大型アップデート
「時間は7月30日9時50分、本日のニュースラインのコーナーです」
滑舌良く話すニュースキャスターの声を聞いた途端、雫はため息を漏らした。
「大丈夫? 」
『うん、大丈夫。寝て起きるだけだから』
彼女の言葉とは裏腹に緊張した様子が伝わってきて、こちらも不安になる。
雫は10時から始まる大型アップデートで少しナーバスになっているようだ。
ARIAはアップデートをしている間、強制的に眠らされるらしい。
だが、雫から言わせると実際は眠るのではなく、バチッと電源が切れるような感覚らしい。
『私達ARIAも夢を見るの。でも、これはそれとは違う』
雫は俯き、左手を右腕に添える。まるで自分を抱きしめているように見えた。
『うまく説明できないけど、闇に落ちて戻れなくなる。そんな感じで怖いんだ』
「──アップデートが終わったら、江ノ電に加えて鎌倉を散策するのはどうかな? 」
『えっ、ガチ!? 』
あまりの変わり身の早さに思わず笑みが溢れる。
「ああ、ガチだよ。楽しみにしてて」
『うん、そろそろ、アプリ切るね』
「頑張ってね」
『明日、絶対に江ノ電だからね。急にバイトが入ったなんて言わないでよ』
「ちゃんとシフトは調整してあるから、また後で」
雫は満面の笑みで小さく手を振っていた。その時、アプリがバチッと切れた。
心が締め付けられるような、不快な甘味が舌に残るような……もやもやとした気持ちになった。
「──神奈川県藤沢市のスーパーに乗用車が突っ込み、店内にいた数名と運転手が負傷する事故が……」
テレビの声が現実に引き戻す。時計はまだ10時を指していない。
雫の言っていた事をぼんやりと考えてみる。手術前に全身麻酔をする感じだろうか。
祖父が肺癌で片肺の摘出手術前に「手術に失敗したら、棺桶にお前のプレゼントしてくれた帽子を入れておくれ」と言っていたのを思い出す。
顔の深い皺に優しい笑顔、そして、穏やかな声。いつもの祖父だったけど不安だったのかもしれない。
祖父は寝て起きたら、片肺と肋骨が一本なくなっていたと笑いながら話してくれた。
ベッドに横たわる祖父はいつもの優しい顔をしていた。
「ほら、触ってご覧」そういった祖父は僕の手を取り、肺のあったはずの場所を触らせた。
触れた場所には肋骨がなく、ペコっとへこんでいて、柔らかく、死の現実を突きつけられたようだった。
雫もこんな感じなんだろうか。手術をする訳では無いから、考えすぎかもしれないが。
「雫、頑張れよ」
僕はバイトを朝から晩まで目一杯シフトを入れておいた。シフトを一杯にした特別な理由はなかったが、気が紛れるし、結果的によかったと思う。
支度をして、アパートを後にした。
***
ピザの配達を終えて夜になると、今日の出来事が頭をよぎる。
何度も道を間違え、逆走をしてしまい、ピザを地面に落とし、自分が動揺していることは明らかだった。
散々、店長に怒られ、帰路についたのは夜9時半頃だった。アパートに向かって歩いていると長身の人影が見える。
アパート周辺にはあまり街灯がないので、ぼんやりと浮かぶシルエットに少し警戒を覚えたが、寛さんだった。
「こんばんは、何をやってるんですか? 」
こちらをゆっくりと寛さんが振り返る。
「ああ、山内か。お前の隣の部屋を見ていた」
寛さんはアパートの下から僕の部屋の隣を眺めている。
「不思議空間が気になりますか? 」
「ちょっとな」
僕の部屋は角部屋ではなく角部屋風だ。僕の部屋の隣には一部屋分のスペースがあるがどこにも扉がない。
寛さんはこれを不思議空間と呼んでいて、何か隠し扉があって、実は入れるんじゃないかとある日言い出した。
二人で謎空間の壁を叩いたり、押したり、不自然なくぼみはないかと、あれこれ探した。
最終的に僕と寛さんは部屋の中から謎空間のある側の壁に聞き耳を立てたが、低く唸るような音が聞こえるだけで、結局何も見つけることはできなかった。
俺達なにやってんだろうとなって、それ以来、不思議空間については話題にも出ることはなくなっていた。
「不思議空間には扉はないが真下の一階には部屋があるだろ」
「そうですね」
「今日、昼くらいにその一階の部屋にスーツ姿の男たちが入って行くのを見てしまってな」
「誰かが住んでいる訳ではなく、実は会社なんですかね? 」
「どうだろうな。だが、それを見た時に思ったんだが、あの部屋は一階と二階がつながってるんじゃないかって」
「それで観察をしていた……と? 」
「そうだが、真相はわからない。もう部屋に戻ろうと思っていたところだ」
寛さんが何を考えているのか不思議に思ったが、それよりも雫の事が気になって、そわそわしてしまった。
「なるほど……。僕は用があるんで先に失礼しますね」
寛さんを残して、僕は階段を駆け上がった。
部屋に入ると、時計は9時42分を指していた。雫のアップデートは12時間かかると聞いていたが、待ちきれずにアプリを起動する。
まさか、まるまる12時間かかるという意味ではないだろう。
だが、予想は外れた。
スマホの画面には「サーバーに接続できません。しばらくしてから、もう一度お試しください」と表示される。
仕方なく、黙って時間が経過するのを待つ。時計の秒針が動く音が規則的で無機質に感じる。
いつもは時間など溶けてなくなるみたいに消えていくのに、今は凄く長く感じてそわそわとしてきた。
時計の針が10時になると同時にアプリを起動する。
『ああ、亮、おはよう』と少し寝ぼけた顔で声をかけてくれる雫を夢想しながら、アプリが起動するのを待った。
「サーバーに接続できません。しばらくしてから、もう一度お試しください」
先ほどと同じエラー画面が表示されるだけだった。
その晩、雫は戻ってこなかった。
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