第37話 やるだけやってみるか
駅からバスに乗って一〇分くらいのところに、大型ショッピングモールがある。三階建ての建物は中央が吹き抜けになっているので、全ての階の様子を伺うことができるというわけだ。
特定の椅子に座って三階を見上げた後、瞬きせずに一〇を数える。
その後に下を向いて目を閉じ、四四を逆から数えて〇になった後、目を閉じたまま三階を見上げて目を開けると、幽霊が見えるらしい。
最初は三階から幽霊がこちらを見てくる。瞬きすると二階に幽霊が移動する。もう一度瞬きしたら目の前に来てしまうので、二階の幽霊を確認したら目を瞑らないでショッピングモールから立ち去らないといけない……らしい。
これで怪談をつくろうにも、あまりインパクトがないな。降霊術がゲームの一種みたいになっていて緊張感に欠ける。四四という数字も安易すぎて不気味に感じられない。最初の瞬きせずに一〇を数えるなんてところは完全に小学生の遊びだ。
まあ、やるだけやってみるか。
案件プリントに書かれた『特定の椅子』――模型屋の前にある椅子には誰も座っていなかった。椅子というよりソファといった感じだ。
怪しい雰囲気もないし、今回もハズレだろう。深く考えずに椅子に座って、三階を見上げる。
瞬きしないで一〇秒数えるというのは案外大変で、目が乾いて仕方がなかった。閉じそうになる目を無理やりこじ開け、カウントをとる。
(一……、二……、三……、四……、五……、六……、七……、八……、九……、一〇)
なんとか一〇秒を数え終えて、オレは下を向いた。次は目を瞑るから楽だ。視界が闇に閉ざされた途端、乾いた眼球が潤っていくのを感じた。
(四四……、四三……、四二……、四一……、四〇……)
四四を数えるのは思ったより長くかかった。闇に閉ざされた視界の中で、周囲のざわめきがやたらと大きく聞こえた。
(三九……、三八……、三七……、三六……、三五……、三四……、三三……、三二……、三一……、三〇……)
誰が横を通りすぐる気配を感じた。目を瞑っているからか、感覚が鋭くなっているのだろうか。それともただ神経質になっているだけか?
人のたくさんいる場所で目を瞑るのは落ち着かない。心が騒ついて、周囲の人間がどういう行動をしているのか、見えないからこそ気になって仕方がなかった。
(一〇……、九……、八……、七……、六……、五……、四……、三……、二……、一)
周囲に変に思われてないか不安になりながらカウントを終え、顔を上げて目を開ける。視線は三階に向けている。
最初は何もないと思った。まだ視界がぼやけているのもあって、気づくのが遅れてしまったのだ。
焦点があってきて、視界がクリアになっていく。よく見ると、三階の端からこっちを覗く女がいた。
遠くてよく見えないのに、なんだか異様に存在感のある女だ。顔になにか、模様のようなタトゥーのようなものがある。これが不気味な存在感の理由だろうか。口は笑っているように見えた。
(顔に、刺青……? めちゃくちゃこっち見てくるな……)
気がついたら一度瞬きをしていた。
三階にいた女がいつの間にか二階にいる。
まるで間違い探しみたいに、姿勢も状況も、通路のどの辺りにいるのかも全部一緒なのに、そいつのいる“階”だけが違う。
瞬きをした一瞬で、そんな移動できるわけがない。
案件プリントに書いてあったのと同じだ。
思い至ったと同時に全身から血の気が引いた。冷や汗が吹き出してきて、体が冷える。
女が二階に移動してきたせいで、奴の顔がよく見えた。
そして、オレが刺青だと思ったものは、模様じゃなかった。
肌じゃない。肌を隠すためのものだったんだ。
(あれ、誰も……変に思わないのか?)
ひと目見て異常だとわかる様相だ。誰も気づいていないのか、オレにしか見えていないのか?
誰も女に視線を向けないのが不気味で、体が震える。
女の顔には、びっしりと絆創膏が貼ってあった。
ところどころ、絆創膏が剥がれて下からケロイドみたいなものが見えている。
傷が乾いていないようで、引きつれたような皮膚はぬらぬらと妙な湿り気を帯びていた。
あれを、絆創膏でどうにかしようとしているのがおかしい。普通は包帯とかだろ。そもそも、あの怪我で出歩いていいとは思えない。傷痕になっているならまだしも、まだ完治している様子がない。適切な治療がなされているとも思えない。
痛みが、あるはずだ。普通なら痛いはずだ。笑えないはずだ。そんな余裕あるわけない。
だというのに、女はオレを見て笑っていた。
普通の笑い方じゃない。大きな口を開けて、歯を見せて笑っている。笑い声はしないけど、口の端から唾液が垂れていて人間味がなかった。
(そもそもオレは、二階にいる人間の顔を、なんでこんなにハッキリ見えるんだ……?)
全部が怖くなって、思わず顔を伏せてしまう。
目が乾いて仕方がなかった。瞬きしたいけど、あいつは今二階にいる。案件プリントに書いてあった内容が正しいなら、あともう一回瞬きしてしまったら、あの女がオレの目の前にやってくるはずだ。
(た、多分、人間じゃない……! 下の階に降りるのが早すぎるし、あ、あんな状態で、人間が出歩けるわけがない……!)
緊張が限界に達する。冷や汗が止まらない。目が乾いて痛い。呼吸が荒くなる。目が乾く。
(くそ、なんだあれ……なんなんだアレッ……!)
顔を上げられない。恐怖で目を瞑ってしまった。目が痛くて限界だったからだ。
そして今度は目を開けられなくなる。二階にいるあいつが、案件プリント通りすぐ側にいるかもしれないと思うと気が狂いそうだったからだ。
怖くて、今すぐ逃げ出したいのに、体が動かない。だからと言って逃げる以外の対処法もない。
(嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ……!)
オレはショッピングモールの椅子に座り込んで頭を抱えていた。
心臓がバクバクと暴れている。全身から嫌な汗が噴き出してきて、鳥肌が止まらない。体が震える。
怖い。
顔をあげればまた……また、アレがいるかもしれないから。
(まさか……"アタリ"の案件……!? これがっ……アタリ……!? じゃあ、部長が言ってた祟るって……上野を追いかけた何かって……!)
嘘だと思いたかった。だってそんなの、本当は全部作り話だって、暗黙の了解じゃないか。
(本当に出るなんて……聞いてないっ‼︎)
オレはずっと目を閉じていた。なにも見たくなかったから。
でも、間違った対応だったかもしれない。
目を閉じて、視界が闇に覆われたせいで、余計に色々な気配を感じる。
周りを歩いている買い物客やら、忙しそうに歩き回る店員やら……
(今、オレの目の前に……誰か立ってないか……!?)
気配がする。感じる。誰かが立っている。反射的に、さっき見たアレを思い出してしまった。アレは嫌だ。
アレは嫌だアレは嫌だアレは嫌だッ!!
こんな……こんな目にあうくらいなら、最初からやめておけばよかった。
よく考えてから行動するべきだったんだ。軽率だった。甘く見ていた。間違ってたんだ。
考えたこともなかった。こんなことになるなんて。
ああ、畜生――
(こんなことになるなら、オカルト同好会なんか入るんじゃなかった……ッ!)
何かの気配は、ずっとオレの前に立っている。動く様子はなかった。他の気配はずっと忙しなく動いているのに、オレの前に立っているそいつと、オレだけが微動だにしていない。
(いつまでこうしていれば、コイツは帰ってくれるんだろう……諦めて帰るという概念がある相手とは思えない。周りの客は普通だったし、視線も感じないから……きっと見えてないんだ)
体が震え始める。寒い気がした。今、目の前に立っているのが幽霊なら……幽霊が実在するなら、オレが祟られて死ぬのだってありえる話なのだろう。
オカルトは、命の危険がある趣味だったのだ。
今更後悔しても遅いけど、固く閉じた目に涙が浮かぶ。今ここで死ぬかもしれないと思うと怖くて悔しくて、体が震える。
オレはどうしたらいいんだ。どうしたら助かるんだろう――
「目黒くん……? 目黒くんだよね? 大丈夫?」
突然、声がかかった。聞き覚えのある声だ。
体の震えが止まっている。恐怖が薄れていた。死にそうなオレに声をかけてくれたのが嬉しい。ひとりじゃないと思えるのは酷く安心する。
声の主が嫌いだったはずなのに、オレはそんなことをすっかり忘れて顔を上げた。
目の前にいるのは、本気で心配そうな顔をいている上野だ。
学校帰りにそのまま来たのか、制服を着ている。手には本屋の紙袋を持っていた。
ほっと息をついたオレに対し、上野は心配そうな表情のまま訪ねてくる。
「具合悪いの? どっか痛い?」
上野の周囲には誰もいなかった。見た限り、二階からオレを覗き込んでいた化け物の姿は確認できない。不思議そうな上野を放置して周囲を確認したオレは、勢いのまま上野に尋ねる。
「オレの、オレの前に、誰かいなかったか⁉︎」
上野はオレの様子に少し驚いたようだったが、質問には律儀に答えてくれた。
「え? 僕が見た時は誰もいなかったよ?」
「そうか……」
誰もいないなら、それに越したことはない。オレが怯えていたあの気配は上野だったのだろう。
安心するオレとは逆に、上野はまだ心配そうな表情を浮かべていた。
「目黒くん、ひとりでうずくまってたから寝てるのかなって思ったんだけど……震えてたから声かけたんだ。具合悪いとこない?」
「い、いや……大丈夫だ」
上野とは目線を合わせられるし、周囲を見渡すのも抵抗はないが、上を見上げるのは無理だった。
まあ、普通に歩いていて上を見上げることなんてない。これから先もこのショッピングモールで上の階を見上げるのは無理かもしれないなんて思った。
もしかしたら、ここに来ることすら避けるようになるかもしれない。
オレがぼんやりしているのを見て、上野は何かに気づいたように息を呑む。その様子が能天気で羨ましかった。
「あ! もしかして案件調査中だった? 僕もしかして邪魔しちゃった⁉︎」
「……」
咄嗟に返事ができない。
案件調査。その言葉になんだか拒否反応を覚える自分がいる。
まさか本当に幽霊が出るなんて――ああ、そういえば。上野といえば。
「……そのことで、話があるんだけど……上野、帰りながら話していいか?」
「? いいよ?」
オレが今までしてきたひどい対応なんてなかったかのように、上野はオレの提案に快く応じてくれた。
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