後退

木谷

後退

僕は畳部屋にひとりで、隣の部屋から漏れ出る話し声に聞き耳を立てていた。大人が何かを咎める声がして、僕は静かに、ズボンのポケットからミニカーを取り出した。

 い草の、かつては隙間なく編み込まれていたのであろう目に逆らうようにプルバックカーを引く。赤い車体は光を失ったようで、きらりともせず、親指と人差し指の間に安っぽく収まっていた。車内のぜんまいがちきちきと障る音を立てながら、畳の道路をバックする。僕は何かを知っていた気がした。しかし、もはや空回りするだけの、むしろ壊れそうにも思えるぜんまいの音が思考を遮って、今の風景、心情を進みゆく現実地点へとリセットしていき、それ以上の展開を許さない。太陽に焼けて色の変わった畳の表面の、ほつれた棘の一本ずつが、力関係からの解放を目指して立ち上がったそれらがいまだに畳の表面という二次元領域から脱出できずにいる。その中を安っぽい音で進むプルバックカーの想像を、ぜんまいの空回りする音がまた掻き消す。僕もまた、大人だけの領域、隣の空間へと脱出できずに畳の三次元領域に閉じ込められていた。微かに漏れた啜り泣きが薄暗く湿った空気を震わす。大人になるという、時間軸の次元を得られないために僕はここから出られなかった。

 僕は慎重に指を車体から離した。赤い車はその瞬間からくるくると弧を描いて畳の上をこぢんまりと走り出した。まっすぐ進むかに思われた車は、はじめから曲がるためだけのタイヤを備えていたのだ。僕は心からおかしさが湧き起こるのを感じて、口を強く瞑った。すす、すすす、と唇の間から空気が漏れ出した。口角もまた、痙攣に近い動きでおかしさを表出させた。車は少しの間まわり続けると、畳の縁にこつんとぶつかって動きを止めた。僕は大きく息を吐きながら、ミニカーを再びつまみ上げた。タイヤは余ったエネルギーを消費すべくカラカラ回っていた。その頃には赤い車体はもうすっかり色を失っていたし、隙間から聞こえる啜り泣きはすっかり大きくなっていた。

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後退 木谷 @xenon_xenon

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