第6話 後宮の洗礼

 紫花宮は二十七世婦の居住区で、下級妃が住む屋敷である。『裳州からの美姫』には才人の位が与えられたため、雪玲はこれから「潘才人」と呼ばれることになる。


 正一品から正五品までいる中の最下位である正五品。それが才人だ。


 雪玲は入宮した日から出入りできる場所全てに足を運んでみたのだが、雹華と明明は見つからなかった。紫花宮にいないということは、彼女たちは上級妃か中級妃なのだろう。中級妃以上の妃嬪には宮や屋敷が与えられている。


(どこに住んでいるのかさえわかれば忍び込めるのに。それとも彼女たちはまだ後宮に来ていないのかしら。とりあえず、情報収集をした方がいいわね)


 雪玲が一人で力強く頷く様子を見て、巫水は嫌な予感がする。


「潘才人? 何か計画を立てたり事を起こそうとしたりする際は、ひと言教えてくださいね。私が動いた方が良いこともございます。私は藩才人の味方ですから、くれぐれもおひとりで行動して問題を起こしたり、巻き込まれないようにお願いしますね」


 まだ数日間共にいるだけだが、巫水は雪玲の性格や習性を早くも理解していた。


「巫水……! ありがとう。じゃあ、雹華と明明って女人の情報が入ってきたら教えてほしいの。彼女たちが私の大切な物を盗ったから取り返さないと」


 キッと目を吊り上げる雪玲を見て、巫水は少し驚いた様子で問いかけた。


「いつも穏やかな潘才人が珍しいですね。人のことを悪くおっしゃることがなかったので少し意外です」

「え? 私はちっとも穏やかじゃないわ。信賞必罰ははっきりしているから、悪人にはそれなりの態度をとるわよ? あの子たちは私に対してたくさん罪を犯したの。だからしっかり罰を与えるわ」


 巫水はその話を聞き、雪玲が流されるだけの人ではないのだと感心した。


(……潘才人は思いのほか人の上に立つ方なのかもしれないわ)


 そんなことを考えていたところ、誰かの侍女が使いとしてやってきた。


「潘才人、紫花宮で花見のお誘いです。どうやら現在入宮している二十七世婦が全員揃うようですね」



 ◇ ◇ ◇



 二十七世婦はその名の通り二十七人の下級妃を指すのだが、現在の紫花宮には婕妤、美人、才人を合わせてもまだ九人しかいない、というのは巫水調べだ。


 今日の花見には紫花宮の全員が出席するようだし、雪玲との顔合わせということだろう。


 紫花宮の庭園には大きな蓮池があり、周囲には梅の木が植えられている。下級妃の宮殿といえど、皇帝のお渡りがあるかもしれないのだ。隅々まで整備されている庭園は、大小様々な庭木が目を楽しませてくれる。


 蓮池を覗き込むように佇む大きな東屋は、華やかな女人たちが日がな一日ここで噂話に興じる様子が目に浮かぶ。


 巫水を連れて東屋に向かうと、そこには既に石婕妤たちが待ち構えていた。


(ん? みんな桃色の衣を着ているわね。あの色が流行っているのかしら?)


 挨拶をしようと近づくと、香美人が声を荒げた。


「まあ! 潘才人ったら随分目立ちたがり屋のようね。今日の花見は蓮の花に合わせて桃色でとご連絡差し上げたはず。浅緑色の衣で来るなんて田舎育ちには麗容の言葉が通じなかったのかしら」


 クスクスと皆おかしそうに笑う。


(これが後宮かぁ……女の闘いって感じ! でも見るのはいいけどいちいち巻き込まれるのは面倒くさいな。うん、最初にきっちりしておいた方が煩わしいことが減りそうね)


 力強く頷く雪玲。その様子を少し離れた所から見守っていた巫水は、またもや嫌な予感がした。


 雪玲は彼女たちの衣装を一人ずつじっと見ると、自分の衣に目線を落とした。


「あら。桃色の蓮がお姉さま方だとしたら、私は引き立て役の葉の色の衣ですね」

「まあ。可愛らしいことをおっしゃるのね」


 まんざらでもない顔で石婕妤が目を細める。その後ろで香美人や取り巻きたちが眉根を寄せているのが見えた。



「うふふ。ですが、……蓮の花に合わせて桃色でということでしたら、私は間違えてしまったのですね」


 しょんぼりした顔で雪玲が巫水へ指示を出す。


「巫水、ここへ竹箆しっぺいを持って来なさい」


 巫水から渡された竹箆を、雪玲は両手で石婕妤へとうやうやしく手渡す。石婕妤は訝しそうに受け取ると、その意図が分からず、雪玲に尋ねた。


「潘才人? これは……?」

「石婕妤。後宮には明確な序列制度がございます。私は才人。婕妤の指示に従わず、浅緑色の衣で来たのは私の罪でございます。ですから石婕妤から竹箆で打たれなくてはなりません」


 手の甲がよいですか、脹脛ふくらはぎがよいですか、と雪玲がくんを持ち上げる。


「背中になさいますか」


 くるっと背中を向ける雪玲に、石婕妤は顔色を悪くした。


「え……? い、いいわよ、そこまでしなくても……」

「石婕妤、それではいけません。信賞必罰は必要です」


 ちょっと牽制したかっただけの石婕妤は困惑し、許すからいい、いいや許さないでくれと押し問答が続く。結局、雪玲が折れる形で「そこまでおっしゃるのなら」としずしずと引き下がった。


 が。


「では、次は伝言を誤った侍女に罰を与えなくてはなりません。巫水、連れてきなさい」


 伝言に訪れた香美人の侍女が真っ青な顔で皆の前に引き出される。


「なっ! 潘才人! 私の侍女をどうするつもりです!?」

「香美人、この侍女が桃色の衣を着なくてはならないことを伝え忘れたのです。ですから罰を与えなくてはなりません。こんなことが続けば紫花宮の規律が乱れますから」


 膝をつきガクガク震える侍女が目で香美人に助けを求める。


「はっ! 潘才人。私の侍女が伝え忘れたと? 言いがかりはおやめくださいな、証拠はありますの? あなたが聞き洩らしたのではなくて?」


 あらあら、と言うと、雪玲はずいっと香美人に近づいた。


「どこの莫迦が指定された衣の色を忘れますの? 恐れ多くも私も才人ですよ? あなたは陛下の妃の一人に選ばれた私が莫迦だとおっしゃるの?」

「あ……」


 雪玲と目が合った香美人は、足元が砂のように崩れる感覚に恐怖を感じた。猛獣がひしめく暗い森の中で得体のしれない何かに狙われているような、足元が心許ない不可解な感覚がし、指先から血の気が引いていく。


「……香美人、私はあなたが指示したのではないと信じていますから、侍女の不手際を認めるのならここで手打ちにして差し上げます。それとも、あなたがこの侍女に罰を与えますか?」


「っ……!」


(あら。霊力を乗せ過ぎちゃったかな?)


 どうやら香美人は言葉が出せない様子。青くなったり赤くなったりしながら、怒りを抑えられない香美人は周囲に助けを求めるが、みな目をそらす。


「んー。この侍女は言葉足らずか嘘つきか。どちらにしても必要ないのだから舌を切りましょう」


 雪玲はどこからともなく出したはさみを持ち、チョキチョキと小気味よい音を鳴らす。


「も、申し訳ございません! お許しください、お許しください!」


 香美人の侍女は泣きながら何度も叩頭して地面に打ち付け、額には血が滲んでいる。ちらっと香美人を見ると口をぱくぱくしたまま、未だ声が出ない様子。


 愕然とする周囲をよそに、雪玲は仕方がないわね、と呟くと石婕妤へ向き直った。


「香美人は侍女の過ちにショックを受けているようなので、石婕妤にお任せします。紫花宮を乱すこの侍女のことを、今回は許してやってもよろしいでしょうか。もう、間違った伝達はしないと思うのです」

「え……? え、ええ、そうね、今回は大目に見てあげましょう」

「ありがとうございます。ほら、立ちなさい。石婕妤と香美人のご慈悲に感謝しなさいね。巫水、この娘の手当てをしに連れて行きなさい」


 その後の蓮の花を見ながらのお茶会は、かつてないほどの緊張感が漂った。そんな中、雪玲は初めて見るお菓子を大変気に入り、一人楽しく飲み食いをしたのだった。



 ――その日の夜。


 ガチャン! パリン! 


 香美人の部屋からは陶器が割れる音や壁に何かがぶつかる音が鳴り響いていた。


「はあ、はあ、はあ、許さない! 許さない!! 許さない!! 潘家の小娘がよくも、よくもっ!! おのれ……皆の前で私に恥をかかせたこと、絶対に忘れはせぬ! 今に見ていろよ!」


 ◇ ◇ ◇


 今日は石婕妤と楊美人に招かれ、東屋で糕点を振舞われている雪玲。


「潘才人、これは私の実家から連れてきた料理人が作った桂花糕よ。私の好物でうちでは一年中作っているの。お口に合うかしら」

「わあ、綺麗……! いただきまーす! んん!! しぇきしょうよ、おぃひぃれす!」


 あの一件以来、石婕妤と仲の良い楊美人とはすっかり打ち解けた雪玲。


 福女のようなふっくらした顔の石婕妤は上州刺史ししで豪商の娘、知的で穏やかな楊美人は学者を世に多く排出した中州刺史の娘である。出世欲のない二人は来る者は拒まず、去る者は追わずの姿勢をとっているようだ。


 頼りになる巫水がいるとはいえ、そこはやはり妃でなければわからないことも多々ある。雹華と明明の手がかりも案外こんな所から見つかるかもしれない。


 だが、まずは、腹ごしらえ。目の前には趣向を凝らした糕点が並んでいるのに、食べなくては話が始まらない。


 目を輝かせて糕点を楽しむ雪玲に、石婕妤はため息をついた。


「こうして接してみれば人畜無害な女人であることは一目瞭然なんだけどねぇ。潘才人、とにかく、香美人には気をつけるのよ? あの人の後ろには崔昭媛がいて、そのまた後ろには胡徳妃がいるんだからね。まあ、わざわざ紫花宮までは来ないだろうけど」


 念のためね、と心配する石婕妤に、雪玲は金木犀の甘く軽やかな香りが口の中からなくなるのを惜しみつつ、ごくんと糕を飲み込んだ。


「……えっと、どなたですか?」


 呆れたような顔で楊美人が眉を顰める。


「そうよね、潘才人が派閥を理解しているなんて思った私たちがいけないんだわ。うーん、簡単に説明するわね。今現在、後宮には十五人いるの。そして、大きく分けて四つの派閥がある」


「郭貴妃、胡徳妃、唐昭容の三派と、権力に無縁なその他ね。ちなみに、私と楊美人がその他。まあ、郭貴妃と唐昭容の派閥は近寄らなければ大丈夫。問題なのは胡徳妃の派閥よ」


 雪玲は口の中でほろほろと蕩ける糖蛋散に手が止まらなくなり、食べつつも真剣な顔で頷く。


「胡徳妃の派閥はあまりいい噂を聞かないから……。そうね、部屋に見覚えのない物があったり知らない人から飲み物をもらったりしたら気をつけるのよ? う~ん、潘才人はどう見ても食べ物が心配だわ」


 頭を抱える楊美人をよそに、揚げ菓子を食べ過ぎるともたれるわよ、と言いながら石婕妤が雪玲の世話を焼く。二人とも三つ四つしか違わないのだが、すっかり雪玲のお姉さんになっている。


「それにしても、九嬪は中央官僚、二十七世婦は地方官僚の娘か縁戚。わかりやすいわよねぇ。陛下は即位後お渡りがないけれど、これからも妃を増やすおつもりなのかしら」


 石婕妤の呟きを楊美人がわかりやすく解説してくれる。


「つまり、今後宮では三つ巴が皇后を巡る熾烈な争い中なの。中級妃である九嬪たちも割と野心があって、中央官僚を親に持つ娘の親兄弟が外戚を狙っているわ。こう言ったらなんだけど、皇家が忠誠と野心を天秤に掛けている感じね。

 で、下級妃である私たち二十七世婦は地方官僚の娘が人質に取られているようなものなのよ。まあ、中にはあわよくば四妃や九嬪に近づいて恩を売り、家門の出世を狙っている人もいるけどね」


「郭貴妃と胡徳妃は陛下が皇子だった頃からの妃でそれぞれ皇子がいるし、不動の四妃よ。それに引き換え、その他の妃はまだ陛下の顔も見たことないんだから、見初められようもないわ」


 この二人が会ったことないのなら、下っ端の雪玲にはますます機会がないだろう。だけどそれは願ったり叶ったり。


 早く天衣を奪還してうまいこと後宮から抜け出す。


 雪玲の目標はただそれだけなのだし、渡りに船というやつだ。



 ◇ ◇ ◇


 こうして。


 石婕妤と楊美人に可愛がられたり、他の妃のお茶会に呼ばれてはほんのり牽制されたり。時には差出人不明の贈り物として、下剤や媚薬入りの菓子が届くような日々を過ごしていたのだが。


 雪玲がいう「これぞ後宮……!」という騒ぎに浮かれていたのも最初だけ。それなりに楽しんでは腹を立てたりしていたわけだが、ここに来て深刻な問題が発生していた。



「ああっ!!!! 暇すぎて気が狂いそう!!!!」



 自由に生きてきた雪玲にとって、後宮は籠の中も同然。


 小さな箱庭に閉じ込められ、雪玲は早くも爆発しかけていた。


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