栗(ぐり)ちゃんも歩けば棒に当たる V.1.1

@MasatoHiraguri

第1話 はじめに

ふとしたことから見返した(いま一度見なおした)大学日本拳法の或る試合映像。YouTube「2017全日本学生拳法個人選手権大会 女子の部準決勝戦 岡崎VS谷」https://www.youtube.com/watch?v=O7kumnslLns 


この2分30秒は、あらためて私に多くの学びというか啓示・天啓を与えてくれました、とは大げさな、まあ、類い希なる良き刺激を与えてくれ、形而上的に触発されること大であった、ということです。


  具体的な教えや学びということではなく、強力な刺激ということです。ですから、以下の私の文章に関する文責・考えについての責任はすべて私にあります。

いう形而上的な話とは、禅坊主からすれば「すべて無だから意味がない」ということだし、世の金持ちや権力者からすれば「引かれ者の小唄さ」ということになるでしょう。

  じっさい、こればかりは、私もあなたも死んでみなければわからないことなのです。


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  「犬も歩けば棒に当たる」とは、「物事を行う者は時に禍いにあう。また、やってみると思わぬ幸いにあうことのたとえ。」広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店


  私の場合、人に誘われたり・乗せられたり・人に媚びて、とか、或いは、世の常識ではなく「世間の俗っぽい常識」に染まって訳もわからず何かをしたり、周囲の同調圧力に負けて悪いと知りながら(ワクチンを打ったり)警察官のように瀆職(注)に手を染めたり、なんてことをしたことがない。

いつでも・どこでも「自分の目で見て、自分の耳で聞き、自分の頭で考え、これだな、これは本物(真実)だな、と思ったものを取れ。(全寮制高校時代の舎館長の言葉)」の精神で、尚且つ、大学日本拳法的に行動してきました。

(私が考える)大学日本拳法的とは、「殴られる・心がめげる(気が弱る・負ける)ことを恐れずに前へ出る」「周囲から狂気と思われても気にしないで前へ出る」ということ。

(技術的に優れているとか試合巧者、なんてことには関心がない)

また、前への出方についても、殴られたり足蹴にされながらの前進の方が、怪我なく苦痛なしで前へ出て楽に勝つよりも「あとで報いがない」。そう思うようになったのは、還暦を過ぎて自分の人生を見返し・思い返してみて、です。

報いがない(生き方)とは、生きている間につじつまが合う・勘定が合うような生き方のこと。

楽して儲けた、痛い・苦しい思いをしないで良い目を見たという人生では、肉体が滅んで位相が大きく変化したとき、バランスをとるために「相応の報い」がくる。

生きている間に、金持ちと貧乏、不幸と幸福、戦争と平和といった形而上下をバランス良く実行していれば、位相が変化したとき大自然の元へ自然と還ることができる(と思うのです)。

(注)瀆職 : 職を瀆(けが)すこと。私欲のために職務・地位を濫用すること(広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店)

「報い」とは

なべてこの世はバランスの上に成り立っている。

昼があれば夜がある。晴れと雨、暑さ寒さ、天と地、水と火。

水の入ったコップに一滴の赤インクをたらすと、やがて濃い赤色は薄いピンクになる(インクの分子が拡散する)。しかし、何日かすれば、水が蒸発して元の赤いインクに戻る。

ところが、人間は人工的に「マックスウェルの悪魔 ブルーバックス」(注)を作り出して、非バランスの世界という幻想を作り出している。

エアコンで部屋の中を暑くしたり涼しくしたり、なんていうのがこれです。株や為替による儲けや富の一極集中なんていうのも、自然本来の法則から外れた「歪な」現象といえるでしょう(自分が貧乏人なのは自然の原理ですが)。自然の法則からすれば、集中したものはやがて分散・自然に拡散していく。

肉体の死という、幻想から解放された、完全なる形而上の世界になった時、それまでの非バランス世界はもとのバランスの世界(位相)に戻る。これが、俗に言う「最後の審判」とか「閻魔様の裁決」ということ。この世での集中があの世では分散、若しくは霧消・霧散するとは、古来から人々の遠い記憶によって紡ぎ出されてきたことではないか。

非バランスの世界におけるその人の勘定が、バランスの世界では清算されるというわけです。

極度にカネをかき集め・ため込んだ者は、その負債を償却(つぐないかえすこと。借金を返すこと)することになる。

詐欺や詐称、権威や権力でによっていい思いをし、おいしい目を見てきた者も、そのバランスを取るために決済させられる(支払いを済ます必要がある)。

具体的にどういう形・やり方で決済させられる(均衡を取らされる)のかは、わかりません。少なくとも貧乏人の私は、あの世で更に貧乏になるということはない、ということだけは確かでしょう。

世人は、それを天国と地獄・極楽と地獄(血の池・針の山)なんていう想像をしているのか、遠い過去の記憶からそう思い出しているのか。ダンテの「神曲」とは、単なる社会批判なのか負け犬の遠吠えだったのか、それとも、彼は遠い過去に本当に「あの夢」を現実に体験したのであろうか。

しかし、いずれにしても、そうやってバランスを取ることができてはじめて、魂のある者は自然(天国・極楽)の元へ還ることができる、とは自然の原理からいえば間違いないのではないでしょうか。

ところが、PFASとかいう、早い話、永久に変化しない・劣化しない → 永久に自然の物質に分解されないプラスチック」のような人間も、この世にはたくさんいる。そういう人たちというのは、肉体の死によって位相が変わっても、そのまま変化することがない。

そのことを、天才芥川龍之介は「彷徨へる猶太人」(青空文庫)という小説で描いたのです。

(この小説は、ドストエフスキーの「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」、トルストイの「戦争と平和」、スタンダールの「赤と黒」といった名作を越える、最も簡潔に真理を穿った警句ともいえるかもしれません。)

(注)マクスウェル‐の‐まもの【マクスウェルの魔物】

(Maxwell's demon)マクスウェルが1871年の「熱の理論」に登場させた仮想の魔物。気体を入れた容器内の隔壁に設けた小さい扉を開閉して速度の大きい分子を一方向へだけ通過させ、熱力学の第2法則に反して隔壁の両側に温度差を生じさせることができるとされる。広辞苑 第七版 (C)2018 株式会社岩波書店

続く

2024年3月6日

V.1.1

平栗雅人

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