【連載中】左利きのためのパラレルルーム

ハルカ

カピバラと上京娘

「いい部屋なんだけど、ちょっと家賃が高すぎませんか?」


 率直な感想を口にした私に、賃貸住宅の内見に連れてきてくれた不動産屋の担当者である加比原さんは、そのカピバラに似た眠たそうな目をぱちくりさせ、おおげさな仕草でポン!と手を叩いた。


「それがなんと! 実はこのお部屋、もうワンセットあるんですよ~!」

「ワンセット? 隣の部屋も借りれるってことですか?」

「いやいやいや! お部屋の中に別のお部屋があるんです!」


 部屋の中に部屋? マトリョーシカみたいな感じ?

 あるいはウォークインクローゼットを「もうワンセット」としてカウントしているとか?

 首を傾げていると、加比原さんは陽気な足取りで歩き出した。


「どうぞこちらです! ご案内しま~す!」


 とりあえずあとをついていく。

 彼が向かった先は、洗面所だった。

 加比原さんは、じゃじゃーんと両手で鏡を指す。


「ハイッ! こちらでございます!」


 嫌な予感がした。まさか「鏡の中に映った部屋の風景」のことを指して「もうワンセット」って言っている?

 たしかに私は田舎から上京して独り暮らしを始めようっていう世間知らずの小娘だけど、鏡の中に映った部屋を見て「わぁい♡ もう一部屋ある♡」と喜ぶほど馬鹿じゃない。っていうか鏡くらい私の地元にもあるし。田舎なめんな。


 しら~とした私の視線に気づいて、加比原さんは必死にぶんぶんと首を振った。


「あっ、ちっ、違うんです、違うんです、お客様ぁっ!」

「まだ何も言ってませんけど……」

「実は! この鏡の中に、もう一部屋あるんです!」


 何も違わないじゃん。ひょっとしてからかわれてる?

 この不動産屋はハズレだった。他にどこか不動産屋あったかなぁと考えていると、加比原さんが鏡に向かってよいしょっと手を伸ばした。


「驚くのはここからです! ハイッ! とくとご覧あれ~!」


 加比原さんは真剣な顔つきで鏡にぴたりと手をつける。バカバカしい。いや、バカバカしいを通り越して痛々しい。何をやってるんだこのカピバラは――と思ったそのとき。

 加比原さんの手が、ぬうっと鏡の中に呑み込まれていった。


「えっ、手が!? なにそれ、ど、どうなってるの!?」

「あらびっくり~! 種も仕掛けもございませんっ!!」


 あらびっくり~はこっちのセリフだ。

 いったいどうなっているんだろう。加比原さんはいったん鏡から手を引っこ抜くと、ぴょこりとお辞儀をした。


「では、失礼して」


 なにをするのかと思えば、よいせっと洗面台をよじ登る。

 洗面台がミシミシと音を立てる。カピバラ顔の人間が洗面台の上で四つん這いになる姿はなかなかにシュールだった。

 こうしていると、なんだか動物園で見たカピバラを思い出す。のんびり日向ぼっこをしている姿がとても可愛らしかったな――などと現実逃避している私の目の前で、加比原さんは顔から鏡に突っ込んでいった。


 ぶつかるかと思いきや、ぬうううっ、と顔が鏡の中に呑み込まれてゆく。続いて頭部が呑まれ、胴体が呑まれ、最後に足が呑まれ。

 その姿がすっかり見えなくなるまで、あっというまの出来事だった。


「え? なにこれ……」


 悪い夢でも見ているのだろうか。

 それとも悪い物でも食べただろうか。そういえば冷蔵庫の奥に眠っていた賞味期限一か月越えの納豆。あれがいけなかったかもしれない。それとも昼に食べたレインボー綿飴か。先週食べた悶絶激辛カレーだろうか。

 呆然としていると、鏡の中からぬうっと顔だけが出てきた。


「さあさあさあ、お客様も入っていただかねばご案内ができませんよ~?」

「あっハイ」


 もうどうにでもなれ。きっと私は夢でも見ているんだ。

 ヤケクソで鏡に手を当てる。ぬるんという感覚がした。やわらかめのゼリーに手を突っ込んでいるような感覚で、痛みはない。

 いけるとわかったら、加比原さんがやっていたように一度鏡から手を抜き、洗面台の上に乗る。もう一度おそるおそる手を入れると、向こう側からぐっと腕をつかまれた。


「ぎゃあああぁっ!」


 たまらず叫ぶものの、引っ張られた勢いで肩までぬるんと鏡の中に入ってしまった。


「申し訳ございません、少々強く引っ張り過ぎましたか~? お手伝いが必要かと思いまして!」


 鏡の反対側に、まるで悪びれない顔で謝る加比原さんがいた。

 苦情を伝えようと口を開いた私は、そのままぽかんとした。鏡を通り抜けてきた先に、もうひとつの部屋があった。たった今まで内見をしていた部屋とまったく同じだ。

 いや、それにしては妙な違和感がある。具体的には左右の靴を間違えて履いてしまったときのような感覚に似ている。


「な~んと! こちらのお部屋もご自由にお使いいただけます!」

「え? は? なんなんですか、ここって」

「私は『鏡の部屋』と呼んでおりますが、一種の平行世界とお考えいただければ当たらずとも遠からず」

「どういうこと!?」


 平行世界ってそんな気軽に来るものだっけ。都会ではそうなの!?

 それに、さっきはまったく同じ部屋だと思ったけど、よく見るといくつも違うところがある。


 たとえば、さっきは鏡に向かって右側に廊下があったけど、今は左側に廊下がある。お風呂の扉も、右側から開くタイプだったのが、こちら側では左から開くタイプになっている。あと、さっきは洗面台の照明のスイッチが右手側にあったけれど、今は左手側にある。


 つまり、まるで鏡映しのようにすべてが左右逆になっているのだ。


「ここはとくにお客様のような方におすすめですよ」

 加比原さんが甘い声でささやく。


「えっ、私に? なんでですか?」

「アンケート用紙をご記入いただくとき、左手で書いていらっしゃいましたね」

「ええ、まあ……」

「ズバリ! お客様は左利きですね?」


 そんなドヤ顔されてもなぁ。

 左手で字を書いていたから左利きだなんて、そのくらいの推理は小学生でもできる。

 だけど、肝心なのはここからのようだ。


「ひとつ大きなポイントがございます! こちらのお部屋、物を持ち込むことができません!」

「部屋があるのに? それって不便じゃないですか」

「正確にはと言うべきかもしれません。たとえば、元の部屋にハサミを置いたとします」

「ハサミ?」

「ええ、ハサミです! そして鏡を通り抜けてこちらの部屋に来ると! あ~ら不思議~! 左利き用のハサミになっているのです!」


 一般的なハサミは左利きの人間にとって使いにくい品物のひとつだ。

 左利きの人間がハサミを使おうとすると、うまく切ることができない。普通のハサミは右利き用に作られているからだ。


「あの、どういう原理でハサミが右利き用から左利き用になるんですか?」

「それはほら、平行世界ですから」


 加比原さんがうふふと笑う。

 平行世界ってそんな便利道具みたいな感じだっけ。

 でも、ハサミなら左利き用のものを使えば済むのでは。ちなみに私も持っているけれど、家族には大不評だ。私以外の家族はみんな右利きだから、左利き用のハサミは使いにくいらしい。不遇だなんて思っていないんだからねっ。


「もちろんハサミだけではありませんよ!」


 そう言って加比原さんはずずいっとこちらに体を寄せてくる。

 ちょ、ちょっと近いんですけど!?


「いいですか、お客様! 今から私が言うことを想像してみてください!」

「……は、はい」

「ドアノブ。戸棚の取っ手。ガスコンロのつまみ」

「はぁ? なにを言ってるんですか?」

「想像しましたか? まだまだ行きますよ。冷蔵庫のドア! 電子レンジの扉! トイレの水を流すレバー!」

「いったいなんだっていうんですか」

「おわかりになりませんか? これらはすべて右利き用に作られているのです!」


 またドヤ顔をする加比原さん。

 ちょっとイラッとするけれど、私の心は揺らぎ始めていた。


 この世界は右利き用に作られている。左利きの人間は日々ストレスにさらされ、右利きの人間よりも寿命が短いという話まである。

 思案顔でいると、加比原さんはとどめとばかりにささやいてきた。


「最後にもうひとつだけ、想像してみてください」

「まだ何か?」

「ファミレスのスープバーにありがちな、先の尖ったレードル」

「……そっ、それは!」


 スープをすくう部分がしずく型になっているレードル。

 左利きとして、あいつだけは許せない。

 いかにもスープをすくいやすいような顔をしているくせに、左利きが使おうとすると途端に手の平を返す裏切り者なのだ。


「どうです? 鏡側の部屋なら、レードルも思いのままですよ~?」

「レ、レードル……」

「ええそうです。左利きのお客様にはお喜びいただけるお部屋かと」

「本当にいいんですか、こんな素敵なお部屋。格安じゃないですか」

「もちろんですよ。お客様にとって住みよいお部屋を提供させていただくのが、我々の仕事ですから」

「契約します!」

「ハイ、ありがとうございます~!」


 こうして私は、左利き用に作られた世界を手に入れたのだった。

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