妻の内見

中野半袖

第1話

 帰宅すると、寝室から妻の声が聞こえた。そっと覗くと、ベッド脇に備えてある電話で誰かと話をしているようだった。

「────それで、ご相談していた物件はどうなりましたでしょうか」

 物件ということは、どこかの不動産屋にでもかけているのか。しかし、いまのところ引っ越しをする予定は無いはずだ。

「はあ、そうでございますか。ではそこの内見をお願いしたいのですが。いえ、わたくしが今日出向くのは少々難しくございまして、このまま電話での内見をお願いいたします」

 電話での内見など聞いたことがない。部屋の中を見て回るから内見というのに、見もせずに電話だけで内見となると、内聞(ないぶん)ということだろうか。そもそもそんなことを良しとする不動産屋など聞いたことがない。

「はい、そちらで結構でございます。よろしくお願いいたします」

 そう言って、妻は受話器を置いた。しかし、そこから動く様子はない。電話機をじっと見つめたままだ。これは内見が決まったのか、それとも断られたのだろうか。妻の表情を見ても、まったく分からない。

 いったいどんな要件で電話をしていたのか妻に聞いてみようと思うのだが、おれの前で見せる妻の姿と、じっと電話を見つめたままの妻はまるで別人のようで声をかけるタイミングが見つからない。タイミングが見つからないというよりも、何か得体の知れないものを見ているような気分だった。怖気づいているというのが、正解かもしれない。

 おれがうじうじしていると、電話がかかってきた。ワンコールも鳴らないうちに、妻は恐ろしいほどの速さで受話器を取り上げた。

「はい、はい。さようでございます。ええ、それでは、はい、お願いいたします。玄関ですね、ええ、はい────」

 会話から察するに、どうやら電話での内見が始まったようだ。まさか本当に電話で対応してくれる不動産屋がいるとは。余程説明がうまいのだろう。

「はい、それでお風呂のほうですが────ええ、そうでございます。それだけの大きさがあれば大丈夫でございますね。安心いたしました」

 大きな風呂、という言葉を発しながら妻の顔が少しだけほころんだ。もしかすると、高齢なおれの両親のことを思って将来住みやすい物件を探してくれているのかもしれない。普段はあまりそういったことを話す妻ではないのだが、なるほどそうか、やはりおれが惚れ込んだだけはある。

 そんなことを考えていると、出し抜けに大声がした。

「それは話と違うのではございませんか。わたくしは人通りの少ない場所でとお願いしたはずですよ」

 聞いたこともない妻の声量におれは腰を抜かしそうになった。妻は受話器を両手で握りしめ、白目がはっきり見えるほど目を見開いていた。

「────え、ああ、そうでございましたか。なら結構でございます。大きな声を出してしまい申し訳ございません。ええ、ええ。いえいえ、本当にそれで結構でございますよ」

 静かな場所を探しているのだろうか。いま住んでいるこの土地も比較的静かな場所ではある。しかし、都会の一等地では確かに人通りは多いかもしれない。妻はそれほど外の音が気になるというか、おれの両親なら年齢もあり、耳は年々遠くなっているのでそこまで気にする必要は無いはずであるが。

「ええ、キッチンはそうでございますね。はい、ええ、少し使い勝手が悪いような気がいたしますが、ええ、そうでございますね、多少リフォームをすれば、ええ、はい、それでよろしいでしょう。────それで、床下の件でございますが」

 妻はまた両手で受話器を握り、ぐっと身体を丸めるように小さくなった。まるで秘密の会話をしている子どものように見えた。そして、朗々とした声で、

「そうでございますか。そうでございますか。ええ、大人が3人横になれるだけの、ええ、そうでございますか。冷蔵庫としても使用できるということでございますね、ええ、はい。鍵も設置することが可能ということで、ええ、大変結構でございます。それを聞いて安心いたしました。では近々契約に参りたいと思いますので、ええ、よろしくお願い致します。はい、失礼いたします」

 そう言って深くお辞儀をすると、妻は電話を切った。そしてそのままおれと目が合った。妻はおれがいたことに、とっくに気づいていたのではないか。そんな気がした。

「あら、あなた居たんですか。帰ったなら帰ったと言って下さればいいのに。さあ、わたくしは晩ごはんの支度を済ませてまいります。用意が出来ましたら声を掛けますので、そのときはお義父さんとお義母さんにも声をおかけ下さい。今日はあなたの大好物ですよ」

 満面の笑みを浮かべる妻の顔は、何か大事なことをひとつやり遂げたような清々しさがあった。そして、その口の両端は耳にまで届きそうなほど大きく裂けて見え、不気味だった。

 

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妻の内見 中野半袖 @ikuze

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