それは3月にみる景色

@ihcikuYoK

それは3月にみる景色

***


「えっ、もう決まったの?」

その人は微笑みながら、俺の隣で弁当の風呂敷を開きつつ頷いた。

 音楽室のストーブに当たりながら、それでもなお冷えるので俺たちは各々手に息を吐きあてていた。


 窓の外では、まだ寒いというのにマフラーや防寒着を纏った生徒が中庭に数人ずつポツポツと固まり、各々弁当だのパンだのを取り出していた。いつも通りの風景だが、3年が受験シーズンに入ったため、人の影は明らかに減っていた。

 学年は違うものの、俺たちも昼はできるだけ一緒に食べることにしていた。

 彼女と共に学校で過ごせる時間なんて、せいぜい昼時くらいなのだ。それももうあと何回あるだろう。つくづく貴重な時間だった。


 周りに遠慮してか声を潜めて報告してくれたのに、

「~~っおめでとー! さっすがチサちゃん!」

とデカめの声で言ってしまい、俺は慌てて口を押さえた。

 窓の外を見やるが、幸い聞こえてはいなさそうだ。ありがとう、と目を細めて彼女は照れ笑いをした。

「推薦だったから、実技と面接が主だったの。試験はちょびっとですんじゃった」

 第1志望の音大に受かったのだ。彼女の努力が実ってよかった、と心から思う。

 試験翌日の昼時に会ったときは、

『緊張はしたけどおおむねいつも通りできたと思う、これで落ちるなら仕方ない』

いつも通り優しい顔で微笑みながらも、どこか侍を思わせる潔いことを言っていた。


 畑違いすぎて演奏の善し悪しなど俺にはなにもわからないが、楽器に触れているときのチサちゃんは別人のように凛々しくてカッコいい。

 自分のときは、そういったミーハー心で声をかけてくる人のことを、いっそ迷惑にすら思っていたのに。なのに逆の立場になってみると、人の横顔というのはこうも綺麗なものなのかと、あっさり心を奪われた自分が恥ずかしかった。

 たぶん俺は心のどこかで、自分のことを特別な人間だと勘違いしていたのだ。まともに話したこともない人の横顔に惚れてしまうような、どこにでもいるミーハーのひとりであったのに。


 弁当の蓋を開けると、あっ、と嬉しそうな声を上げた。

「ユウくんの好きなたまごやきあるよ。いっこ食べる?」

「いいの? やった」

 くださーいと身を寄せると、慌てて周りをきょろきょろと確認したのち、意を決したように箸を掴んだが結局「、どうぞー」と弁当箱ごと差し出してくれた。礼を述べつつ、ありがたく自分の箸でつまみ上げた。


 慎ましやかなチサちゃんは、「はい、あーん」がどうしてもできない。

 どうせ誰も見ていやしないのに、恥ずかしくて無理らしい。試しに『飼ってる犬にご褒美あげたりしないの? あーんなんてそれと同じじゃない?』と嘯いてみたが、『ユウくんは人でしょう?』と赤くなり首を振った。

 ちぇーと内心舌打ちしつつ、でもそういうとこがいいよねと思う。出汁の効いた上品なたまごやきを咀嚼する。美味しい。


 ひとつ年上の彼女、チサちゃんはおだやかな笑顔の似合う可愛らしい人である。

 暗い茶髪に染められた髪は艶やかで、にこやかなその人にいつも天使の輪をつくっていた。たぶん天使なんだと思う。


 彼女は”おっとり”とか”ゆったり”とか、とかくまぁそういった言葉の似合う人で、ここらでは珍しい、ちょっとハイソな住宅街にあるお洒落な洋館に住み、アニメでしか見たことのないイカした大型洋犬を何匹も飼っている。

 ご先祖はなんとか財閥の偉い人で、お父さんはなんとか銀行の偉い人、そしてお母さんはなんとかという美容の会社をしているそうだ。そしてそんなおうちに生まれた双子の妹のチサちゃんは、なぜこんな普通の学校に通っているのか甚だ疑問な、なかなかのお嬢様なのであった。


 ただ、本人はそう思われるのがあまり好きじゃないらしく、クラスメイトにイジられても「そんなことないよー……」と言って、ちょっと困ったような顔をするのだった。

 しかしそうはいっても、彼女の膝にある配色の美しい弁当の作者とて、それは彼女の母親じゃなくお手伝いさんなる人の手によるもので、これまでそんな知り合いがいなかった俺は、口には出さないもののまぁまぁビックリしたのであった。


「森本にね、ユウくんが美味しいって言ってたこと伝えたら嬉しそうにしてたよ」

 チサちゃんの家には、お手伝いさん何人もいる。森本さんは厨房担当の人だ。

 誰にでも丁寧な彼女が、彼らのことだけ当たり前な顔をして呼び捨てにする姿はなんだかちぐはぐだ。

「俺、森本さんは天才だと思うなー。都会に『一見さんお断り!』みたいなカッコいい店とか開けそうじゃない?」

「ふふ、伝えとくね。また喜びそう」

 でもそうだよね、森本のお弁当はいつも美味しい、とチサちゃんは鶏そぼろに箸を進めた。弁当に入っているのは、食の細い彼女の好物ばかりである。


 その隣で早々に弁当を食べ終えた俺は、持ってきたコンビニ袋からパンを2つ取り出した。

 最初の頃はチサちゃんも目を丸くし、「男の子ってほんとによく食べるんだねぇ?」と感心したような声を上げていたが、いまやずいぶんと慣れたもので「今日はなんのパンにしたの?」と小首を傾げた。

 今日はデッカいメロンパンとデッカいコッペパンでーす、と軽く掲げ、かぶりついてみせた。


 いまでも一人前をはるかに超える量を持たされているが、弁当だけではぜんぜん足りない。

 母は『お母さんこれ以上早く起きられないかもー、足りないぶんはなにか買って食べてー』と、弁当とは別に小遣いもくれるようになった。父もよく、会社帰りに理由もなく『なんだか美味しそうだったから』と気まぐれに食べ物を買ってきてくれる。

 俺と共に、食べるよう促される姉は『うぅ……、また太る……』と、恨めしげに零しながらも結局食べる。『分けて食べて』と言われると、断れない人なのだ。


 野球部の頃はまだ、朝早いし、体力がいるから云々と色々と言い訳ができたものだが、辞めてからも同じだけ食べておりなんだか申し訳なかった。

 そう零すとチサちゃんは例のごとくおだやかに微笑み、

『ユウくんのお父さんもお母さんも、ユウくんが野球を頑張ってたからお小遣いをくれてたわけじゃないでしょう? いつでも、おなかいっぱい食べてほしいだけだと思うなー』

と言った。


 ふと嫌な予感がした。

「、もしかしてもう学校来ない?」

 3年の出席はまばらだ。受験勉強は家の方が捗るという人もいるし、受かった人間は特に、これから受験に挑む者の気持ちを焦らせるからと、遊ぶくらいなら来るなと言われている。

 だがチサちゃんは首を振った。

「? 来るよー。ごはん食べたら帰るかもしれないけど」

ユウくんとお昼ごはん食べたいから、と微笑んだ。眩しすぎて後光が差している気がする。


「そうだ、ユウくんも来年受験でしょう? なにかわからないとこあったら言ってね、教えてあげる」

「そんなの最高じゃん……」

 だが、チサちゃんと俺とで果たして勉強になるだろうか。

 キャッキャとおしゃべりしている間に、時間なんてさっさと過ぎ去ってしまうような気がしなくもない。それはそれで楽しいので別に構わないが、俺の成績が下がったらチサちゃんは大層気に病むだろう。


「……チサちゃんの行く大学って、県外だったよね?」

「? そうだよー」

「引っ越しとか……」

「うん、するよー。ここからだと電車で3時間かかっちゃうから」

私、ひとり暮らしってはじめて。たのしみ、と本当に嬉しそうな顔をした。


 ……そうだよね、そりゃそうだよね、と思う。

 チサちゃんは、ひとり暮らしがしたくて県外への進学を希望していたのだ。


 彼女の父は過保護である。それも、度を越えた。

 高校生の娘の門限が6時、冬場は日が落ちるのが早いからと5時半。遊びに出ていいのは県内まで(とはいえ、門限を守ろうと思ったら市内になってしまう)。家族を伴わない県外への外出経験は、まさかの学校行事だけであった。

 昔はまだマシだったらしいが、彼女の双子の姉が出て行ってから過保護は酷くなる一方だという。


 チサちゃんのお姉さんはハッキリ物を言う人だったそうで、中学生の時、

『やってらんない、もう無理お父さん面倒くさすぎ。私はもうバイバイだから!』

と、あらかじめ根回しをしていた親戚を頼り、海外留学という名の脱出をキメてさっさと出て行ってしまったそうだ。

 いまや日本にすらめったに寄り付かなくなり、時折思い出したかのように現地でエンジョイしている生存報告を寄越すきり。たまに家族で向こうへ様子を見に行っても、『どうせお説教する気なんでしょう?』と逃げ回りまったく捕まらず、顔を合わせる機会もほとんどなくなってしまったそうだ。


 そしてお父さんの有り余る父性は、家に残るチサちゃんへと一心に注がれるようになったのである。


 それってチサちゃん的にどうなの……、と恐る恐る尋ねると、

『最初は、また私ばっかり貧乏くじだ~って思ったよ。

 けど、気持ちはわかるからミサちゃんを恨む気持ちはないかなぁ……。お父さんとお母さんにはさすがにちょっと、そろそろいい加減にしてくれないかなって思うこともあるけど』

私ももう高校生なのにね、と珍しくチサちゃんは呆れたような声で言った。


「それでね、あのね、今度ひとり暮らしする家を探しに行くの」

 彼女は喜ぶと、リンゴのように頬が紅くなる。いまがまさにそれだった。

「お父さんがオートロックだ警備員常駐だなんだって言ってて、そこだけちょっと難航しそうだけど……。もし困ったら、私もミサちゃんを見習ってお祖父ちゃんたちに説得を頼んでみようと思うの」

 その目は未知への憧れに輝いていた。そして、その未知の世界に自分の姿がないことに、俺の胸はじわりと痛んだ。


「――そっか。いいとこ見つかるといいね」

「うん、この際すっごく狭くてもボロボロでもいいの」

心から思っていそうで、思わず心の声が漏れた。

「ボ、ボロボロはどうかなぁー? 家はゴツい方がいいよ、オートロックだってついてた方が格好いいじゃん……? それに、泥棒とか変質者とか出たら俺でもこわいと思うし……」

「そんな変な人も怖い人も、めったにいないでしょう?」

きっと大丈夫だよ、と笑った。


 頭を抱えそうになった。チサちゃんは箱入りすぎる。

 果たしてこれはお父さんが過保護にしすぎたせいなのか、それとも彼女の世間知らずが先なのか知らないが、変なやつも怖いやつもどこにだっていっぱいいるのである(家から出たことのない俺だってよく知らないがそう聞くし)。

 だがこんなに晴れやかな彼女を前に、それも大学合格なんてめでたい話を聞いた後で、あんまり水を差すようなことは言いたくなかった。

 なんとか俺も、近所の大学に進学できないかなぁと思う。それでも一年遅れになってしまう。その一年でチサちゃんが怖い目に遭いかけたらどうしたらいいんだ、と死にそうな気持ちになった。


 これでは俺も、彼女のお父さんを笑えない。


「あのね、ユウくん」

「? うん」

「……ユウくんの時間があるときでいいんだけど、ちょこっとお祝いとかしてほしいなぁ」

一も二もなく頷いた。

「もちろんもちろん! なにがいい? 行きたいとことか欲しいものとかある? なんでも言って」

自分から言い出したというのに、チサちゃんは「うーん、どうしよ……」と悩んでいた。

 卒業旅行を楽しみに受験勉強の追い込みをかけるクラスメイトたちも、チサちゃんのお父さんの掲げる鉄の門限と移動県内制限の前では無力で、『せめていっぱい写真撮ろ!』と顔を合わせるたび集まって自撮りをしているらしい。

 本当は、友だちと旅行も行ってみたいんだろうなと思った。

 とはいえ、俺とふたり旅はなにをどう頑張っても無理だろう。チサちゃんのお父さんが目から血の涙を零し口から火を噴き、辺り一面を焼け野原にしてしまいそうだった。


 見やると、言いづらそうに俯いていた。

 もしかして、高いものなのだろうかと思った。俺に買ってあげられるものだといいのだが、これまで部活三昧で、ロクにアルバイトもしてこなかったのだ。

 いざとなったら、自転車を飛ばしてばあちゃんちに行ってじいちゃんの肩でも叩いて小遣いをもらおう、と甘すぎる算段を立てていた。


 チサちゃんは悩む姿勢のまま固まっていた。

「? どしたの?」

「……あのね? 家を出られるのはうれしいんだけどね?」

一緒にいられる時間がこれからもっと減っちゃうんだと思って……と消え入りそうな声で言われ、単純な俺の頭は一瞬でお祭騒ぎになりその手を握った。

「、絶対遊びに行くから! 毎週末行く! 通う!!」

「でも電車で3時間かかるんだよ……? もっと近いとこ探せばよかった……」

だが、そうしたら彼女のひとり暮らしは叶わなかっただろう。

「なんてことないよ。俺、これでもけっこう足早いんだよ?」

「っ、走ってくるつもりなの??」

もーユウくんったらー、としばらく目尻を拭っていたが、「住むとこ決まったら一番に知らせるね」と照れながら手を握り返してくれた。


 大学は県外で、ここから電車で3時間。

 移動なんて別にどうでもいい、どうせ乗っているだけなのだから。問題は移動賃である。早いうちにアルバイトを探そうと心に決める。

 生真面目な姉には怒られてしまいそうだが、本当に隠れてバイクの免許でも取っちゃおうかなぁ……と内心思う。


***


 どの物件を見ても、父のしかめっ面はなおらなかった。

「なんでオートロックのマンションがこんなに少ないんだ? やっぱり一軒家に住みなさい」

「やだよぉ……、広いと掃除が大変でしょう? 普通の学生用のマンションとかでいいったら」

森本か誰か連れてくればいいだろう、と父は険しい顔をした。

 あいにく森本は料理担当で掃除は専門外であるし、だいたいそれではひとり暮らしにならない。


 どうしても県外に出たがる私に、父は隣の県の難関音楽大学を勧めてきた。

 落ちる前提で、『受かったらひとり暮らしでもなんでもしなさい』と言った。

 こちらもムキになってしまい、猛勉強して結果無事受かったのだが、自分で言い出した手前『県外なんて駄目だ、ひとり暮らしなんて駄目だ』と言えなくなった父の機嫌は大層悪く、私の新居探しにも始終文句たらたらであった。


 この調子だと、どんな素敵な家を見ても『壁の色が駄目だ』とか『扉の木目が変だ』などと難癖をつけるのではないだろうか。


「だいたい、普通ってなんだ。娘をおかしなところに住まわせられないだろう」

「その娘本人がいいって言ってるのに」

「女の子のひとり暮らしなんてただでさえ危ないことだらけなんだ、家くらいちゃんとしたところを選ばないとダメだ。お前たちは、世の中がどれだけ危ないかわかってない」

 その”たち”に、いまも姉ミサが含まれていることを知っていた。

 お父さんはミサちゃんに避けられ続けて、実は心底落ち込んでいるのだ。ミサちゃんはお父さんっ子だったから余計、突然逃げ出されて訳がわからないとでも思っているのだろう。

「泥棒も変質者も、ああいうやつらはどこからだって入ってくるんだからな」

「……どこからでも入るなら、どんなおうちに住んだって一緒でしょう?」

「屁理屈ばっかり言うようになって」

どっちが、と思ったが口には出さなかった。


 いつぞやの姉の言葉を思い出す。

『お父さん面倒くさすぎ』

 もう本当に、間違いなくそうである。ただ、思い切りの良い姉と違って私は、

『私はもうバイバイだから!』

……とは、いまだにとても言えないと思う。親は面倒くさいが、年単位で逃げ回るなんて自分にはとても考えられない。

 姉は高校進学の体で家を出た。そして、3年経つまで私にその決断はできなかった。双子なのに、ミサちゃんとは全然違うなぁと心から思う。ミサもきっとそう思っていることだろう。


 両親には内緒だが、姉からは時々連絡が来る。

 父母に届く生存報告の延長のようなものだが、主に海外で暮らす姉の外での生活の楽しそうな様子である。これまでの生活の反動が出たのか、スカイダイビングをしてみただとかスキューバダイビングをしてみただとか、見たら父の血管が切れそうな命知らずなアクティビティばかりだ。

 姉は『チサちゃんも早く出ればいいのに。こっちに来たかったら迎えに行くよ』と、暗に告げているのだろう。

 私はそのメッセージにいつも気づかないフリをして、姉や両親の言葉をのらりくらりと躱したり、躱しきれずちょっと怒ったりしながら暮らしている。


「もう少し広い方がいいんじゃないか?」

「そうかなぁ? ひとりじゃ広くても持て余しちゃうよ」

 1LDK、これが父の譲れないラインらしかった。

 ひとりなのにリビングにダイニングって……と思うが、出資者は父なので黙るほかない。それに、広ければ私の大きなユウくんが遊びに来ても、窮屈な思いをさせることはないだろう。


 歩を進めると、リビングに梯子があった。思わず見上げた。なにか空間があるようだった。

「? 登れるんですか?」

 不動産屋の男が、慣れた営業スマイルを向けてきた。父の態度で嫌な思いをしているでしょうに……、と心から申し訳なく思う。

「ロフトになっておりまして、秘密基地のようだとお若い方にも人気です」

わぁそうなんですね、と口から漏れた。

「――ふふ、ユウくん好きそう」

「、誰だユウくんって」


 ――あ。やっちゃった。


 慌てて呆れ笑いを作った。

「もー、お父さんも会ったことあるでしょう? 学校の後輩の、野球部の」

「高倉くんか? あぁなんだ彼のことか」

私たちは、彼が野球を辞めたばかりのころ付き合い始め、そしてすぐに家へと呼んだ。


 理由は単純。坊主頭の方が父のウケがいいから。

 なんとか彼の髪が伸びるまでに会わせなければと思ったのである。

 父は学生時代に野球をしていたそうで、そしてその事実は人生で一番美しい思い出として今も燦然と輝いており、野球をしている男子というだけで鉄壁のガードがガクッと下がるのだ。


 私は野球のことなどまるでわからないが、家に男友だちを呼びたいと述べた途端顔を真っ赤にして口を開きかけた父に、『県内でも有名なピッチャーだったんだって』と伝えただけで、コロッと『……まぁ、ただの友だちなんだろう? 遊びに来るくらいなら構わないよ』と言った。

 そのくらい、父にとって野球は絶対で、素晴らしいものだった。


 上下関係の厳しい野球部にいた彼は、挨拶から何から実に礼儀正しく、父はそこもお気に召したようだった。

 普段家族とできない野球の話がしたくてたまらなかったようで、父が彼に話を振ると、彼も素直に私と母にはよくわからない野球談議に花を咲かせた。

『……! そうか、高倉くんってあの高倉くんか? 君の名前は見たことがある、前に新聞に載っていたね。……確かケガをしたんだったか。素晴らしい実力があるのに、残念だった……』

 彼は、父の気づかわしげな言葉にもいつもと変わらぬ笑顔で、

『皆と甲子園に行けないのは残念ですが、一時でも一緒に野球ができたのは人生で一番の思い出です。きっと俺の分も、皆が頑張ってきてくれると思います』

と、たぶん彼にそんなつもりはなかったのだろうが、父にとって百点満点の返答を叩き出した。


 ――あんな硬派な子はいまどきいないぞ、と父は言う。

 が、ユウくんが硬派だったことなんて一度もない。まさか、たまごやきの「あーん」をねだるような子だとは、思ってもいないのだろう。

 私にとっては、いつもいつでも素直で素敵な年下の彼氏である。


 そのあと母も言っていたが、彼は我が家の一番若いバーニーズマウンテンドッグの飛雄馬(父命名。我が家には他にもボルゾイの小次郎、アフガンハウンドの太郎、アラスカンマラミュートの和也などがいる)にちょっと似ていると思う。大きくて賢くて優しくて、凛々しい顔をしているのに実は愛嬌たっぷりなのだ。

 彼のことが目についたのだって、その好奇心旺盛な瞳を見て自宅にいる飛雄馬を思い出したからだった。彼はいつどこで見かけても、楽しいことを探す飛雄馬の目をしていた。


 我が家を訪れたあとのユウくんが、

『野球部時代にできなかったことをしてみようと思ってて』

と、髪を伸ばし金髪やら真っ赤やらに数週間単位で染め変えたり、耳どころか舌にまでピアスを開けていたことは父には絶対に内緒だ。

 知れば父の彼への印象はおそらく180度変わり、

『チャラついた不良男が娘をたぶらかした! いますぐ縁を切れ、うちの敷地を二度と踏ませるな!』

と大噴火していたことだろう。


 幸い彼はイメチェンにもすぐに飽きてしまい、元の黒髪に戻り一般的な長さに伸びたくらいで落ち着いた。いくつもあったピアスの穴も、

『色々するの面倒くさいなー、と思ってるうちにぜんぶ塞がっちゃった』

とのことである。

 なにも知らない父にとって、ユウくんは変わらず硬派な高校球児のイメージのままで、私もそれを訂正するつもりは一生ない。


 改めて、ロフトを見上げた。

「――お父さん。私、ここがいいなぁ。学校にも近いし、オートロックだし、いつも管理人さんがいるなら安心でしょう?」

「そうか? どうせなら別の階の、ロフトのない部屋にしたらどうだ」

足を踏み外して頭を打ったらどうするんだ、危ないだろうと言われたが首を振る。


 ロフトは絶対いる。絶対にだ。

 体がおさまりきらず、長い足をはみ出させてはしゃぐ姿が見たい。

 えーっなにこれ!? と、目を輝かせ大喜びする姿が目に浮かぶようだった。


「ここなら駅だって近いし、なにか心配事が起こっても、すぐに家に帰れるんじゃないかなぁ……?」

私のダメ押しに、父の口からほぼOKの「う゛ぅん……」が出た。


Fin.

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