」

 年若い兵卒の声がした。ヴィクトル中将付きの侍従である。声の方に視線を送ると、いまだ少年といっても差し支えない彼は、必死で直立不動の体勢を維持していた。どうやらニキタに緊張しているらしい。

「わかった」

 ニキタは端的に返答すると立ち上がる。侍従に見送られながら、司令官の執務室に向かった。

「おおよくきたな」

 ヴィクトル中将は鷹揚にうなずいた。ニキタは静かに一礼した。

「水星人の軍事訓練の件はうまく進んでいるか?」

「はい、閣下、滞りなく進んでおります」

 すべてひと任せにしておいて、面の皮の厚い男だとニキタは思った。しかし彼はこの上官が嫌いではなかった。その好意は、御しやすく傀儡とするのに最適だという理由からだったが。

「しかし、地球に反旗を翻してそううまくいくだろうか」

 ヴィクトルは不安げにつぶやいた。それは数か月まえ、ニキタが彼に提案したことであった。水星を地球から独立させ、ヴィクトル自身は水星にて王になればよいというものだった。そして昨夜ボリスが語ったのとほぼ同じ戦略案を提示した。最初はけげんそうにしていたヴィクトルも話を聞いていくうちにどんどん乗り気になっていった。いやニキタが乗せたといった方が適切だろう。水星駐留軍司令官は僻地にあるのも相まって、本国で司令長官や参謀総長になれなかったものの左遷職のように位置づけられていた。士官大学校での成績もよく任務も大過なくこなしてきたヴィクトルにとって水星行きは大きな屈辱だったらしい。本国の同僚たちを嫉妬し逆恨みしていた。そんな子供のような精神性でよく中将などという高位につけたものだとニキタは思ったが、同時に人間の本性などその隠し方の上手下手はあるにせよ年を経ても大きく変わらないものかもしれないとも思った。いずれにせよ都合がよかった。ニキタのやるべきことはその憎悪をあおって判断力を曇らせることだけだった。小物のヴィクトルは普段であればそんな危ない橋を渡らなかっただろう。しかしプライドを深く傷つけられた彼は、その傷の埋め合わせを求めていた。そこに甘い空想を献上した。王という誰の指図もうけない身分、彼を僻地に追いやった同僚たちの愕然とした表情、水星独立の指導者として青史にその名を刻まれること。ヴィクトルは夢中になった。そんな彼を操ることはニキタにとって児戯に等しいことである。こうして傀儡に成り下がった上官を表向きは尊重しつつ、その実、思うが儘に動くよう誘導した。水星人の軍事訓練もその一環だった。叛乱のおそれがある地球人の兵卒の穴埋めとして民間の水星人を使うよう献言したのだ。

「閣下、もはや引き返すことなど不可能でございます」

 この辺りがこの男の限界かとニキタが思った。所詮、個人的な復讐に目がくらんでいただけの小人物である。実行の時が近づけば、恐怖に駆られることなどわかりきっていた。しかし最後にやっておくべきことがある。

「閣下、万全を期すためにいまひとつやるべきことがございます」

「なんだ」

「ウラジミール・アシモフの処刑です」

 ヴィクトルはその名を思い出すのに数十秒要した。

「ああ、小うるさい水星人の活動家か。やつがどうした」

「彼は彼で叛乱をたくらんでいる形跡がございます」

「なんだと」

声色が変わった。少なからず驚いたらしい。

「やっかいなことになる前に処断すべきかと」

「そうだな」

 アヴェーンは上官がいつも通り従順なことに安心した。

「そしてエフレーモフ大佐に密命を下せばよいでしょう」

「なぜあいつなのだ」

 ヴィクトルはウラジミールとボリスの友情など知る由もない。

「エフレーモフ大佐は地球人士官の中では人望も厚くなおかつ実力も兼ね備えております。地球への叛乱の際にかならず障壁となります。そんな彼の独断で水星人に人望があるウラジミール・アシモフの処刑を行ったということにして、憎悪を集めて処断します。そうすれば閣下への水星人からの支持も集められて、なおかつ邪魔者を消すことができます」

「悪辣だな。しかしお前言う通りだ。そうしよう」

 「悪辣」という言葉をニキタは噛み締めた。それは地球人たちの水星に対する処遇にこそ向けられるべき言葉ではないのか。幼少期の記憶が巡る。父の怒声、母のすすり泣く声、自らの皮膚の焼けるにおい。彼はとっくに癒えたはずの背中の傷がうずくのを感じた。悪辣さにはそれ以上の悪辣さをもって報いる、それのなにが悪いというのだ。

「では私はこれにて失礼いたします」

 ニキタは入ってきたときと同じく静かに一礼して、部屋を後にした。そしてその足でボリスのもとへと向かった。彼は自らの艦群の訓練を終えて、地上に戻ってきたばかりだった。

「ヴィクトル中将は自らの処刑命令書にサインしました。アシモフ先生の抹殺を決定したのです」

「なんだと、本当か」

「まもなく大佐殿に密命がくだされるでしょう」

 ニキタは昨日語った策略のあらましを再び説明する。

「アシモフ先生の信奉者たちにこのことを知らせれば、必ずや激怒します。それを利用すて叛乱に参加させるのです。とくに陸戦連隊のアントーノフ大佐とヴァシレフスキー大佐です。彼らの掌握する陸戦部隊をもって各所を制圧するのです」

叛乱は急激に現実味を帯びてきた。ニキタが知らせたときには半信半疑だったアントーノフとヴァシレフスキーもまもなく密命を受けたボリスが同じことを告げると猛り狂った。ボリスの勇名と誠実な人柄は陸戦部隊にも知れ渡っていた。アントーノフは、その性情の激しさから「雷雨」の異名をもって知られる男である。ヴィクトルの姦計を知ると「能無しめ、その首へし折ってアシモフ先生に詫びさせてやる」と吐き捨てた。ヴァシレフスキーもまた厳しげな顔をしていた。彼は戦場においては勇敢さをもってその名を知られたが、同時に文芸をたしなむという意外な趣味を持っていた。それゆえにウラジミールへの尊敬はただなるものがある。この二人の連隊長は即座に叛逆への同調を誓い、ニキタの説明する制圧計画に耳を傾けた。

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