改護
@machidaryuichi
改護
勝者のいない戦場にいた。薄給で朝早くから予定のない高齢者を無理やり目覚めさせ、時には夜勤という呪いの二文字に施設に縛られて臭く騒がしい場所で忙しく働いていた。仕事をしているだけなのに拒否されて悲しんだり腹を立てたりそんな地獄のような毎日を送っていた。世話をする高齢者はベッドに寝たきりで屍みたいだった。彼らはもう成長しない。できない。それでも彼らは惚けた顔をして年金を貰って生き続ける。自分で死ぬこともできないから。彼らに生きている価値があるのかいつも疑問に思っていた。懸命に世話をしても時間が経てば消えていく。人間である限り彼らに残された時間は砂時計の砂のようにあっという間に落ちていく。寿命さえなければ永遠があるのにと夢想をした。必死にメモして覚えた手順は無用になる。手順の書かれたくしゃくしゃのメモ用紙を何枚もゴミ箱に捨てた。必死に覚えた高齢者の名前は記憶の海の底へと沈んでいく。そして新しい入居者が施設にやってくる。その繰り返し。介護をしていく中で仕事を頑張って生き続けても、いずれ僕もこうなるのかと思うと生きるのが辛くなった。生き続けても幸せになれる自信がなかった。そんなネガティブなことばかり考えていたら呼吸するのが下手になった。呼吸するのも面倒になった。だから他人に迷惑をかけて自殺して業火に焼かれても良いと思った。一方でこんな自慢にもならない思い出を後世に残しておきたいとも思った。自分にそんな承認欲求があったことに驚いた。SNSでつまらない投稿をしていた承認欲求に取り憑かれた奴を馬鹿にしていたはずだったのに。唯一、楽しかった時間は居酒屋で同僚と酒を酌み交わしていた時くらいだ。酒を飲みながら大変だとお互いに嘆いていたけど段々と自分がぬるま湯に浸かっていたような気さえするのは不思議だった。学生時代のような恋愛をしたくて仕事で稼いだなけなしの金と愛を注いだ。その女性は給料の良い仕事に就いていた。結局、僕は結ばれなかった。人はステータスが大事なのだと今更気づいた。僕は人より幼稚なのだと気づいた時には手遅れだった。これまで何も努力をしてこなかった。楽な方にばかり逃げていた。いくら嘆いて後悔しても意味はない。タイムマシンなんてない。詰んでいた。
そんな僕の前に一本の蜘蛛の糸が垂れた。逆転とは言えないけどリセットできるという意味では僕にとって良い話だと思った。自分自身も含めて誰も僕の将来を望んでいない。この人生を諦めてここではないどこかに行くのなら他人なんてどうでも良いし金なんていらないし腹も減らない。これからは音も光もあってないようなものだ。この足が、手が、目が、口が、耳がなくなるのだ。そう考えると恐ろしいがこれから見えない未来を生きるよりはマシだった。親不孝だったが僕が犠牲になれば親には多額の金が入るらしい。これでやっと親孝行ができる。これからは存在価値なんて気にしなくて良くなる。これまで世間体や他人の目にずっと怯えていた。知りもしない奴の視線が怖かった。社会で求められる椅子取りゲームが下手で周囲と比べられるのが嫌だった。それも今日で終わり。これから天国に行けるのだ。やっと僕は幸せになれるのだ。
だから僕は泣きながら人間を諦めた。そして、オリジナルになった。
*
平日の午前十時、高校一年生である僕、
加湿器の水蒸気で湿度を一定に保っている畳の部屋でベッドに寝たきりの祖父。目を細く開けて起きてはいるが仰向けで眠っているように見える。呼吸の音が聞こえなければ死んでいると言われても信じてしまう。耳は聞こえているかどうかわからないが声かけは忘れずに行う。
「じいちゃん、これからオムツ交換するからね」
声を掛けるが当然反応はない。ここで反応があったら要介護度5なんていう判定は出ていないはずだ。年々、介護士や老人ホーム、特に有料老人ホームは減少している。理由は新しくできた法制度にある。他の福祉サービスも値上げをしているので母親の給料だけでは苦しいそうだ。他の家庭も同じで在宅での介護を余儀なくされている家庭が多いのが現状だ。
リモコンを操作してベッドの高さを上げる。自分の腹辺りのところの高さで止めた。陰洗ボトルにお湯を入れてオムツとパッドを広げレジ袋と共にベッドの足元に置く。両手にはディスポと呼ばれる手袋をする。これで準備は万端だ。僕は祖父を奥の壁にぶつからないよう慎重に押し体位変換をした。
ベッド上で祖父の排泄介助をしているとピンポーンとインターホンが鳴る。客人を待たせるのも嫌なのですぐに出たかったが文字通り手が離せない状況だった。両手にディスポをしていて右手にはお湯の入った陰洗ボトルを持っており祖父のお尻や局部についた汚れを綺麗に洗い落としている。その後、陰先ボトルをお尻拭きに持ち替えて拭いていく。汚くなったお尻拭きはレジ袋に入れる。そして新しいオムツを当てていく。当て方はオムツの中心を背骨にあて身体の中心にしっかり合わせオムツのゴムの部分がウエストの位置に来るように身体の中心で押さえながら腰の中心から左右にオムツを伸ばす。腰の下にパッドをセットしたオムツを差し込み仰向けに戻ってもらう。足の間からオムツを縦半分に折った状態で引き出して広げる。鼠蹊部に合わせて左右に一度ずつオムツを引き、オムツの中心を身体の中心線に合わせる。下のテープを骨盤に沿って斜め上向きに貼る。上のテープはお腹に食い込まないように斜め下向きに貼る。日々祖父に負担がかからないよう時間をかけずにやっているがいつも以上に急いで作業を行なった。
少し待たせてしまったのでまだいるかどうか不安だったが鍵を開けて扉を開けたらその人はいた。ショートカットの黒髪に色白な肌、黒いスーツの上に茶色のコートを着た女性が微笑んで立っていた。
「天野倫也くん、だよね?」
確認と言わんばかりに名前を呼ばれる。その名前を聞いて僕は間を置いてから頷く。スーツ姿の女性は僕の様子を見てすぐに察したようだった。警戒を解こうとする。
「私は厚生労働省の
僕は振り返る。家にあげるのは構わなかったがオムツ交換を終えたばかりで部屋に便の匂いが充満しているので言葉に詰まる。その間を否定と受け取ったのか安藤さんは再度口を開く。
「お祖父様について例のお話などをしたいのでお願いしたいのですが、駄目ですか? 時間は取らせません」
重要な話をするから中に入れろということだろう。こちらに断る権利はなさそうだ。僕は大人しく首肯する。
「……わかりました。準備しますので少し待っていてください」
安藤さんは静かに頷いた。急いで部屋に戻った僕は閉めていた窓を開ける。冷たい風が入ってきてテーブルに乱雑に置いてあったチラシがパタパタと鳥のように舞い落ちる。換気をしながら床に落ちたチラシを拾い新聞紙やリモコンが雑に置かれたテーブルの上を整える。冷蔵庫を一度開けるが飲み物は安藤さんに聞いてから用意することにしようと思い玄関に行く。
「お待たせしました」
声を掛けると安藤さんは柔和な笑みを湛える。人間は大人になったら無機質な笑顔を作り出さないといけないのかと辟易しながら彼女を家にあげる。この家に他人が来たのは久しぶりのことだった。
「どうぞ」
「お邪魔します」
安藤さんは猫のように背を丸めて家にあがる。脱いだ靴を綺麗に揃えて端の方に置いた。リビングのテーブルについた安藤さんは祖父の方をじっと観察する。これも彼女の仕事の範疇なのだろう。そんな彼女に構わず僕は声を掛ける。
「安藤さん、何か飲みますか?」
「お構いなく」
無理に勧めても迷惑だと思い僕も席に着く。対面にいる安藤さんは早速鞄から茶封筒を取り出す。中には書類がありそれを一枚、僕の前に置く。そして安藤さんと目が会う。目を逸らす僕に彼女は単刀直入に聞く。
「倫也くんはお祖父様を介護して三ヶ月になるよね?」
「はい」
もうそんなに経ったかと僕は思った。意外と早かった。非日常が日常になるのにそんなに時間は掛からなかった。これは介護を実際にした者にしかわからないはずだ。
「お疲れ様でした」
安藤さんは労いの言葉を僕にかける。その言葉を聞いても安易に喜ぶことはできない。これから残酷な選択をしなければいけないことを既に知っているからだ。
「制度についての説明は必要ですか?」
僕は首を横に振る。祖父の介護をする前から制度については理解していたので今更説明されても時間の無駄だ。手間が省けて良かったのか、まったく別の意味なのか安藤さんは微笑んでいる。
「それなら話は早いですね。高校生の君にとっては難しい選択かもしれないけどよく考えて決断してください」
これから僕がやることはただ一つ。それは祖父の生死を決めることだ。ベッドに寝ている祖父の運命がこれから決まるのだ。
高齢化が進み過ぎてしまった現在の日本では条件付きで高齢者の安楽死が認められている。その条件というのが三ヶ月の介護をすることだった。そして高齢者の生死は三ヶ月後、介護を主に行なった者が決断するというルールになっている。介護者に年齢制限は特にない。ただ年齢が低い介護者は滅多にいないし、いたとしても安藤さんのような人間が手厚いサポートをしてくれるので問題はない。
「大変だったでしょ。学校にも通えなくて」
苦労に共感するように彼女に言われて僕は苦笑する。
「そんなに学校が好きなわけではないので良い口実でしたけどね」
「そんな口実も今日で使えなくなるわ」
ニッコリと笑顔を貼り付けているが声音には冷たさを孕んでいる。将棋で大手を掛けたように安藤さんは自信満々に言った。自分の優位性を疑っていないような安藤さんに僕は誰にも相談せず自分だけで出した結論を伝える。
「祖父に安楽死はさせません。これからも僕が責任を持って介護します。制度上でもその権利は認められているはずです」
予想外だったのか安藤さんは目を丸くしている。それもそのはずこの制度が施行されてから高齢者の安楽死を選ぶ介護者は八割を超えている。それに加えて僕は高校生だ。常識で考えて高校生活を捨ててまで介護をするメリットがないと思ったのだろう。
安藤さんは溜息を吐くのを堪え、両指を組む。
「制度上では認められていることですので私から強くは言えませんが、この制度ができた背景を高校生の君なら想像できるでしょ。想像できていてその判断をしているなら少しは私からも言えることがあります」
この制度ができた背景を考えろ。それは税金が多くかかり生産性のない高齢者がいらない存在だと言っているようなものだ。だからせめてもの情けで三ヶ月の介護期間を定めた。その間にお別れを済ますようにと言わんばかりに。勿論、僕は祖父とお別れなどしたくないしするつもりもない。これからも介護を続けて祖父の側にいることを望んでいる。祖父想いの普通の孫ならそうする。しかし、僕の決断を安藤さんは諭そうとしているのだ。
「大人でも子供でも時間は有限です。そして若い時の時間は何倍も大切です。今はわからないと思うけど本当に大事なの。だから倫也くんには自分を大切にして貰いたいの」
介護をしていたら自分を大切にしていないのと同義のように扱われてしまう。そんな可哀想な人間になるなと安藤さんは言っている。
「もう決めたことですから」
大人に説得されても僕の想いは変わらない。一度決めたことを最後までやり遂げる。褒められることをしているはずなのに怒られているような気分だった。
安藤さんは溜息を吐いて僕の前に置かれた書類を回収して鞄に入れる。どうしてわからないのだろうかと言いたげに僕を見る。視線を向けられるが僕は目を逸らしてベッドで寝ている祖父の方を向いて言う。
「これが天野倫也の決断です」
「そう、それならこれ以上は言えることはないわね」
呆れたのと諦めたのが混じったような様子で呟き安藤さんは立ち上がる。フローリングの床を椅子の四本の脚が擦り、音がする。その音が僕を叱っているように聞こえた。
「また来ます」
安藤さんは短く言ってすぐに帰っていく。
また来るのかと思ったけど仕方がない。僕が決断したことは社会から見れば間違っているのだから。そんな社会を僕は否定するつもりはない。だけど、僕にはまだ時間が必要なのだ。
玄関で安藤さんを見送った僕は祖父の介護に戻る。リモコンを操作してベッドの頭の部分の角度を四十度上げて自分と祖父との距離を近づけて水分補給をする。冷たい緑茶にとろみ剤でとろみをつける。すぐに混ぜないと固まってしまうので注意が必要だ。とろみ剤が綺麗に溶けた緑茶をスプーンで掬って口に運ぶ。ほとんどは口から溢れてしまうが諦めずに口に運び続ける。
「冬でも水分は取らないとね」
高齢者に対して冬にどのくらい水をあげれば良いのか植物を育てるのと同じような悩みを抱えている。今の祖父は植物状態に近い。それでも命の火は微かに燃えている。僕はそのゆらゆらと揺れる火をもう少しだけ眺めていたい。
僕は灰色のパーカーの上に黒のコートを着て買い物に出掛ける。あまり遅くならないように気をつけているのでいつも近くのスーパーにしか行かない。白のスニーカーを履いて爪先で地面を一度叩いてから扉を開ける。階段を降りてマンションを出ると冬の寒さを肌に感じる。歳を重ねたらこの皮膚はきちんとこの寒さを感じてくれるのだろうかと思ったがすぐに意味のない思考だと気づく。
コンクリートの道を歩いているとマフラーを持ってこなかったことに後悔する。頬と首元に痛いくらいの冷たい風が当たっている。こんな日はラーメンを食べたくなる。買い物をしたら昼ご飯に丁度いい時間だ。食べて帰るかと思ったがすぐに駄目だと首を横に振る。
祖父を放っておく訳にはいかない。安藤さんに会ったばかりで適当な介護を祖父にしてしまえば彼女や国の思う壺だ。祖父は荷物ではない。背負っているのではない。共に生活しているのだ。
ポケットにしまってある手を握って拳を作る。微かな熱を生み出してくれる。少しすればその熱は消えすぐに冷える。カイロも持ってくれば良かったとまた後悔した。
鳩が目印のスーパーに辿り着きメモしておいた商品をカゴに入れる。カートを押せばカゴの中の商品が少し揺れる。たったそれだけのことに足を止めてしまう。生まれてから揺れるということに敏感になっている。
自動レジに並び順番が来たら清算をする。今時珍しいが僕は現金派だった。
横目で車椅子の人が買い物しているのを見てからサッカー台で袋詰めをする。前はエコバッグというものがあったらしいが誰かが無駄だと言い始めてなくなった。無駄だと最初から気づけない、気づいたとしても言い出せない空気というものが人間同士にはある。とても退屈だと思う。
買い物を終えて帰路につく間、もし祖父がいなくなったらどうなるのか想像してみる。とりあえずは高校に通い勉強して偏差値の高い大学を目指す。放課後や休日は友達と出掛ける。彼女を作ってデートをする。想像してみたが結局どれも他人の人生を盗み見ているような気分になるだけだった。
買い物袋を持ってマンション前に着き三階まで階段を上がる。階段から一番近い角部屋が僕の住んでいる家だった。コートの深いポケットから鍵を取り出して鍵穴に差し込む。それを回し中に入る。
真っ先に確認するのは祖父のこと。祖父は買い物に行く前と体勢を変えずに仰臥位で眠っていた。鼻を近づけて匂いの確認もするが特に悪臭はなかった。諸々の確認を終えてから洗面所で手洗いうがいをする。手洗いは介護をしているので人より多くしている自信がある。なんの自慢にもならないが。
台所で昼食の準備をする。準備と言っても国から栄養がバランス良く取れるゼリー状の特殊な介護食を貰っているのでそれを皿に出すだけだ。このような経費も削減したいから国は高齢者を排除しようとしているのだ。
「じいちゃん、昼ご飯だよ」
声を掛けながらベッドの頭を上げる。角度を四十度ほどにする。水分補給や食事の時はこれくらいが良いのだ。角度を付けすぎても負担をかけてしまう。
祖父から返答はないがスプーンでゼリーを掬って口に運ぶ。お茶と同様に溢れても気にせずまた口に運ぶ。目は微かに開いているが起きているかどうかの判別は難しい。食べている途中で目を覚ますということも多々ある。僕は祖父の肩を軽く叩く。
「じいちゃん、口を開けて。あと目も」
祖父の目は開かず口も動かずゼリーは口の端から溢れ続ける。透明なゼリーをティッシュペーパーで拭きとる。祖父の食事はこれで終わりだ。短い食事が続いている。
時計を見ると正午だった。
「僕も飯にするか」
今頃、高校では仲の良い者同士で席をくっつけて弁当を食べているのだろうか。そんなことをふと思った。
*
翌日、高校の担任が家にやって来た。長身で痩せている黒縁メガネをかけた先生だ。介護をして不登校の僕を学校に登校させたいのだろう。あと数ヶ月で進級なのに問題児を抱えた教師は大変だ。
先生を家にあげた僕はポットでお湯を沸かしコーヒーを淹れる。コーヒーはオリガミと呼ばれるものをカップにセットしてお湯を注ぐだけなので楽だ。コーヒー粉が入ったオリガミパックは冷凍庫で保存をしている。
コーヒーの入ったカップを先生の前に置くとありがとうとお礼を言われる。これくらいのことで感謝はいらないと思った。
「天野は偉いな。若いのにお祖父さんの介護をして」
年齢は関係ないはずだが介護をしていると偉いとか優しいとかそんな風に扱われる。嫌々やっている訳ではないのに他人から見れば押しつけられているように見えるのだろう。
「……高校には来れそうか?」
先生はコーヒーを一口飲んでから本題に入る。僕は猫舌なのでコーヒーがある程度冷めるまで待つので話を聞くには丁度いい。コーヒーが冷めるまでに話が終わることを願いながら僕は口を開く。
「祖父の介護があるので難しいです」
「そうか。しかし、高校は義務教育ではないから出席日数が足りなければ退学になってしまう。それはわかるよな?」
退学という言葉を担任から直接聞いてその事実が身近に迫っているのだと実感する。それでも僕は祖父の介護を辞める気はない。辞めてはいけない。退学なんて怖くない。
「お祖父さんの介護をしていることは素晴らしいことだ。でも、天野にはこれからの未来がある。その未来のために今は助走をつけないといけない。就職にしても進学にしてもそれは言えることだ。その助走をつけるための学校だから登校することを俺は教師ではなく一人の大人として薦める」
強制ではなく僕の意思に任せては貰えるようだが教師も僕が間違った選択をしているように思っているようだ。僕のことを考えてくれているようだがその言葉が響いてこない。むしろ批難されているように聞こえる。
家族の介護は仕事と同等ではないのかと思ったが大人は自分が正しいと思う節があると僕は思っているので素直に頷く。噛みついたところで良いことはない。
「わかりました。高校には行けるようにしますので。迷惑かけてすみません」
「そうか、それなら良かった」
僕の言葉を聞き先生は安堵した様子で言う。きっと自分の仕事が一つ片付いたからだろう。そんなことを会話中に考えていると吐き気がしてくる。人間は無意識に自分のことしか考えられない、やはり愚かだ。
用件がそれだけならさっさと帰って欲しいと思ったが担任はなかなか帰らない。コーヒーがまだ残っていることもあったが目的がわからない。高そうな腕時計をちらりと見てから先生は口を開く。
「天野、俺にできることがあれば言ってくれ。力になるから」
そんな綺麗事を聞くと胃から酸っぱいものが込み上げてくる。アンタにできることなんてない。できるのは今飲んでいるコーヒーをさっさと飲んでこの家を出ることだけだ。
「ありがとうございます」
感謝の言葉を適当に言う。それと同時に教師は無責任な動物だと思った。介護もしたことはないだろうし何も解決できないのだから自分の仕事だけやっていれば良いのに。
教師が帰った後、一本の電話をしてから僕は冷め切ったコーヒーを飲む。コーヒーは僕の心と同じくらいの温度になっていた。
*
翌日の午前八時、僕は未だに慣れないローファーを履き高校に向かった。今日は母が有給を使ったのだ。しかし、母が祖父を介護することはない。家で持ち帰った仕事をするらしい。
昨日の夜から祖父には施設に行ってもらっている。急で申し訳なかったが学校の先生をあまり困らせるのも良くない。それに母親と同じ空間にいさせておくのも危険があると思ったから仕方ない。
外に出て冬の曇り空を見上げる。曇り空は快晴よりも落ち着く。あまり無理をするなと言っているようだから。
母は僕に祖父を安楽死させることを求めていた。口では言わないが行動を見れば嫌でもわかってしまう。実の父親にそんな扱いができるのかと父と関わりのない僕にはわからない。わからないからこそ僕は介護をできているのかもしれない。知っている者を介護することは恐怖心が芽生えるものだ。知らなければ、仕事として淡々と熟せるというのに。
ゆっくりとローファーで地面を叩き通学路を歩く。人間は忘れる生き物なので道を覚えているか不安だったけど忘れてはいなかった。
「おはよう」
声のする方を向くとそこには同じ学校の制服を着た少女がいた。高校も距離的には近いので制服姿の少女がいることに不思議はないが僕に声を掛けてきたのは意味がわからない。だから無視して歩き出す。
「天野くん久しぶりの登校だよね。私、同じクラスの佐倉(さくら)由美(ゆみ)。ホームルーム長もしているから何か困ったことあったら言ってね」
名前を呼ばれたので無視することができなくなった。それにしても僕のことなんてよく覚えていたな。教師の差金か。それなら納得がいく。大方、友達のいない可哀想な生徒を保護して欲しいとでも頼んだのだろう。余計なお世話だなと思いつつ愛想笑いを浮かべる。
「正直、今戸惑っている。知らない女子に話しかけられているから」
「知らない女子って酷いなぁ。天野くんのクラスメイトなのに」
彼女は頬を膨らませる。表情豊かだ。僕はいつも無表情なので正反対だなと思った。
「あまり学校に行ってないから許してくれ」
「わかった、許す。その代わり私の友達になって」
脈絡がなく友達になって欲しいと言われ困る。僕には友達がいないがそれは友達が必要ないから作らないだけだ。一人は楽だ。相手に合わせなくて良いし、人間関係での大きな失敗がない。人と関わることはリスクを伴うことだと知っているから僕は首を横に振る。
「遠慮しとく」
本心を伝えたのだが彼女が離れる様子はない。よく見ると綺麗な子だった。手入れされている長い黒髪に雪のように透き通っている肌。作りものみたいだ。明るくコミュニケーション能力も高そうだから男子からモテるだろうなと思った。そして他人を綺麗だと思う感覚が自分にあることに驚いた。
高校は坂を超えた住宅地の広がる場所にある。道路を挟んだ反対側には中学校もある。だから近隣住民から苦情も多く来ているそうだ。未来ある子供たちの騒ぎ声でも我慢できない人には我慢できないらしい。
学校には無駄が多いと思う。意味のわからない校則は多々あるし、長時間拘束されるのに将来に必要なことは教えてもらえない。学校でやることは思い出作りなのだろうか。もしそうなら僕が学校に来るメリットはない。
「天野くんはなんで学校を休んでいたの?」
「祖父の介護をしていたからだ」
それ以外の理由はなかった。勉強や青春よりも僕にとっては大切なことをして過ごしてきたのだ。誰にも文句を言われる筋合いはない。
「そうなんだ」
「つまらない理由で悪かったな」
「つまらなくないよ。むしろ、面白いよ」
「いや、面白くないだろ」
適当なことを言う女だと思った。しかし彼女は介護をしている僕を偉いとは言わなかった。言い忘れただけかもしれないがそのことが妙に心地良かった。そして彼女と並んで高校まで歩いた。
白い校舎が見える。眠い目を擦る生徒を起こすように鐘が鳴り響く。部活の朝練終わりだろうか、急いで制服に着替える生徒も見かける。そんな彼らとすれ違い昇降口に吸い込まれるようにして僕たちは学校に入る。ローファーを上履きに履き替え階段を上がる。校舎は四階建てで教室は三階にある。
教室に入ると僕の席は窓側の一番後ろにあった。あまり学校に来ないから邪魔ではない場所にしていたのだろう。そんな配慮に心の中で感謝して席に座る。
好奇の目に晒されるが誰も声は掛けてこない。今更学校に来た男に用のある奴なんていない。僕は窓の外を眺める。曇り空は続いていた。
時計の長い針が動いてホームルームの時間を指すと談笑していた生徒たちは大人しく席に着く。前の扉がガラガラと音をさせて開き先生が現れる。教卓の前に来た先生は僕の方をチラリと見て微笑んでいた。それからは何事もなく学校の中での時間が進んでいく。
青春コンプレックスを抱えた僕にとって久しぶりの学校は辛いものだった。お弁当は一緒に食べる人がいなくて孤独だったし授業の内容は全くわからなかった。友達なんて必要ないと思っていた僕も孤独は嫌なのだと実感した。いつかラジオで聴いたバンドが語っていたことを思い出した。コンプレックスは想像の源だと。友達を想像で作れたら良いなと本気で思ってしまった。あのバンドを最近見ていない。干されてしまったのだろうか。女癖が悪くメンバーのクセも強かったからな。そうやってマイナスの理由づけをして入れ替わり続けて時代は変わっていくということか。
帰り道にカラカラと空き缶が転がっていた。ひとりぼっちで僕は家路につく。一日行っただけで学校が嫌になった。明日からはまた介護に専念しよう。僕の役割なのだからそれでなにが悪い。勉強よりも立派なことを僕はしているのだ。そう自分に言い聞かせた。
今日は家に帰っても祖父の介護がない。そのことを思い出すと僕はその場に蹲ってしまう。胸の辺りが痛い。熱い。呼吸ができない。なんだこれ。知らない感覚が焦りを生む。こんなことは今までなかったのにもう時間ということか。
時間が経てば胸の痛みもおさまり立ち上がることができた。僕は安堵する。
「大丈夫?」
後ろから小走りでやってきた佐倉さんが僕を心配そうに見る。これくらいで大袈裟だなと思いつつも心配してくれたことは素直に嬉しかった。
「大丈夫。心配してくれてありがとう」
僕は歩き出す。これ以上心配されても返せるものがないから。早歩きで進むがそんな僕に彼女は走って追いついてくる。スカートが揺れる。そんなこと気にしている様子はない。彼女は責任感が強いのだろう。久しぶりに学校に来た男を親身になって気遣っているのだから。たまらず僕は口を開く。
「本当に僕は大丈夫だから」
「大丈夫じゃない人ほど大丈夫って言いがちなんだよ」
「他の人はそうかもしれないが僕は違う。大丈夫だから大丈夫と言っている」
例え大丈夫じゃなかったとしても大した問題ではない。僕がいなくても困る人は少ないのだから。決して過小評価なんかではない。僕以外の人もそうだ。いなくなっても困る人間は少ない。その人がいなくてもまた別の人が代わりになる。そうして社会はまわっている。
「天野くんは一匹狼だね」
一匹狼。孤高の動物に例えてくれたが僕はそんな格好良い存在ではない。本当は群れたくて群れる能力のないただの無能。それでも存在意義があるから自殺を考えなくても良い生活を送れている。滑稽な幸せ者だ。
「それは君の方だと思うけど」
「私? 友達ならいるけど、なんでそう思うの?」
「浮いた腫れ物に触れているから」
そして、そんな状況に気づいていながらそれを続けているから。そんな言葉を伝えると彼女は満足そうに微笑む。自分の作った謎を名探偵が綺麗に解いてくれたように。
その理由を語ることなく彼女は唐突に言う。
「人間には役割があるとは思わない?」
「役割?」
「そう、役割。正義感の強い人。多少強引な悪でも受け入れてしまう人。何もしない人。どれも大切な役割だと私は思うの。誰も欠けてはいけない」
僕的には何もしない人はいらないのではないかと思ったが彼女の強い眼差しを感じて頷くことしかできない。
「だから平等を謳う。平等なんてないと皆が知っているはずなのにありもしない平等を掲げる。そう言っている方が楽でお得な人がいるからね。でも私、それは間違っていると思うの。だってそうでしょ、役割が違っている時点で人間でも違う存在なんだから」
言っていることはわかるので僕は相槌を続ける。それに口を挟めないくらい彼女は真剣な様子だった。
「だけど時々、その役割を勘違いしてしまう人がいる。何もしない人は何もしなくて良いのに勝手に動いて関係ない人まで巻き込み危害を加える。そんな悲しい事故が起きてしまう。だからそれを正す存在が必要だとは思わない?」
「神様とか?」
「うーん、ちょっと違うかな。バランスを保つための調整役がしっくりくるかな」
彼女は苦笑していた。的外れなことを言って悪いなと思った。
「話が逸れたけどさ、私が君にお節介を焼いているのは役割を意識しているから。優秀で面倒見の良い女の子。それ以上でもそれ以下でもない。だから勘違いしないでね」
勘違いなどするはずがない。勘違いしたくても僕にはそれができないのだ。そして彼女の価値観に僕はとても共感した。
「学校に来る楽しみができたよ」
「お世辞が上手いね」
お世辞なんかではない。嘘偽りなく僕は彼女を尊敬した。それを彼女と共有することはきっとできない。そこにもどかしさを覚える。
「はい! シリアスな話は終わり。だからこれからカラオケ行こう!」
明るい調子で彼女は元気一杯に言う。シリアスのカタカナ四文字ということだけで連想したらしい。坂を下っていけば近くにカラオケ店があるのでそこに行こうとしているのだろう。
「カラオケなんて行ったことないから」
そう言って断ろうとするが彼女は首を横に振る。その仕草が少しムカつく。
「初体験を大切にしないと駄目だよ。人生一度きりなんだからさ」
人生一度きり、その言葉が僕にはしっくりこなかった。人生なんて彼女の言った通りで平等じゃないし、寿命が尽きる年月にも偏りがある。だけどそれは言わずに僕は頷く。
「……そうだな」
彼女の口車に乗って僕たちはカラオケ店を目指した。
*
真っ赤な薔薇のような外観のカラオケ店に入店した僕たちは早速無人レジに置いてあるタッチパネルに情報を打っていく。主に操作をしているのは佐倉さんだが初めてのカラオケに僕は早くも心躍る。意外と僕は単純な人間なのだと他人と関わって学ぶ。
「それにしても高校生でカラオケが初めてなんて珍しい人だね」
「別に良いだろ」
今まで来る機会も一緒に来る相手もいなかったので仕方ない。まさか初めてのカラオケが異性となんて思いもしなかったが彼女には警告をされているし、僕なら間違いも絶対に起きない。彼女も安心しているから密室でも平気なのだろう。
モニターで部屋番号を確認してから階段を上る。螺旋状になった階段で三階を目指す。
三階にあるドリンクバーで僕はコーラを注ぐ。彼女はメロンソーダだった。ドリンクバーに一番近い301の部屋が僕たちの部屋だった。換気の為か扉は開いていて電気を付け部屋の中に入る。
部屋内にはL字のソファと黒の長テーブルがある。マイク二本とタッチパネルをテーブルに置く。そしてコートを脱いでハンガーにかけた。
ソファに少し距離を空けて座る。彼女は奥側で僕はドリンクを取りに行きやすいように扉近くに座った。
「どっち先に歌う?」
「佐倉さん先に歌って良いよ」
カラオケで順番がそこまで重要なのか疑問に思ったが彼女の方がカラオケの知識は豊富だと思うので彼女に譲る。どんな感じなのかを知ってから歌おうと思った。
「そんなに私の歌が聴きたいんだね。仕方がないなぁ」
ご機嫌な様子の彼女に僕は頷く。彼女の歌を聴きたいとは思っていないが彼女に合わせた。佐倉さんはマイクを手に持ち片手でタッチパネルを操作して曲を予約する。曲名が表示されてイントロが流れる。アイドルの歌らしいがアイドルに疎い僕は知らない曲だった。
音程のバーに合わせ彼女は歌う。歌声と共にバーの上下に赤と黄色のラインが現れる。こぶしやしゃくり、ビブラートなども時々現れるが全体的に抑揚がなかった。
佐倉さんの歌声は普通だった。音程は大体合っていたし下手とは思わなかった。点数も平均点を超えていた。けれど、特別上手いとも思えなかったのが正直な感想だった。
「私の歌、どうだった?」
「良かったよ」
「天野くんは嘘が下手だなぁ。顔に普通って書いてあるよ。まあ、本当のことだから良いけどさ」
少し悔しそうに言ってから彼女は俯く。それについては申し訳なく思って僕はマイクを手に取る。僕の下手くそな歌を聴いてもらって励ましになれば良いなと思った。
「昔の歌だ」
佐倉さんは僕が曲を予約した瞬間そう呟いた。僕が選曲したのはとあるバンドのデビュー曲だった。何かで聴いてハマったがそんな昔の歌だっただろうか。むしろ新しい曲を選んだつもりだったのだけど。そう思いつつ僕は歌い始める。
マイクを持つのは緊張がする。だけど口を開けば頭に血が上って目はいつもよりクリアに見える気がした。介護では味わえない熱を僕は感じていた。
結果として初めてにしては音程が合い高得点が取れた。
「天野くんって歌上手いんだね」
自分ではそうは思わなかったが僕の気を引く必要のない彼女が言うならそうなのかもしれない。自惚れることはないが素直に嬉しいのでそれを誤魔化すためにコーラを飲んだ。
「カラオケに来たのは本当に初めて?」
僕は天に誓って頷く。彼女は疑いの眼差しをすぐに尊敬の眼差しへと変える。目がキラキラと光っていた。
「凄い才能だよ! 天野くん、歌手になれるよ。目指そうよ!」
歌手。その職業がいかに難しいことか大した知識のない僕にも簡単に想像ができた。僕は首を横に振って言う。
「無理だよ。実力も自信もない」
センスや努力、カリスマ性、そして何かを伝えたいという想いが必要なのは知っている。それが僕には欠けている。
「私が保証するよ。天野くんは絶対に歌手になれる。絶対に」
絶対なんてあるわけがないのに彼女に言われるとそんな気も少し出てきてしまうのが怖い。ただのクラスメイトに歌を褒められただけなのに。
「僕の将来を勝手に決めないでくれ。それに僕はこれからも介護をするから歌手にはならないよ」
僕の進路、正確に言えば生き方は決まっている。それが覆ることは決してない。だから実力があろうとなかろうと僕は歌手になれないのだ。
「そっか、残念だな」
とても残念そうに言う彼女に申し訳なくなったので僕は適当な軽口を叩いてみる。
「転生したら売れっ子のバンドマンを目指してみるよ」
僕の冗談に彼女は笑ってくれなかった。やはり僕にはコミュニケーションが向いていないのだと思った。
*
ベッドに入ってから自分が死んだらどうなるのだろうかと考えることがよくある。電気が消えた真っ暗闇の中で死を連想してしまうからそんなつまらないことを考えてしまうのかもしれない。人間の寿命は長いようで短いのだからさっさと眠って明日を快適に過ごした方が賢明だ。それでも悲しんでくれる人がいるのか、今まで得た記憶はどうなるのか。来世はあって僕はそれに乗れるのだろうか。そんなことを考えてしまう。今まで生きてきたのに記憶や軌跡が全部消えてしまうのは僕なんかでも勿体無い気がして残しておきたいなと思うけど残し方が日記、写真や墓という誰でも考えつきそうなものしか思いつかないから諦めて眠ってしまうことが多い。諦めないで思考を続けても眠気がきてそれに耐えて考えても良い案なんて出なくて僕の頭は良くないのだとわかってショックを受けてしまう。お豆腐メンタルなのだろう。やはり僕は介護をするくらいが丁度良い存在なのだと改めてわかって僕は目を閉じた。
夢を見た。とある知らない男の夢を。
彼は介護士だった。朝から晩まで働き、寝ない日も多くあった。線が細く笑顔が下手くそな純粋で優しい男だった。彼は必死に高齢者のために動いていた。高齢者を乗せた車椅子を押して素早くベッド上でオムツ交換をしていた。汗だくになって入浴介助もしていた。食事介助は少し苦手そうだった。
僕は彼に声をかけたくなったが声が出なかった。喉にロックがかかっているようだった。夢の中だと自分は声を出せないものなのだろうか。代わりに彼の低い声は聞こえた。
「やっと終われる」
作業が止まり彼はそう言っていた。介護の仕事を彼が辞めたがっているのだとすぐにわかった。辞めたいなら辞めれば良いと僕は思った。でも、彼には叶えたい夢や求めたい幸せがあった。必死に手を伸ばしてそれらを追いかけていた。でも、僕にはそれが雲を掴むような様子にしか見えなかった。現実的ではない、非合理だ。そんな感想しか抱けなかった。
夢だとわかっているのにその夢は地獄のような内容だった。僕は彼が早く、介護を辞められることを願った。
朝になり僕は目を覚まして、いつも通り介護を始めた。
*
一ヶ月後、夕方に厚生労働省の安藤美月が再びやって来た。祖父の安楽死を断った僕の様子を確認しに来たのだろう。顔はいつも通り笑顔だったが不気味さを感じる。家にはあがらず玄関で立ち話をする。手短にしてくれるとありがたいと思った。
「その後、お祖父様の介護はどうですか?」
あまり興味なさそうに質問されたのでこちらもそっけなく答える。
「特に変わりません」
「そうですか。学校には行けていますか?」
「前よりは」
「それは何よりです。学生の本分は学業ですから」
その棘のある言葉を僕は微笑みでかわす。僕もそろそろ大人の対応というものを身につけないといけない。
「介護に疲れてはいませんか?」
何を言うかと思えばそんなことを今更聞いてくるのか。僕にとっては生きていて息をしているのが辛くないかと聞かれているようなものだ。
「疲れるはずがありません」
きっぱりとそれだけ答える。自分の中で苛立ちを感じる。高齢者を支援する立場の厚生労働省の人間がそんな心持ちなのだから。どうしてそんな人間がこの仕事をしているのだろうか不思議でならない。
「そうですか。疲れたら言ってください、相談に乗りますから」
そうなることはあり得ないがとりあえず頷いておく。
「それでは私はこれで、介護頑張ってくださいね」
「言われなくても頑張りますよ」
彼女は微笑む。その笑みが冷笑に見えたのは気のせいか。気のせいでないのなら彼女は僕の何を嘲笑っているのか少し興味があった。しかし、その笑みの意味は聞けずに彼女は去っていく。また来ます、と言葉を残して。
その後、いつものように祖父を介護していると母が仕事から帰ってくる。いつも彼女は疲れた顔をしている。生きているのが辛そうに見える。祖父が家にいること自体が重荷になっているらしい。
「お帰りなさい。お疲れ様」
オムツの後片付けをしていた僕を見てすぐに母は洗面所に向かう。介護をしている僕が嫌なのだろう。なぜ安楽死の件を断ったのかと思っているのだろう。そのことについて夜遅い時間だけどこれから話し合おうと思う。
着替えてリビングにやってきた母は冷蔵庫の中から缶ビールを取り出す。プルタブを開けてゴクゴクと音をさせて飲む。仕事終わりに飲むビールは美味しいのだろうか興味があった。そんな彼女に僕は問いかける。
「ねえ、介護をする気はない?」
唐突に僕が言ったので母は反応に遅れた。そしてなにを言われたのかを理解してすぐに顔を赤くして僕に詰め寄る。手に持っていた缶は少し潰れている。投げるかと思ったがそのまま缶を握りしめたままでいる。
「するわけないじゃない! そもそも貴方が安楽死を拒否したから介護が続いているんでしょ! 貴方が責任取りなさいよ!」
「ごめん」
僕は俯いて謝罪の言葉を漏らす。本当は悪いなんて思っていない。こんな言葉に意味はないけれど彼女を落ち着かせられるならそれで良い。
「ごめんじゃないでしょ!」
ごめん、なんていう言葉では激昂した母をもう止められないと僕は思った。それなら僕も覚悟を決めないといけない。もう少しだけ時間をかけてみたかったが彼女の様子を見ればそれが正解ではないことはわかる。
僕は深呼吸をした。
「わかった」
「何がわかったのよ」
母は僕を睨みつける。僕はそれに微笑みで応える。なんでこんな余裕があるのかと聞かれたら覚悟をしたからと答えるしかない。腹を決めた時、人は恐ろしい顔ができる。もしかしたらその顔がその人の本当の顔なのかもしれない。
「僕に任せて」
きっと今の僕の目は死んだ魚のようなのだろう。僕は憎しみと悲しみを込めてそれだけ言ってお風呂に向かった。スポンジを手に取って強く握る。これから入念にお風呂を掃除するのだ。これまでの感謝を込めて。
*
ある日の放課後、僕は佐倉由美に告白をされた。夕暮れの教室のせいか彼女の頬はほんのりと赤く見えた。確かにカラオケの他に映画館や水族館などに遊びに出かけたがそんな関係性を求められるとは思わなかったので驚いた。彼女に予防線なども張られていたので尚更だった。
僕は恋愛を知らない。知ったところで意味がないから知ろうともしない。介護に活かせるものでもないから学ぶ気にもなれない。
グラウンドからはバットが奏でる金属音が聞こえてくる。それを追うように近くの音楽室からは吹奏楽部の奏でる『宝島』が聞こえてくる。
「駄目かな?」
上目遣いで確認されて思わず頷きそうになってしまうがこれから僕がすることは既に決まっていた。人間ならドキドキできるのだろうが僕にはできない。僕はこれから彼女を振らないといけない。躊躇なく僕は言う。
「ごめん。君とは付き合えない」
シンプルな答えを僕は出した。これ以上の答えを僕は知らない。だからここで話が終わると思っていた。けれど彼女は口を開いた。
「理由を教えてもらっても良いかな」
彼女にもプライドがあったのだろう。自分がなぜ振られたのか詳しく知りたいようだ。僕は少し迷った後、正直に話す。
「僕は生殖行為ができないんだ。その前に僕は人間を愛することができない。愛することがわからないんだ」
「どういうこと?」
僕の一番苦手なことは自己紹介だった。自分のことを誰かに伝えることから日々逃げていた。だけど、それも終わりにしようと思う。
「僕は、普通の人間じゃないんだ」
僕は介護をする為に生み出されたクローン人間だった。日本が抱えている介護問題を秘密裏で解決しようと僕のような存在を政府にいる一部の愚かな人間は生み出した。人間社会は愚者ほど立場が上に行くのだからおかしな話だ。彼らにとって僕は切り札だった。クローン人間は長くは生きられない。自分の使命、僕にとっては介護を行いいずれ近いうちに朽ちていく。ただ普通の人間より寿命が早いだけの話。そしてそんな僕が子孫を残す必要はない。愛や恋など僕には不要なのだ。だから、ちゃんとそれを感じとる部位は取り除かれていた。
「意味わからないなぁ」
「だろうね。僕から言えることは一つだけ。将来を考えられる人と君は付き合うべきだよ」
今僕にあるのは要介護者を抱える表向きの家族だけ。仮初の家族が僕の居場所なのだ。そこで僕は仕事をする。それだけが僕の生きがいであり使命なのだ。大人が口々に言う未来や将来など僕にはない。
放心状態の彼女を置いて僕は教室を出ていく。なぜ振られたのかなど気に病む必要はない。ただ告白をした相手が人間ではなかっただけのこと。僕が彼女に真実を話せたのは彼女が僕に好意を抱いてくれて僕も返そうとした証拠だ。ややこしいがそれだけはわかって欲しいなと思った。
家に帰ると母役だった天野聖子が椅子に座っていた。仕事で疲れているのか死んでいると言われても信じるくらい生気がなかった。
「ここをもうすぐ出ていくことにします。聖子さんもそれを望んでいるようですし、安藤さんには僕から茂さんの安楽死を伝えておきますので安心してください」
これで僕とこの家族の関係も終わる。関係が終わるということは茂の安楽死が決まったということ。
「そう、これで終わらせられるのね」
終わるという言葉を聞いて彼女の人生にとって父は荷物でしかなかったのだと感じる。
本来の天野家は父の茂、母の金(かね)、娘の聖子の三人家族だった。しかし、二年前に茂の介護をしていた金が病気で死亡し介護を娘の聖子がやらなくてはいけなくなった。最初こそ嫌々介護をやっていた聖子だったがストレスがたまるようになりある日、茂を虐待した。こういうケースはよくあることだった。その問題があり聖子を逮捕しない代わりに僕がこの家に派遣された。きちんと安楽死に導くのがこの家での僕の仕事だった。
「お疲れ様でした。手続きは僕が責任を持って全てやっておきます」
「そう」と気の抜けた声で彼女は漏らす。本当ならこの愚か者の息の根も止めてやりたいと思ったがそれは業務内容を超えてしまうのでやめておく。ここで僕が正義感を振りかざしたところで何も好転はしない。
「ありがとう」
その熱のない感謝を僕は背中で受け取った。
一ヶ月後、天野茂は自宅のベッドで安楽死した。医者や看護師が家に来て薬を投与して最期は一筋の涙を流して逝った。彼の命の線が真っ直ぐになった時、娘である聖子は泣いていなかった。僕はそんな二人を見届けた。こんな親子もいるのだと僕は学んだ。これを当たり前と言うなら僕は異常者で良いと思えた。
それから僕は天野家を出た。制服を捨て、住所を捨て、名前を捨てた。そして僕は空っぽの器に戻った。天野倫也はもういない。僕はただのクローン人間。
*
季節は春になろうとしていた。街を歩いていると桜の蕾が目に入る。これから多くの者を驚かせようと準備しているのだと思うと感心する。桜という役割を全うしているのだから。ソメイヨシノはほとんどがクローンという事実も相まって親近感が湧く。
「お互い大変だな」
そう桜に呟いてから適当なカフェに向かう。ある人物と待ち合わせをしているのだ。店内に入るとその人物は僕を見つけてすぐに手を振ってくる。周りの目も気にして欲しいものだ。
店内にはBGMでジャズがかかっていてのんびりとした時間が流れている。雰囲気を楽しむためにここにいる客はコーヒーという苦い飲み物に高い金を出しているのかもしれない。
カウンターでコーヒーを注文してから一人用のソファに腰掛ける。対面には僕を呼び出した安藤美月が座っている。丸テーブルに置いてあるマグカップを覗くと彼女もコーヒーを頼んだようだった。
「結局、君は安楽死を選んだ」
挨拶代わりにそんな挑発を受ける。僕は店員に番号を呼ばれたので彼女を無視してコーヒーを受け取りに行く。コーヒーを手にして席に戻ってくると彼女は溜息を吐いた。
「なんで君は天野茂の介護を続けたの? 介護者である君が安楽死をすぐに認めれば済んだ話だったのに。余計に時間がかかったじゃない」
彼女の言葉に僕は苦笑しかできない。合理性に欠けることをしている自覚はあったからだ。
厚生労働省の安藤美月は協力者だった。今までは周りの目を誤魔化すために演技してもらっていた。迫真の演技だった。女優になれるのではないかと思った。
僕は窓の外で揺れている桜の木を見てから口を開く。
「僕はただもう一度考えて欲しかっただけなんです。介護者であるはずの自分が放棄した介護を人間ではない存在がやっている。それが善なのか悪なのか」
そして願わくば心変わりして欲しかったのだ。その願いも虚しく散ったが。
「優しいのね」
皮肉たっぷりに彼女は言う。彼女の仕事の邪魔をしてしまったのだから皮肉を言われるのは仕方ない。前までの僕ならそんなことはしなかった。介護期間の三ヶ月が終わればすぐに安楽死を決断していた。そして彼女に書類を用意してもらっていた。だが僕は疑問に思ったのだ。高齢者は荷物だと国が、社会が、環境が、人間が思っている。それならば僕のやってきた介護はなんだったのか。そう考えた時、もう一度だけ愛すべきはずの者たちに最後の時間を与えようと僕は動いた。だから時間稼ぎのために学校にも登校した。そこで人間の女子から告白というものを受けてしまったのは誤算だったが。
「迷惑をかけました」
僕は膝に手をついて頭を下げる。彼女の溜息が聞こえた。顔を勝手に上げると彼女は微笑んでいた。苦笑だった。
「本当よ。まあ、君のやることだから何かしらの意図はあったのだろうけど」
「信頼が厚いですね。あまり信頼されても困るのですが」
「人間なら信頼しないわよ」
さらりと言って彼女はコーヒーに口をつける。コーヒーを飲む姿勢が美しくカッコいいと思った。僕もそれに倣ってコーヒーを飲む。久しぶりに熱いコーヒーを飲んだ。天野倫也になりきっていた時は猫舌という設定でやっていたので冷めたコーヒーしか飲めなかったので熱々のコーヒーが恋しかった。美味しそうに飲んでいたのか、彼女はクスッと笑う。
「コーヒーは本当に好きなのね」
「なぜかこの苦味は覚えていたので」
「ああ、オリジナルの」
「はい」
口の中に広がるコーヒーの苦味をシナプスは覚えていたようだ。
オリジナルが好きだったのは今飲んでいるコーヒーと歌うことだったと思う。カラオケに行った時、今までに感じたことのない高揚感があった。多分、ギターを弾きながら歌っていたのではないかと思う。そして仕事は介護をしていたと思う。介護をするのは苦ではないから。
「味覚は恐ろしいわね」
しみじみと彼女は言って僕は首肯する。人間の持つ機能で最後まで残るのは聴覚らしい。僕に残っているのはあるバンドの曲と苦味の効いたコーヒーだった。オリジナルの情報を僕は持っていない。だから今、どうしているかも知らない。とっくの前に死んでいるかもしれないし、生きているかもしれない。いつを生きていたのかもわからない。それでもさほど興味はなかった。僕は僕だから。
「次、僕は何になれば良いですか?」
天野倫也の人生は終わったので次になる者を決めなくてはならない。役者が演じていた作品を終えて次に出演する作品の役に入り込むような感覚だと自分では思っている。違うのはクローンが人間を演じるということくらいだ。
「そうね。誰かさんのせいでスケジュールが狂ったから本部で待機して。外出は認められているけど騒ぎは起こさないでね」
「問題児みたいに言わないでくださいよ」
「今回の件では問題児だったわよ」
「そうですね」
相当根に持っているようだ。お詫びをしたいが僕にできることなんて次の仕事をスムーズに熟すことくらいだ。
「まあ、ゆっくり休みなさい。私は仕事だけど」
「休ませたいのか休ませたくないのかどっちですか?」
どちらかと言えば休みさせたくはないのだろうなと思いつつ僕は聞く。
「両方よ。他の人が働けば済む話だし」
美月さんはハッキリとそう言った。これから仕事を振られるだろう、他の人が可哀想だなと思った。
「せっかく会ったんだから何か面白い話してよ」
唐突に無茶振りをされる。面白い話なんてない。オリジナルからギャグセンスを継承されていれば良かった。まあ、オリジナルにギャグセンスがあったのかは知らないが。
「学校に通ったんでしょ。青春したんでしょ。出来事をお姉さんに話してごらん。それでチャラにしてあげる」
そう言われても困るが少し考えて、僕は学校に通って印象に残っていることを口にする。
「そう言えば女の子に告白されました。放課後の教室で」
「マジ?」
急に目の色を変える美月さんに僕は頷く。天野倫也なんていう人間は既に存在しないのだから別に隠す必要もない。
「モテるねぇ、それで返事は?」
「勿論、断りましたよ。僕は生殖行為ができないからって」
僕がそう言った瞬間、彼女は一人掛けのソファをガタッと音をさせて後ろの方に引いた。僕は首を傾げて彼女を見る。
「人間の女子相手にその断り方はヤバイよ。気持ち悪いし、トラウマになる。うわぁ、コーヒーおかわりしようと思ったのにする気なくなった。責任取ってよ」
責任を取れと言われても話せと言ったのは美月さんなのでどうしようもない。ただ、関係ない人間にトラウマを植え付けるのは流石にマズいなと彼女に指摘されて思った。ただやってしまったものは取り返しがつかないので政府に彼女の記憶消去を施してもらうしかないか。
「美月さん、彼女の記憶消去をしたいので手伝ってもらえませんか?」
「だから、私は忙しいの。まあ、その子にも良い教訓になると思うわ。顔の良い男だけ狙っても不幸になるって」
「僕は顔が良いんですか?」
僕は僕のことを、オリジナルの顔を良いとは思ったことがない。どこにでもいそうな若い男の顔。これと特徴はない。それが僕の評価だった。
「鏡を見てじっくり観察してみたら?」
鼻で笑う彼女をなんて心が狭い人なのだろうと思ってしまった。だからアラサーになっても結婚ができないのだろうか。仕事熱心で良い人だとは思うが人間性がちょっとなとクローン人間の僕は思った。
「なんか失礼なこと考えてる?」
「考えてないです」
こういう時の彼女の勘の良さは恐ろしい。それは仕事にも活かされているのだろう。そして、これから彼女と結婚生活を送る人は尻に敷かれるだろう。それでも、きっと相手は幸せ者だ。なぜか僕はそう思った。
「美月さんは幸せになってください」
「私が不幸だって言ってるの?」
「違います。カフェなのに酔っ払いみたいに絡まないでくださいよ。人間を楽しんでくださいって言っているんです。恋してみてください」
僕にはそれができないから。人間に魅力を感じないのでしたいとも思えないから。羨ましいという感情はないが僕は安藤美月という人間の女性の幸せを切に願った。
「若造が生意気なのよ」
「これくらいは許してください。もうじき死ぬはずですから」
クローンの寿命は短い。何人かの介護を担当したらお役御免の存在。そんな存在がいるから今の社会は回っている。
僕の自虐を聞いて彼女は笑わなかった。僕の冗談が下手で笑えなかったのかもしれない。僕はなぜか彼女を笑わせたいと思った。
*
あれから何年の時が経っただろうか。僕の心臓は奇跡的に鼓動を打ち続けている。だけど、今の僕の体は僕が介護してきた人たちと同じように全く動かなくなっていた。動かさそうとしても鉛のような重さを感じるだけ。まさか僕が介護を受ける側になるなんて想像もつかなかった。国が今までの僕がやってきた仕事を評価して用意してくれた真っ白な隔離部屋に置いてある電動ベッドに寝るだけの日々。クローン人間として生き続けて行き着いたのは人生を楽しむどころか最悪のバッドエンドだった。
倫理にうるさい日本政府は隔離部屋で僕の存在を隠した。この部屋からは四季がわからない。温度や湿度調節も自動にされる。それならいっそ殺してくれと思ったが制度上ではまだ僕は死ねない。あと介護期間が一ヶ月足りない。ここだけは人間と扱いが同じなんだなと少し腹がたった。
今日は新しい介護士がやってくることになっていた。これからお世話になる人だと言うのに僕はその人に挨拶すらできない。
耳はまだ聞こえるので足音が微かに聞こえてくる。重厚な扉が大きな音を立てて開く。
「今日からよろしくお願いしますね」
若い女性の声が聞こえてくる。今度はできるなら同性が良かったがこの体は要望すら言えない。彼女はなぜか嬉しそうにくつくつと笑い声をあげる。彼女を見ようと細く開いた目を合わせる。霧の中に女性の顔が映る。
「久しぶりだね、天野くん」
懐かしい呼び方をされたような気がした。その名前はとっくの昔に捨てたはずなのにその響きを覚えていた。
「あの時は驚いたよ。天野くんがクローン人間だったなんてさ。せっかく好きな人ができたのに、私の初恋を返してよ。まあ、冗談だけどさ。聞こえているかな。私、失恋のショックであれから歳が取れなくなったんだよ。冗談だと思うでしょ。でも、本当なの。本当は年齢を進めて刻むことができるのにそれをしたくなくなったんだ。君との思い出を大切にしたくてさ。だから私は今、君を介護できるんだよ」
僕は目を疑った。新しい介護士としてやって来たのは天野倫也として生きていた時に通っていた高校のクラスメイト、佐倉由美だった。彼女は優しく明るくて僕に告白までしてくれた。彼女は僕に近づいて頬にキスをする。感覚はない。彼女が嬉しそうに笑っている。
「あの時君は言ったよね。生殖行為ができないから駄目って。だから、これからはできるようにしてあげる。私と同じAIになるの。クローン人間なんていう不完全なものではなく完全体にね」
彼女の言っている意味がわからなかった。恐怖で体が震えそうだった。だけど体は動かない。
「可哀想だよね、天野くんは。介護をするために生み出されて恋すらできないなんて。まあ、戦争のために生み出されて戦わせられるよりは良いか。でも私は戦う方が良いなぁ、介護汚いし」
楽しそうに独り言を言って彼女は手袋をする。
「奇跡の再会だね。私も普通の人間じゃなかったんだよ、びっくりでしょ」
自慢するように彼女は言った。結論から言うと佐倉由美は人型AIだった。驚愕の事実に僕は必死に声を出そうとするが唇が微かに動いているかどうかで相手には伝わらない。伝わったとしても彼女を止めることはできなそうだ。僕は体の力を抜いて諦める。
走馬灯のようにオリジナルの記憶の波が押し寄せる。それで納得がいく。沢山間違って失敗して泣いた。狂おしいほどに人を愛して受け入れられなくてそれでも諦められなかった毎日が幸せだったのだと。無力で情けなくて夢に敗れた負け犬だったけどあの頃はきっと人間だったと思う。
「覚悟は決まってそうだね。男らしいよ、天野くん。クローンが言われて嬉しい言葉かはわからないけどね」
彼女の声を聞いてこれからはそれがなくなるのだと、無よりも辛い未来が待っていることを確信する。
「私の役割は介護をなくすこと。介護という言葉すらいらない世界を作るの。それを望んだ人間がいたから仕方がないよね。だからクローン人間の君はもういらない。新しく生まれ変わるの。そして君は私ともう一度出会って友達になるんだよ。そして新しい君に告白して付き合って今度こそ共に永遠を生きるの。とても美しい物語でしょ? だから、私を振った古い君とはさよなら」
そう笑顔で言って彼女は僕の首を絞めた。
了
改護 @machidaryuichi
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