第53話 黒猫が通る
『帽子屋』の魔法の影響が自身にどれだけの影響が出ているのか。黒兎と悟は話し合い、両者の記憶を確認し合ったが、明確な答えは出なかった。
結局時間だけが経過して、明日の学業に備えて就寝したのであった。
翌日、普段通りにスマホに設定したアラーム音で目が覚めて、姿を現した黒兎と「おはよう」と挨拶を交わす。
制服に着替えて、手短に身支度を整える悟。一階の台所に行き、朝食の準備に移る。悟と母親の二人分だ。父親の姿は既になかった。
(……どうせ記憶を改変するんだったら、母さんの心も治してほしかったな)
妹の久留美が亡くなってから、精神的に不安定になってしまった悟の母親。『帽子屋』の魔法が世界規模で効力を発揮している中、悟の家庭内の状況は何一つ変わっていなかった。
母親は娘を失い、鬱病に。父親は仕事を優先。久留美が欠けた穴はそのまま。
悟が認識できる『帽子屋』の魔法の影響は、あくまでも黒アリスに対する世間のイメージや、『魔女』エリザに関するものだけで、それ以外の変化はない。
(この前は『帽子屋』も力を貸してくれたけど、本質はジャバウォックとハンプティ・ダンプティと同じだよな……。まだ言うことを完全に聞かせられている訳じゃないし)
エリザ――利恵を洗脳した下手人を倒した後には、残りの使い魔を制御下に置かなくては。
そんな風に思考を回しつつ、悟は母親の部屋の前に食事の入ったお盆を置き、台所に戻り自分の分の食事を始めた。
「……ごちそうさま」
十分もかからずに朝食を終えた悟は、壁にかけてある時計に視線をやる。登校するまでにはまだ時間はある。
母親の分の食器を取ってくると、皿洗いを開始。悟の耳に入るのは、蛇口から出しっぱなしの水の音のみ。
皿洗いも終えると、学生鞄の中身を確認して玄関へと向かう。
「……行ってきます」
普段通りに、悟を見送る声はなかった。
季節が夏へと移り変わろうとしているのを、制服と肌の間に発生する汗で感じながら、通学路を進んでいた。
無言で歩みを進めていた悟の目の前を、一匹の黒猫が横切った。チリン、と黒猫の首輪に付けられた鈴が鳴る。
悟の目線は自然と黒猫の方へと向いていた。小さく、けれど意思を感じられる黒い瞳と視線が交わる。
「ニャアー」
何かを告げるように一声鳴いた黒猫は、振り返ることなく去っていく。時間にしてみれば、十秒にも満たない会合であったが、悟には鳥肌が立っていた。
「どうかしたの? 有栖川君?」
悟の背後から声をかける、少女が一人。悟の幼馴染の佐々木恵梨香であった。制服姿の彼女が立っており、不思議そうな視線を悟に向けていた。
大方道端で立ち止まっていた悟の姿を見て、疑問にでも思ったのだろう。
「何でもないよ……佐々木さん。さっき黒猫が僕の前を横切って、少し驚いただけだから」
「そうなんだ。猫さんかぁ。私も見たかったな……」
「あははは……」
恵梨香の言葉に、乾いた笑みでしか反応できなかった悟。黒猫は不吉の象徴。そんな考えが脳裏を過ぎってしまい、何故か嫌な予感がした。
まるで利恵が洗脳されて暴走した時に感じた胸騒ぎが――。
「早く行かないと、遅れちゃうよ?」
「――!? ご、ごめん。ちょっとぼうっとしてたみたい。昨日寝るのが遅くてね……」
先に歩を進めていた恵梨香に、早足で悟は追いつこうとした。
「もう……」
仕方がない、と言わんばかりにため息を吐く恵梨香。二人は遅刻することなく、無事に登校した。校門を潜った時には、悟はその胸騒ぎを忘れていた。
■
「おはよう」
「おはようー。有栖川さんに、佐々木さん」
教室の入口で雑談に耽っていたクラスメイト達に挨拶をする悟と恵梨香。そのまま二人は隣り合う自分達の席へと向かった。
恵梨香が荷物を下ろして、一限目の準備をしている傍を通り、悟は友人達と会話に花を咲かせていた利恵の方へと足を向かわせた。
「……おはよう、柏崎さん」
「それでね……って、どうかしたの? 有栖川さん」
「いや……ただの挨拶をしに来ただけだよ」
「そ、そう。……おはよう」
「……ごめんね。お邪魔だったみたいで」
ぎこちない挨拶を交わした後、悟は足早に自分の席へ逃げるように去っていった。
「ねえ……利恵。最近有栖川君と何かあったの?」
友人からの質問に、恵梨香は首を傾けるしかなかった。
「さあ……? 前はそんなに話すこともなかったし、私にもよく分からないんだけど……。不思議と嫌な感じはしないの」
「へえー。もしかして恋の予感……!」
「もう……! そういうのじゃないから! それに有栖川さんには、佐々木さんがいるでしょ」
「でも、あの二人って幼馴染だけど、それ以上の噂は聞かないから利恵にもチャンスはあるよ」
「だから、そういう意味じゃないって!」
女子中学生が盛り上がると言えば、他人の色恋沙汰。キャーキャーと騒ぐ友人達に、利恵は軽く声を大きくして否定するも、火に油を注ぐ結果に終わってしまう。
利恵とその友人達の会話は、チャイムが鳴ることで中断され、各々の席に戻っていく。
「はあ……」
利恵は大きくため息を吐いた。それは何故か熱くなってしまった頬を、意識の外に追いやろうとしての行動か。彼女には分からない。
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