第4話ふたりの邂逅
そのころはちょうどアンドレイと仲良くなりはじめた時期だった。金星から赴任して二か月ほどで水星人のことを詳しく知らなかった。本国では水星人は知的水準において地球人に劣るという研究結果が喧伝され、過酷な労働も暗愚な彼らに対して食い扶持を与えてやっている程度の認識であった。英邁なボリスはこのような見方に対して懐疑的だった。かのデイヴィスは二つのタンパク質を導入しただけで、水星人の知的能力に干渉したという記述はいかなる文献にもみられない。人間の精神は、自らが不当に他者を虐げているとの認識に耐えうるほど強靭にできてはいない。人々は都合の良い見解にのみ耳を傾けて、罪の意識にさいなまれることを回避しているのではないか。そのような疑問は水星に赴任して、さらに深まった。副官であるアンドレイをはじめとして数多くの水星人と交わったが、彼らの中には暗愚なものもいれば聡明なものもいた。悪人もいれば善人もいた。そのような種々雑多なさまは地球でみたそれと一切変わりない。彼は自身の疑問を確かめたいと思った。耳目をふさがれた精神的奴隷でいることなど彼にとっては許容しうるものではないのだ。そこでアンドレイに市井の水星人と交流できる場所に連れて行ってくれと頼んだ。彼は当惑した。そのようなことを言い出す地球人士官はボリスが初めてだったようだ。しかしボリスが悪意を持ってそのようなことを言っていないことはそれまでの付き合いでわかってもらえたらしい。アンドレイは戸惑いながらも彼を違法な飲み屋蟋蟀亭へといざなった。水星人による商売は、その職業選択の自由を制限する異星人統治法の二条で厳しく禁止するところだった。しかし水星ではその存在は公然の秘密であり、統治者である地球人たちも見て見ぬふりをしていた。それどころか安全を保障するかわりにみかじめ料をとるものまであったとされる。
アンドレイとともに初めて訪れた蟋蟀亭は薄暗く、いかにもその存在が秘匿されるべきものであると主張しているかのようであった。仄かな灯りに照らされて、鋭く光る目がいくつもこちらに向けられた。そこにはたしかな敵意をたたえていた。「なんだって地球人が……」、「見世物小屋に来たつもりか」、そんな声がかすかに聞こえてきた。席に座って注文するが店主すらいぶかしげにこちらを睨んできた。
「すみません、大佐、こんなところに連れてきてしまって」
「いやいい、俺が頼んだのだからな」
そんなやり取りをはばかりながら行った。ボリスは軽い気持ちで訪れたことを後悔し始めていた。地球人と水星人の深い溝は、実際目にしなければわからないものであった。自分たちは強く憎まれている。そのことはこれまで行ってきた圧政を鑑みれば、当然のことであり彼ら水星人のせいではない。自分が興味本位できていい場所ではなかった。そう思って退席しようと立ち上がったその時だった。
「みんな、やめないか。地球人と水星人の間にどれほどの違いがあるというだろうか」
よどんだ排他的な空気に耐えかねたように声をあげた男がいた。すると別の年老いた酔客がその男に反駁する。
「しかし、アシモフ先生、そいつら地球人がわしらをどんな目にあわせたか知らんわけではなかろう」
「ああ、十二分に知っている。私はそのことを誰よりも強く憎んでいるつもりだ。しかしだからといって我々が地球人を虐げていいということはない」
優美な見た目に似合わず、激しい調子だった。そして続ける。
「私は、地球人と水星人がともに手を取り合って暮らせるような世界のみに価値を感じる。その地球人は少なくともアンドレイが信頼してつれてきた客人だ。水星人を不当に蔑むような真似はしないだろう。そうである以上私も彼を歓迎する」
それはまぎれもなく理想であった。誰もが夢見るが、気恥ずかしくて口にするのもはばかるような類のものであった。しかし眼前に立つこの若者は、一点の疑念も抱かず信じきっている。冷笑を買うことも偏執だとそしられることも恐れていない。その敬虔さは、相対するものの考えを彼と同質に染め上げてしまうような力すら持っていた。古来より、信念によって他者を動かすものの第一条件は、自分自身がその信念が正しいと確信している点にある。この若者はそれを十分すぎるほど備えていた。ボリスは周囲を見渡す。蟋蟀亭は静寂に支配されていた。彼は、自分と同じ感銘をここにいる誰もが受けていることを悟った。そしてしばらくすると、かの老人はおもむろにボリスに近づいてきた。
「アシモフ先生、わしが間違っていた。地球の御仁よ、許してくれ」
かの老人はそういうと、ボリスに右手を差し出す。
「大丈夫です。私も突然押しかけてぶしつけでした」
彼も老人の好意に応えた。堅い握手を二人は交わす。
「なにここにいる連中はみんなぶしつけさ」
老人は呵呵と笑った。その磊落さにボリスは好感を覚える。二人の和解を満足げに眺めていたウラジミールが元の優しい調子で発言した。
「さあ、みんな、地球人と水星人の友誼に乾杯しようじゃないか」
一同がグラスを掲げ、「出会いを祝して」と声を上げる。その場にここちよい一体感が充満する。ふたつの惑星が長年の確執を忘れて手を取り合って生きていける、そんな理想郷の到来を誰もが信じていた。
そのあとおおくのことを語らった。ウラジミール・アシモフは幼年学校の教師であり、同時に文筆家であること。「水星における知性と平等について」という名の水星支配を糾弾する論文を書き、多くの水星人から尊崇を集めていること。憲兵に拘束された時も水星人士官一同の助命嘆願によって公職追放も行われず解放されたこと。それらの情報のみを見れば地球にとっての危険人物に他ならなかったが、彼は一見すると人の好い青年でしかなかった。しかしその水星人たちの心酔の度合いをみれば卓越した魅力を認めざるをえない。話すごとにボリスもその魅力に自身が侵されていくのを悟った。新緑の萌芽のようなライトグリーンの瞳にどうしようもなく心惹かれた。
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