想い、感じ、伝えること。
月凪あゆむ
1. 想いを形にする意味
ずっと、ずっと前に。
【人というのは矛盾する生き物だ】
と、私は言葉を紡いだ。それも、はじめはペンをとり。
そこから考えると、今はかなり楽に書いたものの修正が利くようになった。これも科学の発展というものか。
そんな十数年のうちに、あることを悟った。
【ただ考えるだけでは、変えられぬことが多い】
だからといって、むやみやたらにそれを発信するのが良いことかと言われると、そうとも言えない。場所を選ぶべきだし、反論をされる覚悟が必要なパターンもある。
これまでの私は、「書いて、たまにそれを見てくれる人がいれば嬉しい」と、自己満足の域をあまり超えていなかった。
けれど、ふと思った。
【自分の考えや経験を発信することで、何処かの誰かにとどく何かがあるかもしれない】
それは、決してうぬぼれというわけではないという、一種の自負がある。実際、驚かれることがある。そこまで考えるのか、と。
私は、物心つく頃には、すぐ近くに「しょうがい」や「てんかん」という言葉や、「しょうがいしゃてちょう」というものを見ていた。
当時は、それらの意味までを知っていたわけでなくとも。
白い杖にも、車椅子にも。手あるいは足のないひと。鼻にチューブをつけながら、ベッドごとでの移動するひと。
初対面では意思の疎通がちと難解かと思われるような、寝たきりのひとも。
あまり驚くことでもなかった。
その辺り、いわゆる一般的なひとと感性は少々ずれているかもしれない。それも、悪いことだとも思っていないが。
それなりに虐められてもきた。だから、なのかはなんとも言えないが、私自身も障害者になり、それなりに月日は経つ。
障がいを持つ兄がいるから、世でいう「きょうだい」でもあって。
がっつりではないかもしれないが、「ヤングケアラー」の側面も持つ。
この時点で、私は世間一般の「普通」にはならないだろう。
今現在の世間の「普通の人」は、跳び跳ねる若者や、奇声が聞こえると、きっととてもざわつき、好奇の目を向ける。それらも、私からすればなんてことのない声だ。おそらくせいぜいは。
「なにか楽しくなっちゃったのかな」
「なにかと闘ってるんだな」
と、こんなものだ。
その十数年で、考え方に確かになってきたものがある。
【ひとはひとだ。そのへんの人でも、訳ありな人でも、そこで生きている。障がい者にも健常者にも等しく善人と悪人がいる。大切なのは「形」ではなく「気持ち」だ】
と。
そんなことを考える私に、いったいこれから、どんなことが言えるのか?
まだ分からない。
それでも。なにかを伝えたいと、想ってしまうのだ。
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