ルソー君
しかし本当の地獄は二日目からであった。事前課題として暗記を強要されたチェーンストアに関する単語の意味を問う考査から研修が幕をあげた。単語の意味は会社側が規定しており、それを句読点まで含めて一言一句暗記することが求められるのだ。言語の意義の多様性と共に、僕らの思考をも奪い取る、唾棄すべきファシズム考査である。無論僕は一秒も勉強していなかったので、0点であった。考査が終わり、ほっと息をついたのも束の間、次のプログラムは「私のロマン発表会」であった。よくも大の大人が集まってこんな寒いプログラムを次々と企画出来るものである。講師曰くリーダーたるもの、周りの人間を巻き込めるだけのロマンを持つべきらしい。日々の単調な業務をこなす為には、ロマンこそ真っ先に捨てなければならない物だと思っていたが会社側の考えは違ったようだ。僕らは三十分で自分のロマンをまとめ、十六、七名毎に『ファイトクラブ』の睾丸を無くした者の会よろしく輪になって椅子に座った。一人三分の発表であったが、皆会社のこの部署に行って、あれがしたい等、会社の枠組みから外れないロマンを講師に指定された通りのPREP法でイキイキと語るのであった。こいつらはタマ無しだ。自分たちがタマを持っていた頃を思い出してほしい。サッカー選手になりたい、世界を救いたい、スーパーヒーローになってみたい、それが君たちの真のロマンであった筈だ。それが今やプロクルステスのような会社に手足を切り落とされ、会社内でのロマンを語り、同期にそのロマンを承認されることで満足してしまっている。子どもの頃のように、現実に即さないロマンを持つ必要は無いが、せめて仕事の枠組みから、いやこの会社の枠組みからははみ出したロマンを語って欲しいものだ。
適当にロマンっぽいものをダラダラと語ろうと思ったが、やめだ。彼らを救うためにもここは少々真面目に発表しよう。
「先程の単語テストでも出題されましたが、僕は『豊か』という言葉の状態について長い間考えてきました。というのも僕は裕福な家庭に育って、あ、これ自慢じゃないですよ。裕福な家庭に育ちながら、全くもって自分が豊かだと感じたことが無かったんです。両親が僕を医学部に行かせるために教育資金を投資したり、バイリンガルに育てるために留学に行かせたりと、一見豊かさの象徴に思える行為にも、僕は何故だかはらわたが煮えくりかえるような思いで過ごしていたわけです。何が豊かなのか、どうしたら豊かになれるのか。それを探求するために沢山本も読みましたし、奔放な生活もしましたし、新興宗教の教会に話を聞きに行って、そこの信者さんと歌いながら施設の床を雑巾がけしたりしましたがどれも僕の豊かな人生への指針を示すまでには至りませんでした。五里霧中の僕を救ったのはルソーの『孤独な散歩者の夢想』の一節でした。この本に出会ったのは僕が大学二年生の時です。この本の中で植物好きのルソーは薬草学者に激怒します。植物には花の美しさ、開花条件、種子の飛ばし方等様々な魅力があるのに、奴らは薬草にした時の効用しか見ようとしないと。この一節を読んだ時、僕が今までの人生で感じて来た、言表し得ない不満、怒り、やるせなさが一点に収束していき溜飲がおりるような感じがしました。そしてこの瞬間『物事の目的化』という僕の人生のドグマが確立されたのです。ルソーは薬草学者に対する怒りしか綴っていませんでしたが、その怒りの背後には植物だけでなく自分の愛する物が手段として見なされ、多面性をそぎ落とされることへの拒絶があったに違いありません。僕もルソーに倣って、出会う一つ一つのものを、自身の一つ一つの行為を愛し、手段では無く目的として見ようと決めた訳です。物事を目的として見ることは、その物の様々な側面に目をむけ、ありのままを理解しようとする愛に溢れた行為です。対して物事を手段として見ることは、その物の多面性を排し、無用な部分は切り捨てる唾棄すべき行為なのであります。
長々と話してきましたが、僕のロマンは『社会から手段を排すること』です。近代化が進むにつれ、世間は社会的成功という漠然とした目標に対する手段で溢れて来ています。サウナ、睡眠、瞑想、キャリア、ビジネス書、何でもかんでも○○の役に立つとの触れ込みで僕らの生活を手段化します。こんな愛無き世界はもう沢山です。手段化による多面性の排除は必ずやファシズムを生みます。
しかし世界から手段を排する前に、まずは自分の生活から手段を排さなければなりません。『誰もが世界を変革することを考える。だが誰も己を変えようとは考えない。』とトルストイも言っています。現在僕の生活における最大の手段はこの仕事です。この会社は生活の手段であったインテリアを、それ自体が目的となるように脱構築した会社なので、生活の手段化を煽るインチキ会社で働くよりは幾分かマシですが、それでも僕にとってこの仕事は生活の糧を得る手段の域を脱しません。最後は抽象的になってしまいますが、自身が目的と見なせることで生活の糧を得つつ、世間から手段を排して行くことが、これから僕のすべき事なんだと思います。」
初めて言語化して気付いたが、僕が目的と見なすことができ、かつ生活の糧を得られそうな事は執筆くらいしか無かった。ふとミキさんに文章を金にしろと言われたことを思い出した。あの時はムキになって反論したが、それが自分のドグマに矛盾なく生きていける唯一の道なのかもしれない。無論小遣い稼ぎの為の書評では無く、魂を込めた随筆や小説を金に出来たらの話であるが。
僕は話し終わると、周りを見渡した。ポカンとした顔をしている奴もいれば、熱心に拍手を送ってくれている奴もいた。そんなものだろう。皆が会社に奪われたタマを取り返してくれることを祈るばかりである。
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