第1章 作品の図像的特殊性

 縦64cm、横66cmのほぼ正方形のカンヴァスに油彩で着色された本作の中央には、画面右方向を向き、翼を閉じて立つケセファリスが描かれている。彼は画面の向こう側の我々には目もくれず、首を少しばかり動かしながら、常に空の遥か遠くを眺めている様子である。時折欠伸をしたり遠吠えをしたりするが、決して退屈なわけではなく、過去から未来を一瞥して見通す知性ゆえの雄大な構えなのだろう。彼は切り立った崖の上に立ち、足元では白、黄色、紫などの小さな花が風に揺れている。彼の遠く後ろにはゴシック建築を思わせる壮大な城塞があり、その周りには尖塔が多く立ち並んでいる。空は厚い灰色の雲が常に画面右から左へと流れており、その隙間から日光がケセファリスや遠景の城に射し込むこともあるが、常にその画面反対側では稲妻が走っている。


 さて本作に描かれるのはケセファリス一頭のみであり、彼が智慧を授けるダミアーノは描かれていない。しかし伝統的に、ケセファリスを描く絵画には彼より智慧を授かり、イングランドの魔術師の祖となったダミアーノが描かれる。ヤードバード聖堂で発見されたケセファリスを描く絵画の内、14世紀以降の作品は全てダミアーノを伴うものである。15世紀にはケセファリスを主題とする作品ではダミアーノが必須のモティーフとされており(※6)、アレッツィもまた他の作品群ではその伝統に必ず倣っている。『薔薇の詩』の主人公ダミアーノはケセファリスより智慧を授かる前は一介の羊飼いにすぎなかったが、智慧を受けてからは数々の困難に立ち向かい、後進の育成に励んだ英雄である。したがってケセファリスが描かれてダミアーノが不在なのは、洗礼者ヨハネはいるがキリストの居ないヨルダン川を描いた絵画のようなものだ(洗礼者ヨハネのみを描く絵画は存在するが、それと混同はしないでほしい。本来のコンテクストで必要な要素が欠けているということだ)。このように伝統から大きく逸脱する画面構成は画家本人の意志によって決定しうるものではなく、また既に発見されている契約書の文面から、注文主であるダニエル・ド=ナルニア自身による強い意向によるという見方が現在では主流になっている(※7)。


 さらに本作品の構図的特異性は、15世紀当時の魔法絵画の潮流と比較することで更に強調される。『マゴイ倫理学』、『翼の民の詩』、『薔薇の詩』などドラゴンやそれに関連する人物について叙述した文学作品に基づく15世紀の絵画群は、一般世界のキリスト教絵画と同様に、大きく二つのジャンルに分けることができる。一方は壁画、祭壇画といった公的な場での鑑賞を前提に描かれた「物語画(Historia)」、もう一方は家族礼拝堂や邸宅の私室など私的な場での鑑賞を前提に描かれた「祈念画(Andachtsbild)」である。


 物語画は聖堂空間の装飾の他、典礼や祈りの儀式への大衆の誘いを目的とするため、一般的に大型のカンヴァスや壁面といった大きい画面に色彩豊かに描かれる。そのモティーフはドラゴンと魔術師が同時に用いられるが、ヤードバード聖堂主祭壇に設置された、フランドル出身の魔法画家ヤン・イクシオン(Jan Ixion)による三連祭壇画のように、作品が複数のパネルで構成される場合は一つのパネルにドラゴンのみ、または魔術師のみが描かれることもある。一方の祈念画は持ち主の私的な礼拝・瞑想を目的とするため、移動や持ち運びが容易になるように必然的に小型になった。また私的空間への調和が考慮されたことで豪華な装飾は排除され、少ない色彩でドラゴンと魔術師の二者を描くことが多い。


 本作の位置づけをめぐっては度々論争が繰り返されてきた。本作品は形式上は祈念画に分類されるが、その構図や色彩においては間違いなく物語画に位置するためである。ウィーン魔法学術団は発見時に「かつて存在したイングランドの聖堂に設置された祭壇画の一部かもしれない」(※8)と推測している他、ヴェルフリンに学んだドイツの魔法美術史学者フランツ・ハルモニウス(1914)は、様式的観点から15世紀後半のイタリアで活動したルカ・ゼフィロッリ(Luca Zephyrolli)の手になるものと判断した上で、「イタリアに交流のあった者がポリプティク(多翼祭壇画)の一部としてイングランド魔術師団に持ち込んだに違いない」としている(※9)。しかし、戦後の東西の魔術師団の交流、ニュー・アート・ヒストリーの手法の輸入、その他種々の記録資料の発見に伴い、本作を物語画に位置付ける見方は批判されるようになった。石井(1990)による契約書の発見(※10)に続き、デュースタイン(1993)の邸宅・礼拝堂跡地調査(※11)によって本作を祈念画とする見解はほぼ不動のものとなった。


 本作が祈念画として描かれたことは史料上明らかにはなったが、作品の画面構成に立ち返ると、もう一つの矛盾が存在する。使用されていた顔料の問題である。本作は龍と雲の灰色、大地の緑色と黄土色、空の薄青色を用いて比較的同じトーンで着色されているが、龍の目にはウルトラマリンが、龍の翼の部分には銀が使用されていることが2007年の調査(※12)により明らかになった。絵画と顔料の関係はバクサンドールが既に指摘しているが、顔料においてウルトラマリンは金や銀に次いで高価なものであった。さらに単位量当たりの価格によって等級が分かれており、例えば1485年に制作された「マギの礼拝」の制作に当たり画家ドメニコ・ギルランダイオが交わした契約では、「さらに青色には、一オンスあたり四フロリンほどの高価なウルトラマリンでなくてはならない」という指定がなされている(※13)。ウルトラマリンのオリエンタルな色合いと扱いにくい性質は絵の一部分を際立たせる手段となっていたし、またウルトラマリン自体が持つ魔力の強さと浄化作用から物語画に多用されていた(※14)のである。


 また時代が下るにつれて一般世界で顔料の価格がさほど重視されなくなったことも見逃せない。15世紀における深刻な金の供給不足やキリスト教的禁欲主義の強化といった社会的慣習が絵画にも波及し、(全面的にではなくとも)見た目のぜいたくさを大いに抑制した。15世紀後半になると等級別の青色の使い分けが契約書の内容から消失し、アルベルティも言及していたように「あたりまえの色で黄金をの輝きを表現」できるような技術が重視された(※15)。つまり技術を重視しがちであった時代の流れにあって、本作品は形態や設置場所から祈念画の形式を取っていたにもかかわらず、画面の中身は物語画と見紛うものだったのである。


 以上検討したように、本作には構図、形式、顔料上の特殊性が認められる。次章では図像の成立背景の考察の前段階として、これまで顧みられることの少なかった注文主の経歴の詳細を分析する。



※6 1968年に大英図書館裏アーカイヴより出土した、ケンタウロ(1530)『魔術絵画の技法』(大庭汀訳)では、魔術絵画には「人と龍の調和」が通底しておらねばならず、ダミアーノを描いていない本作を「亜流(derivatio)」だと評している。



※7 石井(1990)前掲論文,p.55.


※8 ”Dieses Gemälde …könnte Teil eines Altarbildes sein, das in einer ehemaligen Kathedrale in Großbritannien angebracht war.” Bericht über eine Untersuchung der Gemälde in der Kollektion der Yardbird Kathedrale. Vienna. 1889. p.55.


※9 ハルモニウスは作品の来歴についても多少触れ、このように述べている。「様式の連関を顧みると、この筆致がイタリアの画家であったルカ・ゼフュロッリによることは疑いようもない事実である。.....この作品は幾人かの手に渡ったことだろう。しかし最終的にイタリアに交流のあった者がイングランド魔術師団に持ち込んだに違いないのだ。」“Betrachtet man die stilistischen Verbindungen, so besteht kein Zweifel, dass die Pinselführung von dem italienischen Künstler Luca Zepyrolli ist. … Das Werk kann durch mehrere Hände gegangen sein. Es muss jedoch schließlich von jemandem, der Kontakte nach Italien hatte, in das Magisterium in England gebracht wurden sein.” Franz von Harmonious, “Memorandum über italienische Gemälde von einer Reise nach England.” in M. Einhorn et al., Studien zur magischen Malerei im Mittelalter II, Köln, 1914, pp.244-245.


※10 石井(1990)前掲論文,p.27.


※11 Scott.K.Duestein(1993). ‘Identify the tableau of Kesepharyss: in the viewpoint of genre and place’. ArtesMagicae. 125(5). pp.44-45.


※12 鷹島弥生(2007)「ルネサンス期魔法絵画作品群における顔料・モティーフと保存状況の連関」『魔法化学史研究』12(38)p.133.


※13 マイケル・バクサンドール,篠塚二三男ほか訳(1989)『ルネサンス絵画の社会史』(平凡社)pp.23-27.


※14 鷹島(2007)前掲論文,p.144.


※15 バクサンドール(1989)前掲書,pp.34-37.

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