はじめての内見

錦木

はじめての内見

 センダイはアパートの内見にやってきた。

 大学を無事卒業して、来月から新社会人である。

 大学は郊外のアパートから電車を乗り継ぎして通っていたが、就職を機に職場に近いアパートに越すことにした。

「不動産屋の人にはここで待っていてくれって言われたんだけどここでいいんだよな……」

 指定されたのは三階の角部屋である。

 シン、とあたりは静まりかえっている。

 夕方だから社会人や学生はそろそろ帰ってくる頃合いかと思うが、人気がない。

 少し寂しい気もするが、隣人トラブルには巻き込まれなさそうだなと考えると気が楽だ。

 センダイが選んだここは若者向けのアパートで、学生や若い社会人の住人が多いと聞く。

 家族連れはいないらしいので、子供の騒ぐ音を気にする必要もないと思うとホッとする。

 センダイは元々社交的な性格なので、同年代ならすぐに知り合いができるだろうと思った。

 それにしてもまだこないのか。

 なんだか、時計の針が進むのがやけに遅く感じた。

「センダイ様ですか?」

 急に聞こえた声にビクッとする。

 黒いパンツスーツに身を包んだ、中性的な人物がいつの間にかそこに立っていた。

 一見して女か男かわからない。

 センダイより頭一つ分くらい小柄だ。

 変わっていることに電車の車掌のような黒い帽子を目深にかぶり、長い髪のせいでほとんど顔が見えない。

 そういう制服なのだろうか。

「はじめまして」

 声は低くて、少し幼く感じた。

 センダイとそう歳も変わらないのではないだろうか。

「案内役のミヤクラと申します」

 鍵を取り出す。

 いくつもの鍵が円形にジャラジャラと連なっていた。

 その中から一つ取り出すと鍵穴に差し込み、回す。

 よくわかるものだな、と見ていてセンダイは思った。

 扉が開いた。

「どうぞ、中へ」



 大学入学とともに住んだ前のアパートは家賃で親が勝手に決めたアパートだったので、こうやってセンダイが自ら内見に来るのは初めてだった。

 やはり住む場所を自分で決められるというのはいい、と思う。

「やっぱりいいなあ。広々として」 

 何もない部屋というと、空っぽで虚しく感じられるかもしれないが逆にワクワクする。

 これからどんな家具を配置するのか、どこで寝られるのか自分で決められるのだ。

 なんでも自分で変えられる自由さがある。

「気に入られましたか?」

 ミヤクラがそう言うのでセンダイは頷いた。

「なかなかいいね」

 これだけで終わらせてもつまらない。

 中を十分に確認しておかなければ。

 数歩進むとキッチンに行き当たった。

 少し手狭な気がするが、一人暮らしにはちょうどいいだろう。

 水は出るのだろうか。

 つい興味を抱いてしまい、蛇口をひねろうとする。

 その瞬間赤い水がポツポツ、と垂れてきた。

 シンクにまるで血の染みのように広がる。

 多少気味悪く思ったが多分、赤錆だろうと思う。

 入居する前に直してもらわなければならない。

「あのさ、ミヤクラさんっていったっけ」

 ミヤクラは黙って立っている。

「ここ……」

 センダイは振り返って驚いた。

 赤い染みは消えていた。

 蛇口をひねってみると、水は出てこない。

「どうかしましたか?」

「いや……。別になにも」

 見間違い?

 いや、たしかに見たのにと思う。

 その時、ジャバジャバと変な音がした。

 そちらにはたしか、風呂場があったはずだ。

 慌てて見に行く。

「な、なんだこれ……!」

 赤い水が浴槽から溢れて、脱衣所を侵食していた。

「故障か?止まれ止まれよ……!」

 だが、今度は蛇口をひねっても水が止まらない。

 赤く濡れた床は血だまりのようだ。

「クソッ!どうなっているんだよ」

「センダイさん」

 いつの間にか後ろに音もなくミヤクラが立っていた。

「ユカさんを覚えていますか?」

「はあ?誰のことだ」

 ミヤクラは嘆息する。

「やはり覚えていないのですね」

 冷めた口調で言う。

「あなたがストーカーしていた人ですよ」



「あなたは大学で彼女を口説いて、自分の思いが受け入れられないと彼女にどこまでもつきまといました。ある日、ユカさんは自分と恋人にならないなら殺すとあなたに告げられます」

 スラスラとなにかを読み上げるように、ミヤクラは言う。

「彼女は泣きながら家に帰ってきました。鍵をしっかり閉めて、玄関で座りこんだ。それでも、あなたは諦めようとしないで玄関を何度も殴りました。彼女はやめてと叫ぶ。でも、音は止まらない。ドン!ドン!」

 静かな口調が不気味に感じられる。

「真夜中になってあなたは帰って行きました。でも、ユカさんはもう疲れきっていた。だから、部屋の中で首をかき切ったのです。ちょうどこの部屋のこのあたりで」

 トン、とミヤクラは爪先で床をつく。

 びちゃり、と赤い水滴が跳ねた。

 ヒッ、とセンダイは飛び上がる。

 よく見ればミヤクラは部屋の中でも靴を履いたままだった。

 闇色の服や帽子とそろいの靴で部屋の床を撫でる。

「怖かったでしょう。無念だったでしょうね」

 赤い染みが、どんどん広がっていく。

「可哀想に。こんな怪異になってしまいました」

 ザワザワと床が蠢き、なにかを飲み込まんとするようにへこんでいった。

 ヌラヌラと光っている。

 まるで肉の壁のように。

「なんだこれは。やめろやめろ……!」

「でも、もう大丈夫。アナタを呼んでいたんですよ」

 静かな口調でミヤクラは言う。

「アナタが来たからもう終わる」



「ねえ知ってる?あそこに内見に来る予定だった人、勝手にこなかった上に失踪しちゃったらしいよ」

「聞いた聞いた。別の物件に乗り換えるならせめて連絡すればいいのに。非常識だよね」

 二人の横を黒い影が横ぎる。

 黒い髪をなびかせ、ミヤクラが立っている。

 アパートを一瞬見上げ、夕闇の中に消えた。

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はじめての内見 錦木 @book2017

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