3/3




& Next then :



 それから、わたしたち二人はどうなったでしょうか。果林とは前よりいっそう親しくなったの? と、聞いた子がいます。どう答えていいのか、分からない。

「レズはいや」と言い捨てた友人もいました。その子とは、もう口を利きません。

 ……

 わたしたちの関係は、世間で言うレズビアンとはなんの関係もないのです。

 わたしたちのことを、誰かが悪口を言っても、わたしにはすこしも辛くない。

 ただ、それだけ悲しいんです。わたしたちがいくら愛しても、それはすれ違いの愛で終わってしまう。そのことを予感として感づいていること。

 わたしたちは、お互いを愛せなくなってしまうのじゃないかしら。人間としての尊厳はどうなってしまうんだろう?

 ……

 そんな問いかけが、黙って見つめるしかない、わたしと果林のあいだで何度も往復しました。

「ねえ、あのときの気もち、茜さん、今でも覚えてる?」

「分からないの。……あのときも、分からなかった、だから。今も」

「そんな。かるい気もちでわたしと寝たの?」

「寝ることがよかったわけじゃない。ねえ、分かるでしょう。あのとき」

「分からないって言ったくせに」

 それだけが、二人のあいだではじけ、果林がわたしをなじった言葉でした。



 風に吹かれるまま、わたしたち二人は歩いてゆきました。

 ある町のショー・ウィンドー(それはインテリア・ショールームなのでした)のなかに、果林はひとつの言葉を見つけました。「ハートフル・アート、アートフル・ハート」それはすぐに、わたしたち二人の音楽になりました。

 果林は、わたしが手にした楽譜帳のうえに、その流れるようなメロディーをするすると滑らせていった。

 まるで殺人事件のような(と、果林が言ったんです)それは、心地よいアンダンテでした。にっこり笑ってみせた彼女のことを、わたしはすこし恐いと思いました。

 そして、それから、──そう。

 二人は店のなかへ。

「なに?」

「中にはいっちゃえば。ね、そのほうが書きやすいし」

「これ、ここで仕上げるの?」

「今すぐ仕上げてよ。ね、お願い」

「そおね。茜さん、言い訳してね」

 それを、わたしはさいしょの作品に、果林が世の中に聞かせるはじめての曲にしたいと願っていました。

 じじつ、果林もそのことを望んでいたと思います。彼女ははじめて積極的に、じぶんから曲を発表したい、という気もちになりかけていたんです。そして、それがどんなオリジナルな方法なのかも、わたしは知らずに。

「茜さん、仕事探さなくていいの?」

「なに、急に」

 樫のテーブルに頬づえをつきながら、果林が聞きました。

「だって首になったんでしょう」

「だって、首になったよ」

「ばか」

「……」

「ふざけて聞いたんじゃないのに!」

 どんどんどん、とテーブルを叩いて、果林はアドバイザーの女性をにらみつけました。彼女には何の言われもないことだったでしょうけど。

 果林は、すばやくわたしに目を返しました。でも、反対にわたしはその人のほうに気をとられてしまっていた。

「浮気っぽい人ね」

「なんでよ」

「仕事、ここですれば?」

「ばかみたい」

 私は怒って、目を伏せました。

 わたしも果林も本気ではありませんでした。わたしは、彼女の誕生日がやってくる次の週のことを考え、果林は、じぶんがこれから始める夢のことを考えていました。

 梅雨期、それから夏もまぢかだった。

 ……

 この夏が、二人にとってほんものの幸福になればいい。わたしはそんなふうに祈っていました。でもそれには、こんな状態、こんなバカンスみたいな時間を早く終わらせないといけない、そのことも知っていたんです。

 果林よりすこしだけ多く生きてきた、いいえ、彼女の夢の深さが、わたしたちをへだてる溝のようにながれていました。

「仕事、探さなくてもいいの?」

 果林がもう1度聞いてきました。そのとき、その目はどこか不安な、おびえる小さなけもののようでした。

「仕事、あるかな」

「ええ、もちろん。見つかるけど」とわたしは答えていました。

 雨は、いやなものです。

 この季節にはどこへも出たくないという気もちになります。新しい仕事にも、わたしはなかなか馴れていけませんでした。

 仕事に行きたくない、わたしはなにか言い訳を考えついて(それはもちろん前日のうちからでしたけれど)1日家に閉じこもるのでした。

 そんな日に、電話してみると、果林は留守でした。

 淋しくなったわたしは、果林が置いていったスコアを、そっとキーボードで叩いて心を紛らせるしかないのです。

 あんなに孤独を遠ざけていたはずのわたし。それがいつのまにか、果林いがいの人を考えられずに、一人きりを求めてしまっていました。



 果林の曲は、二人がショールームで見つけたハート型の容れ物のなかにすべてしまってありました。これは大切な、わたしたち二人の宝石だったんです。

 果林は、時どきその箱を撫でて、

「思い出がつまってる」と、つぶやきました。

「ねえ。どこからどこまでが思い出で、そのあと夢なの?」

「分からないよ。……夢は、これから現実になることじゃない?」

 わたしは彼女の答えが、おぼろではなくて、希望なのだと思えました。

 果林はたしかに音楽をその手に採ったのでした。なにかが輝いて、彼女の心のなかに今再びあったからです。

「ねえ。わたしたちって、知らず知らずのうちに変わっていくんだね。知らないあいだに変わってしまうから、そのことを知らないのね」

「なに言ってるの? 茜さん」

「わたしたちは知らないってこと。じぶんたちのことを、ちっとも」

「知らないのは、茜さんのなかのじぶんの感情だよ」

「どういうこと?」

「後から気がついて、ああ、そうだったって思うの。……後から気がついて、ああ、あれは間違いだったの、なんて言わないでね」

「……」

「茜さん、目が狐になってる」

「もういいわ。理屈は嫌いになったの。ね、土曜日は用事があったんだっけ」

「うん。その後で、会おう」



 あの朝のこと。わたしたちが、じぶんたちの淋しさに気がついたあの日の朝、果林はわたしに向かってはじめてその想いをうち明けてくれた……

「茜さん、わたし茜さんのこと好きだ。でも、これはあこがれなんだと思う……」

 果林は、ソファのなかから、顔を伏せたまま、わたしの肩に触れてきました。

「わたし、今日は仕事に行けなかった。もう、どこにも行けそうにない」

「ごめんね、ごめんね……」

「……」

「だいじょうぶ、わたし、いっしょについていくよ」

「……」

「茜さんのこと、好きだから」

「わたしが悪いんだ。あなたにこんなこと言わせたくて……」

「言わせたかったんじゃないよ。言ってほしかったんだよ」

「同じこと……あなたは優しいのね?」

 わたしは、果林のちいさな顔のうえの赤い髪にさわりました。指のあいだを、そのすき透った細いものは、さらさら、さらさらと流れ落ちました。

「果林。髪、染めてるんだね」

 わたしはその時なにげなく気がついたように静かにたずねました。何分間も、何分間も、それをしていたあとに。

「うん、……そう」

「こんなのにも、親がお金を出してくれるの?」

「わたし、親いないよ」

「いつ?」

 わたしは──すこし果林のことを知らなすぎたことに……、驚きながら、自分を責めながら、やっと、その言葉が口にできました。

「神戸に住んでいたんだ」

 果林の言葉は答えになっていませんでした。でも、わたしにとってそれは答え以上のものだった。いいえ、……十分すぎるほどに。これほどの答えがあるでしょうか? 果林はあの炎の中で、震災で、一番たいせつなものを失ったのでした。

 わたしは手を引いて立ち上がりました。

 そして、追いかけるような声はかかりました。

「どこへ、いくの」

「どこにも。いかないよ」

 沈黙の時間が、しばらく二人に残されました。

「茜さん。……煙草もってる」

「なんで、吸うの?」

「うん、こういう時には」

「こういう時に、吸うものじゃないよ、煙草って」

「なぜ?」

「自分をやせ細らせていくだけじゃない、煙草って」

「茜さんはどんな時に吸うの? 煙草」

 果林はソファのなかから少しだけその身を寄せてきました。

「朝」

「だから強いんだ。茜さんは」

「何言ってるの、関係ないよ」

 わたしはそういうと、もう1度心を果林に返そうと思って、「お茶飲まない? カモミール。なんだかさみしいよ、お腹が空いて」と言い足しました。

「うん、そうね」

 あ、だめ! ──急に、坐らないで、と果林が叫び声をあげると、わたしはどきりとして、右の足を果林の手につかまれ、気がつくと、数秒後には床のうえに引き倒されていました。

 高い、高い、その視野に目をこらすと、果林はソファのうえに立って、わたしを見降ろしながら、笑って「見て、天井にも届きそうなんだ。わたし」と言っていました。

 ……

 わたしの感情。後から気がついてこれがにせものだったなんて、わたしは決して言わないし、考えないと思う。そう……誓って。

 わたしは笑いながら起きあがると、ジュエリー・ボックスのなかからピンクのカチューシャを取り出してきて、それを果林の手に巻きつけました。

「あ。すてきかも」

「お茶はやっぱり、ないから」

 果林は無言でわたしの目を見すえました。

「ねえ、いく? これから」

「うん。二人で服を買いにいくの、すてきなやつを」

「それからカチューシャ。もっと好い色のが見つかるかも」

「そうだね」



     &



 そして土曜日。わたしは、本町の裏道にある喫茶店で果林を待っていました。

 彼女もじぶんの用事をすませてからここへ来る、と言っていました。

 こんな場所で待ちあわせたことがなかったから、果林がオフィス街なんかに用事があるのをふしぎに考えていました。

 いつだったか、わたしたちが2度目に出会ったときには、二人は偶然話すことになったんです……。なにかが運命の糸を結びあわせて、それがたがいに引きあって。いまからは考えられないくらい離れていたのに、だんだんに近づいて、だんだんにおたがいを触れあわせようとして、必然のほうに引っぱってこれたと思うのです。

 わたしは、ノートを取り出すと「変化」という題で詩を書きつけてみました。

 冬いらいの久しぶりの詩でした。じぶんが生きてきた結果、たとえ未来がどんなふうに変化しても、それはそれで満足できるような気がしていたんです。

 時間を忘れて頬をついているころ……果林はやってきました。

 アイ・ラインと口紅がくずれていないか、ちょっと不安でした。

「前髪、すこし変えたんだね。茜さん」と果林が言いました。

「うん。でも、ほんの少しね」

「そおでもないよ。ずっと違ってる」

「そう?」

 ハンドバッグを椅子にかけると、果林は周りをぐるりと見まわしました。

「今日は秘密文書をもってるの。こんなところで、だいじょうぶかな」

「秘密文書?」

「そお。これ」と果林はれいの楽譜を取り出しました。

「ああ、曲のことね」

「がっかりした? ラブ・レターのほうがよかった?」

「ばかね。……イってるわ」

 果林の顔はほんのりと少し紅い色でした。

「直しもやって終わったの。いますぐに茜さんに聞かせてあげたいんだけれど。それはできないから、今度なんだけれどね。でもね、紹介してくれるって人に出会ったの。ピアノの弾ける店。そこで、本当にキーボードじゃない音で、茜さんに聞かせてあげられるの、わたしの曲。でね。今日はその人、画廊で個展をしているから、それでね……」

 果林は興奮していて、その言葉をわたしに分からせるのにすこし時間がかかりましたが、話はこういうことのようでした。

 果林は、音楽の店──ピアニストを雇ってくれるような、お店をさがして、あちこち歩きまわったらしいです。それはなかなか見つからなかったのですが(果林は未成年でしたし)あるところで出会った女性が、画家で、アドバイスをしてくれて、果林はインストラクターの空きを見つけられたそうなんです。

 わたしがそれも知らずに電話をかけると、そのとき……(いつも果林は留守だったんですね)。

「よかったね。果林」

「うん、とてもよかった。なんだか、わたし今日はおしゃべりだね」

「ううん。とても大人びてるよ」

「カチューシャ、ごめんね。こんな服だから似あわないと思って、手にもってきたの」

 わたしは、ふと気がつきました。

「忘れてたわ。……それ、もしかして初めてのプレゼントだったっけ?」

「うん。大事なものだよ」

「でも、スーツ姿にそれは。……ちょっとね」

「タンクトップにジーンズ、にも合わないよ」

「フリルのスカートのワンピースにも、だめね」

「あのグリーンのやつ、気に入ってんのに。それじゃあ何なら似あうの?」

「なんにも」わたしは意地悪い笑顔になって答えました。

「いやだ。なにそれ、なにそれ?」

 なにそれ……と、もう1度果林が低声でつぶやきました。

「でも……、よかった。果林がこんなことを考えていたなんて」

「うん、でも。じぶんでも知らなかったけどね」

 ──知らなかった?

 知らずに決まってしまうようなことでは、なかったけれど。わたしは果林の話した意味をそのときも聞けずに、大事なことをそのままにしてしまった気がするんです……。

 その日、大事だったことは(わたしにとっては)まだこれからも何度も果林に会うことができるんだろうか? そんなことだったんです。

 プレゼントのカチューシャは、わたしにとっても大事な想い出でした。

「あのね、果林。これだけど」

 と、他に言葉の接ぎ穂も見つからなくて、

「カチューシャ。いや、ちがう……この曲だけれど」

「うん。わたしたちの曲」

「わたしたち二人の曲だったよね。早く聞きたい」

「うん、待っていて」

 果林は遠くから人の声がかかったみたいに、どこか見やりました。

「待ってる。すごく長く待っていたから」

 わたしは、他の言葉をいうべきだったのでしょうか。

「でも、待ちすぎると楽しくないよ。待ちすぎると、変わっちゃう」

 それが──果林の考えでした。

「変わっても良いものはそのままだと思うけれど」

「わたしはイヤだ」

「でも、それだと喧嘩がえんえん続くことにならない?」

「それはどうして」

「わたしも知らない。でも、未来に自信はないから」

「それ、わたしを愛せなくなるってこと?」

「それはないわ。ぜったいに、ないわ」

「それじゃあ、どうして。どうすれば、茜さんを分かれるの?」

「?」

 わたしはふっと口元から笑みがこぼれるのを知りました。

「果林。こんなときに、吸うといいのに。煙草……」

「そうかもしれない」

「ブランデーも、こんなときに飲めばいいの」

「そうね。やせられるかな」

「かえって、ふとると思うけど」

「あ、いやだ。夏なのに」

「夏なのにね……」

 忘れていた時間のことを、わたしはちょっと思い出しました。

「夏なのに」

「夏だから、二人にできることをしようか……」

「えっと?」

「果林、プール行こうか?」

「みず?」

「暑いもの」

 そう。暑いときには、わたしたちはどこかへ帰れるような気がして、そして、わたしたちは裸でいてもじぶんたちの自信を失わないでいられそうな気がするから、海に行きたがるのかも知れない。

 わたしたちのぎりぎりさ加減を賭けて。

「それじゃあ、約束だよ。茜さんが連れていってくれるんだからね」

「連れていく? 果林におごらなくちゃいけないの」

「そう」

「そんな、約束はしない」

「明日で20歳になるの、そのお祝い」

「いいわ。仕方がないから、連れていく」

「投げやりだね、その言い方」

「投げやりでも、いいと思わない。投げやりに生きてきたからこそ二人は出会えたのかもしれないんだから」

 それが、その夜の会話のなかで、まだわたしが覚えている最後の言葉です。

 酔っぱらって、わたしたちはその夜電車のガラスを1枚こわしました。



 ……



 果林はとてもきれいな細い体をしていました。「愛されるのは、あなたなんだ」と、あらためて言ってあげたいような、幸せな青空の子でした。

「それ、あたらしいファッションなの」

 わたしは、さきに太陽の光にふれた果林にむかって呼びかけました。

「なに? このカチューシャ、水着にも似合うでしょう。恐れいったあ?」

 果林は、大きすぎる声で答えてから、その日まだ不安だったわたしを一緒にプール・サイドまで引いていきました。

「ほら。どこに行こう? どこに」

「どこにも行けないわ、せまいんだから」

「うそ。茜さん」

「茜さん……じゃなくて。あなたがしゃべってるの、わたしは聞くだけ」

「ほら、ほら」

 果林はわたしの腕をとると、その手首はずっと細かった……

 髪をおさえながら。……風がすこし強かった。

 脈をうつ鼓動が、果林の血管から直に伝わってきました。いま、彼女を感じ、彼女を支えていられるということがわたしの幸福でした。きっと気がつけば、これ以上のものはどこにも存在しませんでした。そしてこれからも。

 ……

「果林、わたしにはもうあなたしかいないよ、もう」

 わたしは彼女に引かれるままに、告白しました。

「え? 聞こえない。……風が強かった。なに」

 果林にはわたしの言葉が聞こえませんでした。でも、よかったんです。それを伝えることは不要でした。

「いいえ、なんでもない」

「そう?」

 わたしは、ただ意志もなく二人をつつむ光をみて手を引きました。

 ……

 そのとき、果林はわたしの手を握ったまま水に飛びこみました。しずかな水しぶきが、二人をかこんで跳ねたんです。

 わたしはちょっとだけ驚いて彼女につかまりました。

「あ、あそこにね」──水上に出た果林は、わたしの肩ごしにつぶやきました、「悪い奴がいるの。むこうへ行こう」

「誰?」

「悪い男。わたしをナンパしようとしたの」

 そのとき、押しつぶされそうな胸のなかでは(光をもった彼女とはちがって)わたしはとても、恐かった。こんどはとても苦しかった。

「茜さんが守ってくれれば、なんでもないただの男」

 果林はそういって舌を出しました。

(わたしはただの女でした。……守りたい。でもそれができるの? 彼女よりすこし年上なだけで、なんの才能もないのに!)

「果林、聞いてほしいの」

 ……わたしの感情はとても揺れていたから。

 でも、──その先を果林は言わせませんでした。

「茜さん、何も言わないで。いま、わたしはあなたの心が感じられるの。いま、なにもかもを信じることができるの。いま、わたしたちは黙ったままでも、すべてを通じ合える気がするの」

 果林は、背泳ぎでわたしからすこしずつ離れていきました。

 いつのまにそんなに離れていったの……そんな距離になるまで。

 わたしは黙って逃れていました。

(ああ、……いけない、そうじゃないの?)

 わたしは空を、高いものを見上げました。雲が、速く流れていました、果林の曲のように。

 そうね、果林はいつでもわたしのことを見ていた。

(あこがれなんだ……、茜さんのこと……)って。

 ……

 わたしはしずかに水を切って、果林に追いつきました。

「果林、わたしのこと信じている?」

「もちろん」

「わたしたちのかんけいがどんなふうに見られても?」

「同性愛は、悪だから?」

 ……

 わたしは彼女をきゅっと抱きしめました。

「果林となら、変えてゆけそうな気がする」

「そう、できるね。茜さんとなら」

 水のうえで、光りは揺れていました。

 ……

「おぼれちゃうよ」と、わたしは果林の声でわれに返りました。

「しっかりしてよ、茜さん。危険だよ」

「ごめんなさい」

「だいじょうぶ? オーバーロードしてない? あなたの感情」

 果林はとてもきれいな笑顔でした。果林が笑うことを、わたしは何よりも待っていたのでした。かるいほほえみなんかじゃなくて、大阪の子がよくそうするような、心から吹き出すような笑顔を……

 果林が宙にむかってさけびました。

「愛しあってるわ、わたしたち!」

 それはまわりのすべての者たちへの彼女の宣言でした。わざと聞かせるために、だから大声でさけんだのでした。

 世界は、急に二人のまえに開けたんです……。

 男たちからは無視されたみたいでした。女の子が何人か手を叩いてくれました。でもただ一人、さっき果林をナンパしかけた彼氏がずいぶん遠くに立って、こっちをにらんでいるのを、わたしは知っていました。

「……茜さん、全員に聞かせるの」

「ここのみんなに?」

「みんな。イエスさんにも」

 わたしは不安いがいの何かが心のなかに生まれていました。

 わたしは、肩紐のしたですこし赤くなっていたハダに気づきました。

 わたしは果林に笑いかけると、ささやきました。

「呼び捨てかいな?」

 ……

 体中の血液を抜かれて、ミントティーでも注ぎこまれたような気分でした。

 ……

 水からあがったとき、彼女はいちばんに口に出しました。

「茜さん、足長いんだね」

 わたしは肩紐をすこし引っぱっていました。

「足がどうって?」

「その長い足、自慢なんでしょう?」

「そうでもないし。焼けやすくて困るの、これ」

「茜さん、肌よわいの?」

 果林は、知らないものでも目にしたような瞳をしていました。

 ちょっとそれには答えたくなくてわたしは彼女の肩をつねりました。

「意地悪!」

 果林はそっぽを向くふりをして、でも本当はたぶん気になっていました。

 あたりからの視線がものめずらしそうに、わたしたちを嘗めていたんです。

 彼女の気もちがすこし可哀そうでした。

「果林、甘栗を食べたいよね?」──だから。言葉はわたしのほうからかけました。

「なに」

「甘栗。さっき、あっちに売ってたの。食べない?」

「この暑いのに? 熱いもの」

「熱いから。……暑いけどね」

 ──果林はバスタオルを手にとって歩きだしました。

 わたしは速歩はやあしの果林のうしろから(いつもみたいに)追いかけるように彼女についていきました。

「茜さん、あなたは、誰かに似ているから……」わたしを好きなわけじゃないよね?

 果林は、その歩みを止めずにわたしに聞いてきました。

「だって、わたしは男の子みたいだから」

 わたしは振りかえらない彼女にはっとしました。

 それから、くすくすという笑い声を聞いたんです。

 絵葉書のような雲が空からおちていました。

 わたしたちはプール・サイドの長い距離を歩いてゆきました……。

 光はつよく、さんぜんと降りそそいでいました。ショート・カットのゆれる神。背中までおちてゆく白い頸のライン。この気品こそ果林なんだって、わたしは気づいていました。

 二人は甘栗を売る店につきました。

 果林は、売り子の女の子の顔をみると、

「この人レズなの、知っている?」しずかにつぶやいたのでした。

 ……

 二人は烏龍茶と甘栗をたべながら談笑しました。

 幸福な思い出は型づくられていったんです……。こんな何気ない、大阪という街の一角に、ある夏の一瞬の日ざしのなかに。そして、思い出はまたとない、美しい尊い色をしていました。わたしたちいがいの誰でもない、わたしたちが愛しつづけたという彩りに染められて。

 これは──誇らしさにつつまれていました。

 しずかに時間が流れついたとき、果林は立ちあがって、「抱いて」と言いました。わたしにむけて、誰が耳にしてもかまわないような、毅然とした声をして。

 わたしはまず、彼女の肩紐をおろしてそこに口づけました。それから、まわりを見ないまま、彼女が孤独を感じずにすむように……、しました。

「なぜ、肩にキスするの?」

(教えない)

「なにか理由があるんだ?」

 雲からおちてきた影がわたしと果林を呑みこみます。──「ねえ、神様に言ってあげてよ」

「わたしたちのことを、悪く見ないで!」

 果林が宙にむかって叫びました。



     &



 これいじょうは、何も書くことができません。辛いのです。

 果林はいなくなってしまいました。彼女がどこにいるのかを知りません。

 果林は、わたしの目線からもこの街からも消えさってしまいました。わたしと果林を知る子に、彼女のゆくえをわたしは必死で聞いてまわりました。幾夜も、幾夜も。それなのに、誰も知らないのです……

 果林は離れるよう、決められていたにちがいありません。だって、彼女は大人だったのですから。もう果林は20歳になっていたのですから。ここにはいられないと気づいて、ここにいるのが自分でないと知って、どこかへゆくしかない。どこかへゆくことにした……、そして行ってしまった。

 わたしはそれを知っていた。知らなければよかった。そう。知っていたから、それを書けば分かってしまう。……真実が、わたしを絞殺してゆく。

 もう、何も書きたくない。これいじょう、わたしに話させないで、思い出のなかからわたしを苦しめるのを止めて! 果林。今。

 わたしはあなたを愛していた……、






  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

いんとろだくしょん&アレグロ おぼろづきよ @oborodukiyo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ