Y
真夕
第1話
暗闇で誰かがポップコーンを踏む。
ただ、映画館に行けば誰かが誰かの撒いていったポップコーンを一度はくしゃっと踏みつけていく。そういうものだ。その様子を連想するだけで、なんとなくそのかすかな音までもが耳に届く気がして、紗由季は映画館に行く度にポップコーンを山盛りに持っている人間をそれとなく警戒していた。
高校の卒業式の日、ひとりひとりが思いや抱負を一言ずつ発表していっていたとき、紗由季のずっと右斜め前方、最前列に座っていた繁くんが、他の生徒の発表に振り向くそぶりで紗由季のほうをまともに見た。……ほら、やっぱり彼の意識の中心には私がいる、――いや違う。きっと、目に入れば思い出すけれどそうでなければ彼の中に私はいないんだ。だって、多分別に好きではないから。私の気持ちに気付いて意識していたとしても。
「見られる」ことをにわかに意識し出した紗由季はそのようなことを考えた。今に気付いたわけではない。そんなことはこれまでの繁くんの態度の積み重ねを見れば明らかだったが、折に触れて考えづくで自分を納得させてみなければ、こうして席に黙って落ち着いていられる気もしなかった。やがて紗由季の番が回ってきて、主に受験勉強で大苦戦した紗由季は、
「受験も、途中で理系から文転したりして、自分の芯がブレまくりだったけど……なんとか卒業出来て、よかったです」
という按配に話をまとめて、再び席に着いた。
「それでさ……あさってで二週間経つんだけど」
ふたりきりになったリビングで紗由季が腕組みをしてソファに寄り掛かりながら言うと、美宇ちゃんは姿勢を崩さずに真面目にぽつりと言った。
「まあ……わかんないねえ……」
「そうだよねえ」
「でも、その『しげる』くんはその一日はすごく楽しかったんじゃない?だからもう一回メッセージして返事促して、白黒つけるのも私はありだと思う」
紗由季は弱々しく返事して、一度口をつけておざなりにしていたブルーベリーパイのぼろぼろの残りに再びフォークを運んだ。
「うん……」
地球の南半球側に来てまでちらちらと携帯の通知を気にすることになろうとは、彼を誘った当初は想像もしていなかった。それどころか、もしも、もしも付き合うことができた暁にはこれでもかというほどのオーストラリア土産を買って帰ろうなどと好い気な妄想さえしていたのだ。
「いいじゃん、せっかくメルボルンにいるんだから。今はとりあえず忘れて楽しんで、なんならここでもっといい出会いでも見つけちゃえば」
「それは……ハードル高いなあ……」
「まあ、どのみち連絡するもしないも、自分のすっきりするようにすればいいよ」
大学に入ってすぐの夏休み、紗由季は高校のときほとんど日常的に会話する機会もなかった繁くんを遊びに誘った。数週間後にはあまり意志のない紗由季に代わって両親が取り計らってくれたメルボルンへの一週間の語学研修が控えていたが、紗由季の頭の中は未知の異国で過ごす数日間よりも、初めての、それも自ら好いた異性とのデートのことで一杯だった。デート、とは。男女が日程を決めて会うこと、つまりこれは相手が自分を好く好かないにかかわらず正真正銘のデートなのだ、だって相手と日付を合わせて会うのだから。日に何度か言葉の定義をネットで検索しては繰り返し感慨に浸り、ワンピース数着を取っかえ引っ変え全身鏡の前に立った。
『いいよ!!!』
在学中にやりとりはなく初めて送ったメッセージに対する返答を祈るような想いで確認し、バイトが理由で確認が遅くなったことを詫びる一件目、そして二件目に誘いを快諾する三文字を見出したとき、紗由季は胸の奥がきゅんとくすぐったくなるような嬉しさで勢いあまって布団の上に転がった。日程調整のやりとりを重ねても、その一言のうれしさはあくまで色褪せずに紗由季の胸の奥を温めていた。
少し話し合って当日は映画を観ることに決め、場所は市内の映画館のある二か所に絞られたが、あえて電車で数分の駅前ではなく複数交通機関を乗り継がなければいけない遠方を指定した。
『俺はどっちでもいいよ』
『じゃあN町でもいい?』
『S駅よりN町のほうが家から近いの?』
『駅のほうが近いけど、駅はいつも行ってるから特別感出したくて笑』
『特別感!!確かにwwwww』
それにあなたが私と歩いてるところを高校の知り合いにでも遭ったらどう言い訳するの、という突っ込みを胸の中に収めて、それで関係を誤解されるのはむしろ私にとっては望むところなんだけどねと心ひそかに思う。
当日はすぐにやって来る。品は良いながら脇から二の腕にかけてをしっかり晒す綿地の白ブラウスに、ウエスト付近で黒いリボン型のベルトをゆるく巻き、オフホワイト地に黒ぶち模様のロングスカートをその下に纏う恰好で待ち合わせ場所に向かった。ヘアスタイルから、アクセサリーから、靴から鞄にいたるまですべてを数日かけて繰り返し吟味してきていた。
ショッピングモール最上階にある映画館のベンチに先に腰かけて待っていた紗由季が、そわそわと往来を左に眺めやっているうちに、繁くんはその方向に紗由季に背中を向ける形で通り過ぎた。その背に高校時代イヤというほど見慣れたくたびれたリュックサックが背負われているのを認めるにつけ、紗由季は人影の中にようやく彼らしい姿を見出せたことへの素直な喜びと同時に、どこかしらやり場のない一抹の不安を覚えずにはおれなかった。
「っあっ……」
顔を左に振り向けたまま思わず弾かれたように立ち上がった途端、右手から近づいてきた家族連れの別の客と軽く接触し、慌てて詫びる。間際に思わず発した一声とその後のやり取りの様子とでこちらを察したらしい彼が、ゆっくりと振り向いて紗由季を見据えた。
「繁くん」
相変わらず他のルームメイトの帰らない部屋の中で、静寂を避けるためだけにろくに英語もわからない海外チャンネルのドラマをすずろ見ながら美宇ちゃんが再び口を開いた。
「ねえごめん、さっき何か言いかけなかったっけ」
「あー……今の人が好きな理由みたいな話。聞いてくれる?」
美宇ちゃんがソファのつぶれたクッションの形をぽんぽんと手で叩いて直しながら頷く。
「私ねえ、楽器のできる人に弱くてさー、その『しげる』くんはピアノが弾けるわけ、高一のときの合唱祭でも伴奏者賞もらってるくらいで、ああいうのってやっぱり女の子が多いから余計印象に残ってて。そのときクラスは違ってて今以上に接点なかったけど」
「へー、すごいじゃん」
大入りのクマ型ビスケットを前歯でかじった美宇ちゃんが本当に感心したように言う。ブルーベリーパイで腹が膨れていたはずの紗由季もなんとなく口寂しさに一枚つまんだ。
「そう、眼鏡でさ、顔も地味な感じなんだけど、なんというか……ちょっとトーン重めの声で淡々としゃべって、でも字は意外と女の子みたいな丸文字書いて、お姉さんのこと皆の前でも『おねえちゃん』とか言ってて、でも自分に対して何か譲れないものを持ってる感じで……」
「へー。字が女の子みたいなんだ」
「うん。……思い出した、そうそう、それがまだ好きとか思う前だったんだけど、一回だけ席隣同士だったことあってさ」
海外ドラマのセリフの中でいっとき聞き覚えのある単語が飛び出してきたのだが、肝心のその意味は頭の中を反芻しても思い出すことができなかった。
「それがきっかけで惹かれた感じ?」
「それは自分でもわかんないなー。よくさ、席隣同士とかだと小テストの交換採点したりするじゃない?あれでよく満点とってた。英語の、教科書に出てくる単語そのまんまのそんなに難しくないテストのはずなんだけど、なかなか満点って取れなくて。定期テストとか模試で上位取ってる人でもけっこう間違えるところ、しげるくんはそんなにすごい勉強のできるほうではなかったけどそういうところに絶対手を抜かない人だった。そういう感じがした。……なんというか、上手く言えないけど、私に及びもつかないような部分で自分に譲れない基準を持ってる人だった」
会ってから映画の上映時間までには一時間ほど間があった。8階にある映画館を一度出て、二人は楽器屋、本屋、雑貨屋などを移動しながらほぼ一年ぶりにまともな会話らしい会話を交わした。紗由季は貴重な話題のタネを逃すまいと自ら暗に誘導するように楽器屋のほうへ足を向けた。すると彼は大人しくついてくる。
「繁くんさあ、そのときまだクラス別だったけど……一年生のとき合唱祭で伴奏者賞獲ってたよね。あれ、本当にすごいと思った」
展示されてあるキーボードの鍵盤にやや居心地悪そうに目を落としながら繁くんが答える。
「あー……。いや」
「中学校のころとかは部活何やってたの?」
「中学のときは合唱部だった」
「えー!マジかぁ、合唱やってたんだ」
「いや、歌う方はやってなくて、専属の伴奏として伴奏やるために合唱部入ってた」
「へぇ」
紗由季は納得した。どうして自分が大した関わりもないくせ高校二年から馬鹿みたいに二年間もこの人を想い続けていたのか、その具体的根拠を得たような満足感で口許がほろり緩む。と同時に、私の努力とアプローチ次第ではもっと早くこういう情報が知れたのだろうか、などと切なく胸の奥が軋みもする。だが、それを言い出せば色々なことがあまりに今更だった。具体的な言葉ではなく、ただ好意を隠し切れない自分のあけすけな眼差しに彼が同じように抽象的な視線をもって報いることを、恋の酔いに置き換えて長らくそれに耽っていた。外聞も気にせず、小さな矜持も傷つかずに済む安全地帯からわざわざ脱する勇気も気力も持ち合わせてはいなかったのだ。
本屋に移動すれば参考書コーナーの前で目についたものからものへ、それらしくこじつけては話題をつなぎ、彼が単語テストでクラスの誰よりも満点を取り続け担当教員に全員の前で褒められていたこと、隣で見ていて感じ入ったことなどをそれとなく伝えたが、相変わらず繁くんの反応は鈍い。かといって冷たいとか無関心さを感じさせるというほどでもなく、何に遠慮したものか彼は紗由季がコーナーを移動する度何も言わずについてきた。が、やはり繁くんの方からは何も話しかけてこようとしない。
そうこう過ごすうちちょうど良いタイミングを迎え、紗由季は少し救われたような心持で再び映画館に足を向けた。
「席は?」
券売機を前にして、紗由季は果たして二人隣同士に座る前提で話を進めていいものか迷いながら、あくまでさりげなく繁くんの意図を汲むよう努めた。
空席は中央よりもやや左にずれた位置にちょうど連席で空きがあり、そこを心の中で第一候補とした。
「どこか席の希望ある?」
繁くんは無言で画面右側の比較的空いたエリアを指さした。だが、そこには一人鑑賞客が中途中途に陣取っており連席の空きはない。
「こことか……結構空いてる」
紗由季は失望と邪推したい気持ちの入り混じったまま、できるだけ控えめに、純粋に見やすさという点から中央に近い方が良いとの提案をした。
ああ、うん、というような曖昧な反応だが、特に反論をする様子でもないので、そのまま特にそれについては確認せずにさきほどの左寄りの連席を指定する。
劇場内に立ち入ると、あちこちで香ばしいポップコーンの香りがした。購入した席番に関わらず、より中央側の席に繁くんが座るようさりげなく立ち回り、紗由季はなかば信じられない気持ちのままその隣に腰を下ろした。
「で?ででででで?映画はどうだったの」
「面白かったよー。でも内容はおいといて、私絶対に身じろぎもしちゃいけないし、途中でトイレ休憩なんてこともあってはならないと思ってたからさ、身体が凝って凝って大変だった」
「え!何それ」
快活に笑う美宇ちゃんのモノを食べながらでも綺麗なままの口許に目をやってから、巨漢同士の派手な喧嘩シーンを映し出しているドラマに義務的に視線を走らせてから紗由季は答えた。
「いや、なんとなく。一回動いちゃったらさ、私の素が出ちゃうような気がして……でも相手は何回かこうやって、身体を動かしてて……その度に私、途中で手でも繋いできたらどうしようって緊張しちゃって………………嘘」
「嘘って。……」
美宇ちゃんはしばらく絶句した。
「で、そのあとカラオケだっけ?よく誘ったね」
「よく誘ったどころじゃないの。もうそこに行かないと、二人っきりの空間に落ち着かないとだめだって、私きっと何もできないと思ったし……それに」
紗由季がふと目を伏せて躊躇したように黙り込む。
流行りだったそのアニメ映画は紗由希には腑に落ちないところばかりではあったが、泣きどころで気持ち良く泣けるだけではない薄暗さ、凄みのようなものが随所から窺えた。概括して、好きな異性と観る映画としては悪くなかった。フードコートのドーナツショップでさらに寡黙になった繁くんと一服してからその場で誘い、向かったカラオケボックスに二時間の予約で入室する。
扉を開けて中に入る瞬間に、紗由季は後悔にも似た烈しい緊張を覚えた。
「これ、絶対知らないと思う……」
珍しく自らしゃべり出した繁くんがはじめに入れた曲は、紗由季も知っている国民的アニメの主題歌だった。だが、放送自体が数年以上前であったのとそれがシリーズ初期のものであったため、一般知名度はそれほど高くないであろうと思われた。
バンドによる生演奏の映像が流れ出し、イントロを聞き終えた段階で紗由季は確信する。カラオケの最初に入れるからには彼がよほど好きなのであろう、そのアニメの名前と曲名をずばり指摘すると、繁くんが歌い出しの直前で紗由季を振り向いて、ゆっくり微笑んだ。
その顔が、彼がその日紗由季に見せた最も嬉しそうな表情だった。
歌に多少の自信があった紗由季は、そのはじめの一曲を歌った段階でおそらくそれほど歌が達者とも思えなかった繁くんが、普段会話するときとは雰囲気の違う紗由季の歌声を聞いて少しでも心靡かせてくれることを期待した。期待したとて、彼が実際にそうなったとて、そこから先のふたりを繋ぎ止めるものなど何もないに等しかったが。
だから彼の歌はしっかり聞いた。一方の繁くんはといえば、しかし紗由季が期待したような聞き方はしない。紗由季の歌う時間を自分の次に入れる曲を思い出す時間にしているように、紗由季には感じられた。
途中で、aikoの『カブトムシ』を入れた。気恥ずかしさに何かを話しかけずにはいられず、
「これ知ってる?」
馬鹿なことをと思いながら苦しげな笑いを引っ込めることができない。
「……そりゃ知ってる」
「だよね」
ラブソングなら繁くんも何曲か入れてたし、とやり場のない言い訳を心の中で独り言ちつつ、寒々しさとときめきとを意識的にごっちゃにしながら歌い切った。
「だから、彼女にしてくれないかな……と、思って」
言い切って前を向くが、隣からはぞわぞわとしたイヤな緊張感だけが伝わってくる。
カラオケで二時間が経つころになって、部屋を出なければいけなくなってから、確実と外と隔絶したふたりきりになれる空間が欲しくてここに誘ったのもあるのだと我ながら悟り、紗由季は焦った。どうする、ここで言ってしまおうか。丸い氷がだらしなく溶け残る薄くなったカルピスにふと目をやって、違うと思い直す。
外はちょうどこれから日が沈む時刻でうっすらと暗かった。地下鉄の駅に歩いて戻る道行き、幸運にも人影まばらな舗道で紗由季は50mほど先に歩行者用信号機を見つけた。……あれだ。
少し歩いてその横断歩道の前で立ち止まり、青になるのを待った時間の濃密さを、そして光った青信号の霞むような光を、紗由季は今でも鮮明に覚えていた。
「急にごめんね。あの、たぶん気づいてたかもしれないんだけど、私……高二の頃から繁くんが好きで」
横断歩道をやや小股で歩き出しながら切り出す。
「………………ああ……」
「さっきも言ったかもしれないけど、あんまり表に立って目立つ感じじゃないけど単語テストでクラスで一番満点とってたりとか、ピアノの伴奏とか、あの……高二からしかクラス一緒じゃなかったから私は大したことは知らないけど、席隣だったりして見てたそういう部分がいいなって、ずっと思ってたから」
そこで引っ込めればよかったのだろうか。付き合ってほしいなどとは伝えずに、ただ好きだという気持ちだけを告げていればこんなことにはならなかったのだろうか。そう逡巡する度に、美宇ちゃんにそう弱音を吐きたくなる度に紗由季は心の中で首を大きく振る。きっと彼はどちらにしろ――私があの場で何を口にしたところで、かといって何か雄弁な余白を残したところで少しも私に靡きはしなかっただろう、だって「好きではない」のだから。そのことははじめて一日まともに二人で過ごしてみて、ごくシンプルながら改めて紗由季の理解の及ぶところだった。
何もしなければただただやんわりと離れていく筏を陸から何もせずに見守ることなど、本心を明かしてしまった後ではなおさら考えられないことだった。ただ繋ぎ止めるという行為にはその瞬間の必死さだけがあり、前後などはない。
男の子たちと遊びに出かけていたルームメイトたちがぞろぞろと部屋に帰ってきていた。美宇ちゃんは途端にてきぱきと片付けをこなし、夜の外気の寒さにやや頬を上気させている彼女らの話を聞きながらけたけたと笑った。紗由季はふと居心地の悪さを感じつつも、不思議とそんな風景の中に他人事のように今の自分を置いてみて、なぜか「悪くない」と思った。外で男の子となんて会って傷つくよりも、こうして女の子同士で秘密でも温めていたほうが平和なのだ。自分が往々にして僻んだ目で見がちな彼女たちにもきっといろいろ思うところがあるのだろう。男の子たちに期待していること、いないこと、起こった出来事、傷ついた(かもしれない)ことが。
「待って――この洗濯機動かないんだけどどうしよ」
未桜ちゃんが奥の洗面で叫んでいるのを聞いて、紗由季と美宇ちゃん、ほかのルームメイトたち総出で助けに向かった。
「あのさ……俺あんまこれ人に言ってないんだけど」
苦し気に言葉を詰まらせる彼に告白の返事は今しなくてもいい、と遮って、生まれた間に差しはさむ形で繁くんが話し始める。
「うん」
「俺今度……斉司と二人でセンター試験受け直そうと思ってて」
突然始まった脈絡のない話に思わずへえ、とから返事が漏れる。斉司くんは紗由季と繁くんのクラスメイトで学級委員を務めたりする、紗由季にはちゃきちゃきと明るくて感じのいい人という程度の印象だったが、それにひとつ付け加えるとするならば彼は同性人気の根強い繁くんへの好意を皆の前でもおおっぴらにする、いわゆる紗由季と「同担」の立ち位置にいる人物でもあった。だがそれに対する繁くんの反応は至極冷たいもので、その傍目には本気か男同士のなれ合いの一環としてか見分けのつけがたいいけずさも紗由季の目にはどこか魅力的に映った。
普段あれだけ冷たくしてたくせに、なんだ、そんな大事なことを一緒に頑張るような仲だったんだ……。
「え、でも受けられるの?」
ふと浮かんだ素朴な疑問をぶつけると、繁くんは急に少し慌てたように首を振った。
「いや、別に今の大学やめて受け直すとかじゃなくて。あくまでセンター試験をもう一回受けたいだけ……」
紗由季の反応を見て再び繁くんがしゃべり出す。
「あんまり今の大学、大学どこって聞かれたときにあんまり堂々と人に言えないっていうか……俺的に、なんだけど。」
紗由季が前期試験で受けて合格した大学を、繁くんも難易度が跳ね上がる後期試験で受験していたのを紗由季も知っていた。紗由季が実力で全く歯が立たず受験を見送った地方で一番の国立大学を前期で受けて失敗し、後期で滑り止まらずに紗由季たちの高校のOBが多く在籍すると言われる私立大学に通っていることも。
「そうなんだ……」
悲しいかな、紗由季の心は再び恐ろしいほどに凪いでいた。やはりこの人は、大人しく見えるけれどどこかで絶対に自分を譲れない人なんだ。自分ならもっとやれるはずと思ったら、思うだけでは済まされないでこうして動き出すのだ。やっぱり彼は……彼は――
「現役のときにもっとこうしてたらとか、自分でもっとやれたかなと思ってて。それで今勉強してて、冬の試験までに現役からどれくらい伸ばせるかやってみるつもりで」
「そっかぁ……私……は受けないけど、二人で頑張ってね」
「ありがとう」
視界の明るさにはっと目を開けると、部屋の電気はついたままで紗由季はひとりベッドで眠り込んでいたようだった。寝室にいるルームメイトたちのひそひそ声が耳につく。
「あ……紗由季ちゃん起きた」
「ごめんみんな……あたし、洗濯……途中で」
ふと布団の上に目をやれば、だれかがご丁寧にも畳んでおいてくれていたらしい紗由季の下着のパンツが載っている。それを見た瞬間にふと、一度会ったきりで告白の返事もしてくれない男の子からの通知を頭の片隅で気にすることなど、本当に無意味で馬鹿らしいことに思えた。彼女らとはほんの数日前に会ったばかりで、今はこうして一時的に寝食をともにしているが、ましてやその中のひとりは――おそらくは美宇ちゃんであろうが、たまたま洗濯を一緒に回した私のパンツをわざわざ畳んでおいてくれている。しかも私の寝ている間に、だ。なんて幸せなことだろう。
「いいよいいよ、寝てて」
班リーダーの侑李ちゃんが言う。ああ私の寝てる間に悪口でも言われてたのかも、でもパンツは畳んでくれてるし。……繁くんからこんなときに返信来てたりしないかな、「遅くなってごめん」って。今更来てたら嫌だな、どうせ来ていないけど。明日は今日街で見かけたファストフードのドーナツが食べたい、こんな思考がからからと無秩序に旋回しては、紗由季を再び少しずつ怠惰な眠りの淵に追いやっていった。
最終日の夜はパッキングが大詰めで、紗由季たちはふうふう言いながら小さめの本棚くらいの大きさはありそうな一週間分のスーツケースの中身を詰め直していた。アーケードの赤ちゃん用品店で一目ぼれして買ったくたくたとしたナマケモノのぬいぐるみは、最後までベッドの上に放り出していた。フライト時間はそこまで長くないものの行きと帰りの諸々とでほぼ一日を費やすため、一週間の旅程で実滞在日数は五日ほどだ。この五日間で私の心境は何か変わっただろうか、と屈んでいた身を一度起こして伸びをしながら紗由季は考えた。
さっきまでは紗由季と同じく四苦八苦していたはずの美宇ちゃんは、ふと目をやればいつの間にか作業を終えており、ベッドの上にその長い脚を投げ出して悠然と携帯を見ている。友達と連絡をとっているのだろうか。友達、そう考えれば私にはオーストラリアに行ったとて写真を送ってやりたいような友達が、わざわざその相手の分のお土産を買って行ってやりたいような友達のその顔が、あえて思い浮かばない。いるにはいるのだが、そういう気持ちにはならないのだ。もしかすると、そういう素朴な繋がりの希薄さが人として乏しいということなのだろうか。繁くんにも人として乏しいから振られた、そう考えれば合点がいく。
「紗由季ちゃん?」
侑李ちゃんがこちらを覗き込んでいる。気づけば、端の窓側に陣取った自分のベッドの上に座り込み、ホテルからのビル街をぼうっと眺めやっていた。
「大丈夫?ちょっと手伝おうか」
「え!……いいよいいよありがとう」
作業に戻りつつ、まだ何かを期待しているはずと思っていた自分が、実は既に「振られている」ことを受け入れかけていたことにまず驚いた。チョコレートスナックやキャラメルポップコーン、目覚ましい色のキャンディ詰め合わせ、現地のフリーマーケットで購入したカンガルーやコアラの巨大なマスコットのついたペン、通学用に買った洒落たリュック、等々、家族や自分のためだけに購入した品目の数々が、行きの荷造りの際過剰なほどに詰めてきた着替えの合間に雑に狭苦しく挟まる。
思えば、私と繁くんとは高校時代、友達と呼べる仲ですらなかった。その友達ですらない相手から急に誘われて、好きだ付き合ってくださいと言われても困惑するのが普通だろう。私が逆の立場ならきっと相手を疑い恐れすらする。しかし、そうだったとて返事は後日でいいと言われて、いつの後日のことかは知らないまでも、告白に対してひとこと返信をしてやるくらいの温情は特別なものだろうか。
紗由季にはわからなかった。
地下鉄からJRに乗り換えるとき、二人はちょうど紗由季の住む最寄り駅で降りた。そこから先は繁くんだけが電車に乗り換え、その駅から30分ほどはかかる郊外の住宅街で有名な最寄り駅まで帰るのだ。
「遠いところ来てくれてありがとう。ごめんね急に誘っちゃって」
紗由季は繁くんが自分の見慣れた近所に存在している事実に胸躍らせながら、どことなく安堵してその日何回目になるか疑わしいセリフを改めて発した。
「いや……楽しかったし。すごい、西友あるんだあそこに」
繁くんがふと少し遠目に淡く発光している「SEIYU」の看板に目をやる。
「そう。私もたまに買い物する」
「へえ……便利だな」
「でしょう」
西友の手前にある駅舎まで来た別れ際、他の乗り換え乗客の人波に紛れそうな繁くんに向かって、ひとこと、
「今日はありがとう」
と言った。紗由季がこの日繁くんに向かって発した台詞の中で、ある点一番心底から出たひと言だった。
「今日はありがとう」
返ってきたのも全く同じ台詞だった。
帰りのフライトは行きよりも短く感じた。数日前、成田空港で一緒に行動するメンバーと顔合わせをしたときはあれだけ心地良い一体感に包まれていたのに、解散となると寂しいものだ、と紗由季は思った。メンバーとの別れが寂しかったのではなかった。行きは、紗由季ら学生を取りまとめる主催者による、どこか強制された空気感というものがあり、紗由季もそれに乗っかっていれば良かった。だが、無事日本へ帰国してからは彼らの責任の範囲外であり、点呼で全員の確認がとれて以降はほぼ自由解散の扱いであった。紗由季のように班員の心づかいで孤立まではしなくとも、微妙な心理的壁を最終日まで壊せなかった学生にとっては、この各々に委ねられた別れの時間ほどいたたまれず厄介なものはなかった。
全日程行動班は別々だったが、同じ大学で空港から同じ方面の新幹線に乗る予定だった紗栄ちゃんの姿を探す。
「紗栄ちゃーん、帰れそう?」
ちょうど到着階ロビーで他の学生らとは少し離れたところに一人でいるのを見つけ、半分すがるような思いで捕まえると、今は別々だがどの班の誰々を待っているからもう少し待ってほしいとの返事だった。案の定と思って少し呆れながら、自分はもしかしてこう性格に可愛げのないところも良くないのかもしれない、と思う。――たとえばあそこで泣いているあの子。たかだか一週間一緒に過ごして、どうせ会いたければすぐ会える距離だろうに別れ際に泣く意味が分からない、私だってあれだけ好きだった人と今後一生会うことはないかもしれないと思いながら、別れ際に泣いたりはしなかった、でも彼はこういう小さな関わりでもいちいち心を動かして、素直に泣けちゃう子が好きなのかもしれない。知らないけど。
いたずらな考えを巡らせながらイヤというほど広い国際空港の片隅にあるガチャガチャコーナーを眺めて時間を潰した。よほど先に一人で帰ると言い出そうかと思い、そわそわし始めたころにようやく紗栄ちゃんから連絡が入った。久しぶりに開いたトーク画面。今ではもうだいぶ下のほうに追いやられている繁くんの、なんとなく女慣れしていなさそうな飼い猫アイコンの写真を開いて見た。彼は猫を飼っているらしい。この猫には何の罪もないが、つまりは猫好きな男はダメなのかもしれないと思うことにふと決めた。
『りょーかい!!今からそっち向かうね~』
紗栄ちゃんに返信してから、ほぼ無意識に紗由季は『友だち』画面を開いた。繁くんの名前をタップし、左にスワイプ。非表示もしくはブロック。一瞬、『ブロック』のほうに動きかけた指を留めて『非表示』を選択し、『非表示リスト』から迷わず『削除』を選択した。これまで非表示扱いにしてきた何の恨みもない人たちの名前の一覧から、しゅん、と彼の名前だけが消える。
「その後どう?例の言ってた人から返信来てたりした?」
「来ないよ。もう絶対来ない一生来ない」
「……そっか~。でもそうやって人に言っちゃうくらいだから、もうだいぶ自分の中でも踏ん切りついてそうだね」
「まあ……ね。でも、その『しげるくん』を見も知らない美宇ちゃんに話聞いてもらえたの、正直だいぶ助かった。あれがなかったら私、自分が本当は相手にどうしてほしいというか、どうしてほしかったのかもよくわからないまま相変わらずぐるぐるしてたかもだし、本当にありがとう」
「いやいや私はそんな、紗由季ちゃんが幸せになれればいいと思うし」
「本当に美宇ちゃんいい人すぎて独り占めしたくなるなあ。でもね、本当は連絡先消したくらいじゃ手ぬるいの」
その後結局は紗栄ちゃん以外のメンバーとも合流して、空港から東京行きの特急に乗った。そのうちの何人かは東京からまた地方行きの新幹線に乗り換えるらしい。美宇ちゃんはたまたま首都圏の人で、紗由季には幸運なことに彼女とも車内でもう一度会うことができた。
「えっ?」
「……いや、ごめん何でもない。それよりね、さっきこの車両がしゅーんって動き出したときにちょっと気づいたことがあるんだけど、それを聞いてほしくて。…………全然関係ないんだけど、関係あるの」
「なんだそれは」
「その人にね、告白したときになぜか全然関係ない、『もう一回センター試験受け直す』っていう話をされたって言ったじゃない?あたし、それね、急になんであんなこと言い出したんだろう、要するに勉強に集中したいから構ってるヒマないんだよねってことを言いたかったのかな、それをくみ取れずに返事を迫ったあたしがおかしかったのかなとかいろいろ考えたんだけど、さっき急にわかっちゃったんだよ。あれはきっと彼自身の告白だったんだね、って。よく考えたら彼とは友達っていう仲ですらなくて、そんな友達ですらない相手にさ、急にそんな個人的な、心情を吐露するようなことを言うのって、ちょっと不自然なんだよ。友達でだって相手を選ぶようなそんな話を、彼が私に急にしてくれたのって、私が先に突然心情を吐露したから、彼も何か同等のもので返さなくちゃいけないような気がして言ってきたんじゃないかって、そんな気がしてるんだ」
「なるほどねえ……それじゃ、その人もある意味紗由季ちゃんに大事な告白をしてくれたのかもね」
「そう。そう考えたら、なんとなーく、許せそうな気がしてるんだ。別に繁くんがひどいヤツだって言いたいわけじゃなくて、……まあ正直それもあるけど、あたしの至らなさというか、やったことの恥ずかしさとかも含めて……こう、オブラートに包める気がする」
美宇ちゃんが涼し気な美しい一重の目を細めて微笑んだ。
「……なんか、よかったね」
「うん。ありがとう」
少しして、美宇ちゃんは途中駅で下車していった。お礼に小さなチョコレートクランチを渡して、彼女とはたくさん丁寧なお別れをしたのに、いざ車両が動き出してからおもむろに連絡先を聞いていなかったことを思い出す。グループから追加するという手もあったが、今そこまでして具体的な何かを伝えたいわけでもなかった。
通路を挟んだ向かい側では、この中で唯一同じ大学の紗栄ちゃんと、紗由季も面識のなかった麻衣ちゃんという子のグループがまとまって座っている。
「あの、ちょっと隣いいかな」
クランチチョコの袋を片手にグループに近づくと、面識のないはずの子があ、紗由季ちゃん、と紗由季の名を呼んでくれた。
「
車内はガラガラだったが、勝手に席を替わっているのをときたま通っていく乗務員に見られては困るから、さっと立ち上がってチョコレートだけ全員に撒くように配り、すぐに元の席に戻った。紗由季ちゃんはまじめだねえ、名前が漢字一音ずつの子は大概まじめだから、などといういわれのない風評も今はどこか心に馴染んでいやな気はしなかった。
「まあ……――ねえ―――」
東京に着くまではまだまだ間がありそうだった。飛行機では轟音にまぎれて聞き取れなかったしゅう、しゅう、という車体の発するおおらかな音が、現在と過去とを少しずつ攪拌していくかのような不思議な秩序を持って、紗由季の耳に届いていた。
Y 真夕 @aul07machi
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