このまま二人で
5月末から続いた梅雨もようやく開け始めた7月の初旬。
わが校の生徒の大半は、7月の下旬から始まる夏休みと、その手前に鎮座する期末テストの存在を意識し始める時期だ。
前回の中間試験では、学校へ登校していない時期から生まれた遅れや、単純に勉強へ割くことのできるキャパシティがゼロに等しく。
前日に田中と矢田の3人で行ったテスト勉強は、化学の元素表のエロ語呂合わせ以外には、全く意味を成すことはなかった。
そんな訳で、
期末試験はかなり真剣に取り組まないといけないんだけど。
「何だかなあ」
部室で問題集を広げ、その中にある例題をぼんやりと見つめながらそう呟く。
いまいち、集中しきれない。
そしてその理由もハッキリと分かっていて、どうしようもないんだな、これが。
...そんなどうでもいいことでボケっとしていると、ガラリと部室の扉を開ける音がした。
「やあ」
「...神田先生、どうも」
「あのさ、露骨にがっかりした顔をするのはやめてもらえるかい?」
「せめて隠す努力はしてくれてもいいんじゃないかな?」とボソッとこぼしながら神田は俺を横切り、窓際の席にドサっと腰かける。
「うわ、先生めちゃヤニ臭くないですか?」
思わず口に出してしまう。
神田は俺を横切っただけなのに、俺の鼻の奥には、強烈なヤニの臭いが鎮座していた。
「まあ、そう言わないでくれよ。最近、喫煙者はただでさえ肩身が狭いんだ」
そう言うと、基本的にはニヤニヤして、あまり素の感情を出さない神田が、珍しく怒った様子で語り始めた。
「君は知らないだろうけど、つい2年前までは職員室のベランダでスパスパ吸い放題だったんだ。それが今じゃどうだい?校舎の隅っこにある狭苦しい喫煙所でしか吸えないんだ。喫煙者はそこですし詰めさ」
「今思えば、愛煙家の教頭先生が引退してしまったのが痛かったな」などと神妙に呟く神田に、ふと降ってきた疑問を投げかける。
「あれ?でも喫煙所ってここの真反対ですよね。そこから歩いてきた割にはヤニ臭すぎませんか?」
神田は俺の指摘に、虚を突かれたような顔をしたのち、ニヤりと笑って天井を指した。
「まあ、そういうことさ。化学教師の特権だね。全く、化学の教員免許を取ろうと決めたのは人生の中でも1,2を争うほどの英断だったよ」
...ああ、なるほど。この不良教師は、ここの真上にある屋上で一服してきたって訳か。
「よくやりますね」
「もちろん、一服の前に東雲君が部室にいないのは確認済みだよ。バレたら面倒くさいし、そもそも彼女はヤニの臭いがとにかくダメなんだ」
じゃあ、俺にも配慮してくれよ。
口に出してそう言おうとも思ったが、飄々と流されて終わるのがオチだろう。
そう考え口を閉ざしていると、またガラリと部室の扉を開ける音がした。
「なるほどね~。生徒の模範たるべき教師が、まさか屋上でヤニをスッパスッパ吸っていたとはねえ」
東雲先輩、ニコニコだ。
彼女は開口一番、嬉しそうにそう言う。
ざまあみろ。
そう心の中で呟き視線を戻すと、神田は目を瞑り、手を頭の後ろで組み、背もたれに腰かける。
そして、鼻から思いきり息を吐いた後、ようやく口を開いた。
「何が欲しいんだい?」
「屋上のカギ」
「リスクが高すぎる。却下だよ」
「自分こと棚に上げてよくそんなこと言えるよねー」
「僕は教師だからいくらでも誤魔化しがきくけど、生徒はそうはいかない」
東雲先輩は「んー、そうだな...」と呟き、彼女は少し悩んだ様子を見せ再度口を開いた。
「じゃあ今日、夕方まで屋上で過ごさせてよ」
神田は意外そうな顔をしながら、言葉を返す。
「まあそれならいいかな...」
「よし、決定だ」
嬉しそうにそう言う彼女を彼女を尻目に、
神田がしばらく考えるようなそぶりを見せた後、「らしくないね」と呟いた。
「最近自分でもビックリする時があるよ」
彼女はそう言う。
「別に、それが悪いって話じゃない。」
神田はそう言うと、誰に聞かせるわけでもように「悪い訳ないんだよ...」と小さな声で言った。
「今じゃ気が遠くなるほど昔の事だけどさ、」
「その時の私も、学校の屋上でこんな風に誰かと、夕陽を見たいと思ってたんだよ」
東雲先輩は夕焼けに照らされ全身を橙色に染めながら、そんなことを言う。
校庭に視線を動かすと、まだ各運動部は粘って活動していた。オレンジ色の光が泥だらけの彼らを照らし、影を作る。
硬式テニス部の連中はサーブ練習をしているようで、夕陽が眩しいのか、キャップを深くかぶり直しているのが見えた。
野球部は監督と上級生にドヤされて、一年生が急いで球拾いをしようと走り回っている。
陸上部からは、全力で走っている彼らを励ますように、ラストスパート!と顧問の教師の声が聞こえた。
そんな光景を見俺は、彼らは生きているんだ、と。そう強く、そして深く感じた。
「...あー、そうだ」
少しでもこの光景を目に焼き付けようと前のめりになっていたところで、誰にもばれないように細心の注意を払えと神田が言っていたことを思い出して、体を引っ込める。
そして、東雲先輩に視線を戻した。
「――」
――綺麗だ。
夕陽をぼんやりと、でも、確固たる視線で見つめる彼女。橙色に染まった横顔が凛々しい。
夕焼けを反射しオレンジがかる彼女の瞳には、確かな芯を見ることができた。
そして、風が吹く。
――ああ、これは。
彼女の長い髪が宙を舞い、なびいた髪を耳に掛けるその姿を見て、
俺は、この世の中には絶対的な美が存在するのだと、この瞬間、そう確信した。
そして次に、俺が絵を描く人間ではなくて良かったと心の底から思った。
だって、こんな絶対的な美を知ってしまったら。
この瞬間を絵におこそうなんて無粋なことに、一生を費やしてしまっただろうから。
「────ねえ、リク君」
彼女がこちらへ振り向く。
「このまま二人で...いや、何でもないや」
「え、なんですかそれ」
「ごめん。何でもないんだよ、本当に」
そう言うと彼女は体の向きを変え「ちょっと席外すね」と言い残し、足早に屋上を去っていた。
なんだそれ。
屋上を去る彼女は、尋常ではない様子だった。
空を見上げると、黒い煙のようになった雲に、真っ赤な夕陽が霞んでいる。焼けるような色をした空はもうほんの一部で、そのすぐ上は、目にする人をほっとさせるような温かみのある紫色に染まっていた。
「もういい頃合いか」
俺も戻ろう。
地面においてある鍵を拾い、足を進める。
しっかりと施錠をし、階段を下りようとした。
「──ウ...ェ...」
なんだ?この音。
誰かの嗚咽が聞こえる。
「オ...エェ...」
この声は...東雲先輩?
その名前が脳裏をよぎった瞬間、俺は動き出していた。
足早に階段を下りたその先の廊下。
そこに彼女はいた。
口元を両手で覆い、目には涙を浮かべて。
それでも溢れ出たゲロが、ポタポタと滴っている。
彼女は、吐いていた。
そして東雲先輩は、こちらに気付く。
目を大きく見開いて、体をブルブルと震わせる。
何かを言おうとして、口元から零れそうになって。
慌てて両手で覆いなおした彼女は、逃げるように走り去っていく。
「ちょっ...待っ...!」
想定外な状況から我に返り、静止の言葉を投げかけたその時には。
彼女はもう姿を消していた。
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