第60話 《回廊》
翌早朝。
おれたちは魔染領域にいた。
ここに来たことがあるのは、おれと美凪、それに記憶はないがプラスィノの3人だ。
「兄さん、大丈夫?」
無言のおれを見て、陸が心配そうに訊ねる。
昔、船に乗っているときにフルーツジュースを飲みすぎて吐いたことがあって、以来船酔いの記憶と結びついたのか、そのジュースを飲めなくなった。
それと似たような状態なのだろう。
魔染領域に入ったあたりから、前回のマナ酔いが脳裏をよぎって気分が良くない。
けれど、目を閉じて何度か深呼吸すると、それも収まってきた。
フィラトの作った人形の身体は、マナの濃い空間にちゃんと順応している。
「大丈夫。ありがとう、陸」
冷や汗を拭いながら、おれは足許を見つめた。
おれたち4人の目の前には、火山の火口にも似た穴が広がっていた。
直径およそ30メートル。
縁の部分が隆起した岩で、内側には虹色の光が渦巻いている。
これが、人界と幻界を繋ぐ《回廊》だ。
ぐるぐる、ぐるぐる、虹の渦。
見ているだけで、頭がおかしくなりそうだ。
「オラ、肚ァ決めろお前ら! こっからは楽しいダイブの時間だ」
美凪が鬼軍曹のような口調で言う。
「む、無茶言うなよ姉さん……こんなの、無事向こう側にいけるイメージが湧かない……」
あの渦に巻き込まれたらどうなるんだ?
溶ける? 引き千切られる? 分解される?
よしんば五体満足でいられたとして、正気は保っていられるのか?
こんな調子で足が竦み、さっきから10分あまりもここに留まっているのだ。
「しっかりしろ。フィアンセを助けにいこうって白馬の騎士が、そんなありさまでどーすんだ」
ごもっとも。
ここまで来て引き返すのは論外。
いくしかないのはわかってる。わかってるんだ。
「う……うわあああああああああああ!!!!」
恐怖心をかき消すために大声で叫び、一歩を踏み出――ああっ、やっぱりできない!
とん。
背中を押され、気づくとおれは虚空にいた。
足の裏が地面にふれていない、なんとも心許ない感覚。
そのまま下へ――地球の中心へとひっぱられる。
「う――――わ――――」
悲鳴も思考も、なにもかもを頭上に置き去りにして、おれは落ちてゆく――と、思った瞬間、今度は真上方向の浮遊感に襲われた。
「あ……れ……?」
もう、落ちていない。
キョロキョロと辺りを見回す。
目の前に渦巻く虹色の光はそのままだが、空は微妙に緑がかっており、肌を撫でる空気の感触が微妙にちがう。
そしてなにより、魔染領域よりもさらに濃いマナが周囲に満ちているのを感じる。
数秒前とよく似ているが、明らかにちがう場所。
戻ったのではなく、抜けたのだ。
幻界側の《回廊》の縁に、おれはいま、立っている。
「よっと」
「んしょ」
「ふいぃ……」
呆然とするおれの左右に、美凪、陸、プラスィノが次々に現れた。
「いきなりなにするんだよ!」
「どうってことなかっただろ?」
おれの抗議を、美凪は華麗にスルーした。
あんな感覚、垂直落下型の絶叫マシンでも味わえないだろ……
「みんな、気分が悪くなったり、五感にラグが生じたりはしてない?」
陸とプラスィノが首を横に振る。
「おれは、ちょっとふらつくかな。足許がふわふわする感じ」
「霧矢は
すこし休憩を挟んで、おれたちは《回廊》を後にした。
《回廊》の周囲は人界側と同様、柵で囲われていたが、警備の兵はそれほど見かけなかった。
そもそも《回廊》を通れる者がまれなので、その必要が薄いのだそうだ。
探索者である美凪がいたおかげで、あっさりと柵の外に出られたおれたちは、改めて目的地を確認した。
「まずは、霧矢の友人の助言に従ってオッサリオに向かう。ここから北東に進むと大きな街道にぶつかるから、それをさらに北上する。10日ほどあれば着くだろう」
美凪が地図も見ずにすらすらと口にし、土地勘のあるところを披露した。
「急ぐ旅だが、焦る必要はない。最初は戸惑うかもだけど、幻界もいいところだ。いまは戦争も起きてないし、オッサリオに着くまでは、のんびり観光を愉しむくらいでいいだろ」
楽観的な物言いではあったが、美凪の意図としては、おれたちの緊張をほぐそうとしているのだろう。
あまり張りつめたままでは最後までもたない。
あれこれ考えるのは自分の役目だから、任せておけというのだ。
実際、その通りだ。
勝手のわからない土地でうかつに動けば、どんなトラブルに巻き込まれるかわからない。
それでも、一刻も早くモルテに会いたいという気持ちから、自然とおれの歩く速度ははやまっていた。
「おい、霧矢。あんまり先にいくなよ」
「うん、わかってる――」
美凪の声に、足を止めて振り返ったとき、遠くから声が聞こえた。
「暴れドラゴンだー!!」
「は?」
言葉の意味を理解するよりはやく、道の先から地響きが近づいてきた。
全身を鱗におおわれた、小山のような大きさの生物がこちらに向かってくる。
その速度は凄まじく、あっという間におれの眼前に迫り――
ぶちん
パソコンがいきなりシャットダウンしたみたいに視界が暗転した。
「うわああッ!!」
飛び起きるとそこは、見覚えのある建物の中だった。
薄暗い照明に、棚に並べられた人形のパーツ。
「ここは……」
「ふぁーーーーーーーーー〇く!!!!!!」
耳をつんざくような音量でFワードを発したのは、目を血走らせたフィラトだった。
そう。
おれは暴走するドラゴンに踏み潰され、魂だけ人界にもどってきてしまったのだ。
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