004. 聖女ネル

 抜群の聴覚を備えるユーゴは雑踏の中にあっても、少女が上げたか細い悲鳴を聞き逃さなかった。

 見れば200メートルほど先にある露天商の前で、少女がひったくりに遭ったようだ。

 ひったくり犯はどういった原理なのか、一足で建物の屋上へ跳び、屋根伝いに逃走を始めた。

 都合よくユーゴのいる方へ向かってきている。これが野郎ならば見て見ぬ振りをしていた可能性が高いが、うら若き女性の受難だ。ユーゴとしては一肌脱ぐのもやぶさかでない。


「さて」と腰を上げたユーゴの姿が、一瞬で消えた。


 屋根から屋根へ駆けるひったくり犯は、目的の品を手に入れたことでほくそ笑んでいた。しかし、決して油断していたつもりはない。彼には腕に覚えが多少なりともあり、現にその瞬間も周囲に注意していた。

 だから、なんの前触れもなく目の前に長身の男が現れたときにひどく仰天し、その拍子に盗品を掴んだ手が緩んでしまったのは、一概に男の実力が低いからとは言えないだろう。

 ユーゴはその隙を見逃さず、ひったくり犯の手を下から蹴り上げ、盗まれたもの───小さな金属片───を上方へと高く飛ばした。

 続けざまに軽く跳躍して手のひらサイズほどの金属片をキャッチしたユーゴは、行きがけの駄賃とばかりに、踵落としネリチャギをひったくり犯の脳天へと繰り出した。



「あ、貴方が取り返してくださったのですか?」


 昏倒したひったくり犯を肩に担いで路上へと戻ったユーゴに声を掛けてきたのは、被害者の少女だった。


「ほら。もう盗られないようにしろよ」


 と言いながら、金属片を少女に渡すことでユーゴは少女の問を肯定した。


「よかった…」


 涙ぐみながら、少女は金属片を胸の前で押し抱くようにして安堵した。


「あ! す、すみません。私ったら、まずはお礼でしたね。ありがとうございました」


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 慌ててペコペコと頭を下げる少女。フードを被っていたので判らなかったが、よく見ればかなり整った顔立ちだった。しかし年齢は十代半ば。その時点でユーゴは興味を失った。子供に興味はないのだ。

 特に年下好きと言うわけでは無かったが、美少女のお礼に心は満たされた。それだけで十分だった。

 ユーゴは「いいってことよ」と片手を上げて答えた。

 さて戻るか、と踵を返しかけたところへ───


「ネル!」


 桃色の髪を長くしてひっつめた少年が駆けつけてきた。どうやらフードを被っていた少女の仲間らしい。ネルとはフードの少女の名前だろう。


「ネルさん!」


「ネルおねーちゃん!」


 少年に続き、更に二人の少女が眉を八の字にして走ってきた。


「ゼストさん。スウィンさん。ピアちゃん。はい、私は大丈夫です。この方が聖璽せいじを取り返してくださいましたから」

 ネルは掌でユーゴを示し、それに導かれて少年と少女たちの視線がユーゴに注がれる。


「お、おう」


 引き返すタイミングを逸したユーゴは、ひとまずそう応じておいた。



☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆



 元いたカフェに戻ったユーゴ。しかし彼が座るテーブルには他にも桃色髪の少年とネルと二人の少女が同席していた。

 ネルの仲間たちからも感謝されたユーゴは直ぐにその場を辞そうかと思ったが、桃色髪の少年が、


「もし良かったらボクに昼食をご馳走させて欲しい」


 と申し出てきたのだ。

 特に断る理由もないので受けることにしたユーゴだったが、少女たちが少し意外そうな顔を桃色髪の少年に向けたのが印象的だった。


「ボクはゼスト・スティンピア。ネルの大事な品を取り返してくれてありがとう。改めて礼を言わせて欲しい」


 ゼストと名乗った少年は、かなりのイケメンで柔らかそうな雰囲気をしている。背丈はユーゴほどではなく細身の中背ではあるものの、恐らくかなり鍛えてあるはずだ。

 腰に長剣を佩いていることや隙のない挙措から、高確率で腕が立つ武芸者であるだろうとユーゴは思った。


「私達からもお礼を言わせてもらいます。私はスウィン。この子はピア」


「ピアだよ! ネルおねーちゃんを助けてくれてありがとう!」


 スウィンは砂色の髪を長く伸ばした少女だ。スラッとした手足をしていて、吊り目がちな目元が気が強そうな印象を与えている。

 対してピアの方は真っ白なショートヘア。手元をブラブラとさせながら話していて、なぜか頭から猫の耳が生えていることを除けば、活発そうな普通の町娘に見える。

 そして外套のフードを外したネルは艶やかな栗色の髪を両耳の下でお下げにしている。話しぶりから温和そうな印象を受ける美少女だった。

 話を聞くと、彼ら四人は旅の途中でこの街に立ち寄ったとのこと。

久しぶりに大きな街に来たということもあり、ネルは物珍しさから油断して、仲間達から離れて土産物に見入っていた。

 そこをひったくり犯に狙われたのだ。


「完全にボクのミスだ。ヴァリオン教本部に近づいていたのは分かっていたのに、目を離してしまった」


「いいえ。ゼストさんだけの責任じゃないわ。宿を探しに行ったゼストさんの代わりに、目を光らせておくべきだったのは私よ」


 ゼストを庇うようにスウィンが己の責任を主張した。


「それを言うならピアもそうだよ。この町に入ってからヴァリオン教徒の匂いが多くなってたのに、屋台の美味しそうな匂いについ釣られちゃった」


「いえ。一番悪いのは私です。狙われている身であるにも関わらず、気を抜いてしまったのですから。自覚が足りませんでした」


 皆が皆を庇い合って埒があかなそうな気配なので、深入りするつもりはなかったが、ユーゴは事情を訊いてしまった。


「ヴァリオン教ってのは、確かこの国の正教であるミラール教と対立している宗教だよな。なんでネルは狙われているんだ?」


「本当は大きな声で言えないんだけど、このネルはミラール教の次期聖女の一人と目されていてね。僕たちは彼女をミラール教の総本山へと送り届けている途中なんだ」


「ユーゴさんが取り返してくださった聖璽はとても大切なものなんです」

「それがないと、ネルさんはミラール教に聖女と認められないのよ」


 ゼスト、ネル、スウィンの順で事情を話した。

 するとあの男は、ヴァリオン教徒か教団に雇われた者だろう。聖女がどれほど重要な存在かは知らないが、少なくとも対抗勢力に狙われる───つまりその位置に就かせたくないと思われるくらいには重要ということか。


「でも意外だったわ。最近はずっと私達四人でお忍びで旅していたのに、急にこの人を食事に誘うなんて」


 スウィンはユーゴを指差していった。


「はい。私もです。旅の目的もそうですが、今までゼストさんは誰かと積極的に関わろうとしなかったので」

「うん。それなんだけど…」


 ネルとスウィンの指摘を受けたゼストは少し口ごもり、やがて意を決したようにこの場の全員に伝える。


「ユーゴさんに、ボクたちの旅に同行してもらいたいんだ」

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