喜びよりもなお
sui
喜びよりもなお
喜びよりもなお
空気は冷たく、時々吹く風は辛い。ふと金属に手が触れれば痛みを感じる程に体温が奪われてしまう。
けれども日暮れまでの時間は少しだけ伸びた。
夕焼け空の下を二人で歩く。
緩めの傾斜がついたこの道は帰りこそ楽に感じるけれど、行きだと中々大変だった。特に急いでいる時は息が切れるし、疲れて足の遅くなった人間を上手く抜いて走らなければいけない。
「今日、疲れたよね」
「確かに」
視線を下げた先に丸い頭と黒い髪。後ろは縛っていたのが解かれて下に垂らされている。前は眉毛の辺りに毛先があって、首が動くと左右に揺れた。長い睫毛は瞬きの度に震えている。
キサは部活仲間だった。
マネージャーとプレイヤー。違いはあったけれども、同じ時間を過ごして来た。
「コーチ、力入ってたもんな」
「何かあったのかなー」
「練習試合とか予定入ったっけ?」
「聞いてないよ」
「じゃあ何だったんだろうな」
「まだだけど、その内やるのかもよ」
「そうなのかな」
暫く雨が降っていない。
練習するのに良かったけれど、空気は乾燥気味だった。
地面の上をサラサラと壊れた落ち葉が流れて行く。
「休みに入ったらどうするの?」
「何が?」
「どこか遊びに行ったりする?」
「さぁ……?家の予定もまだ分からないし」
「そっか」
最終学年も見えてきて、部活ではレギュラーメンバーの話が、勉強では受験の話がちらつき始めている。長休みにはそういう事も考えなくてはいけないだろう。
「昨日なんだけどさ、スマホ見ながら勉強してて寝落ちしたんだよ」
「へぇー」
「起きたの午前三時」
「気を付けないと」
「凄い腕痛かった」
「体に良くないね」
「そっちは?勉強してる?」
「うん。でもあまり進みは良くないかも」
「今度、開いてる時間に図書室行こう」
「そうだね。昼休みとか結構空いてるよ、放課後とかは大変だよね?」
「ああ、そっちの方が良いかも」
「じゃあ声かけるよ」
「うん」
横を歩くキサとの距離が近くなった。
何となく、そちら側の手が気になって持ち上げる。爪の周りにささくれが出来ていた。
捲れたそれを見つけてしまうと、途端に落ち着かなくなる。かと言って今は爪切りも鋏もない。
まさか人前で嚙み切る訳にもいかず、けれども指先を口元に近付ける事は止められなくて、中途半端に触れては離すを繰り返す。
どちらの皮膚もカサついていた。ささくれが唇の端を引っ掛ける。
「イテッ」
「どうしたの?」
「ちょっと。乾いててさ」
「大丈夫?」
「まぁ」
「これ使う?」
鞄のポケットに手を入れたキサがリップクリームを差し出してきた。
探せばどこでも見つかる、いかにも医薬品といった素っ気ないデザイン。
「えっ?」
これは彼女の物だろう。
戸惑いながらそれを見つめる。何だか妙な気分になって、一歩後ろに身を引こうしたけれど、キサの方が動きは早かった。
蓋の内で既に使える長さになっていたらしい。
あっという間に塗り付けられたそれはヌルリとしている。少しの柔らかさが、余計変な気持ちにさせた。
「ちゃんとケアしないと駄目だよ」
「……あー、でも持ってないんだよ」
「じゃあコンビニ寄って行こうよ」
キサのこちらを見つめる瞳が輝いて見える。
「うん」
他に誰もいない道。
高さの違う肩の下で、手と手が触れた。
喜びよりもなお sui @n-y-s-su
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